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列車は再び動き出して、相変わらず同じ車両に人は入ってこない。もっとも、今まで突然現れるばかりだったので乗り降りなんて意味がないなど今更の話ではあるが。

未だにこの空間のことは理解できないが、狼狽はなく適応しているような気持ちはあった。相変わらず、車窓からは同じような風景ばかりが続いていた。


月明かりもないのか、外の闇は不気味とかお化けが出そうとしか形容できない。見えるものなんて何もないと思って視線を列車に戻すと、ふと棚の上に何か置いてあるのに気がついた。茶色い長方形で、皮の鞄のようだった。

「誰ぞの、忘れもんか」

と思って手に取ると、それは何も入ってないように軽い。さすがに勝手に開けちゃまずいかとは思ったが、こんな不思議な空間でマナーだなんだと釘を刺されることはないと思って、つい開けてしまった。


中には妙に厚い本が入っていた。かなり年季が入っているが、覚えがある。生まれ育った田舎の実家で、学問に良いからとカッコつけて、内容もわからんのに持ち歩いていたものだった。

「実に青い思い出だ」

なんて思っていると、本にはところどころ印があるのに気がついた。


ひとつは、夢破れた男を笑う一節。もうひとつは、偉い人間を目指す方法。もうひとつは、堕落した時の対処法についてだ。最後の対処法のページだけ10から20ほど抜け落ちている。

「なかなか酷いもんだな。今欲しいと思ったことだけ、切り取られているようにないじゃないか」

皮肉のように見えて、ふっと無意識に笑った。この本の印はどうにも自分自身を突き刺しているようだった。


「読み終えたかな」

本の印の部分だけをスラスラと読んでいたら、目の前にはホームにいた老人が立っていた。急に声が聞こえたから驚いたが、ようやく誘った人間に会えたのだ。

「お父さん、この列車はなんだい」

少し間が空いて返ってきた。

「ここはな、お前さんという人間の、記憶の整理をしている列車だ」

「記憶の整理?」

「迷っていたようだったからのう」

確かに、今までこの列車で起こってきたことは現実的には考えられない内容だ。それもどこか、もう関わることのないことや、心残りにしていたことばかりが現れている。

「ではあなたも、私の記憶の中にいる人なのですか」

「勿論。記憶と言ってもついさっきあった人、って認識だけじゃろうがな」


老人は私が持っていた本を手に取って、すべてを見透かしたように、にこりと微笑んだ。

「少し、己というものに向き合えたか」

自分ではわかっていたつもりだったが、雲の上から落とされて、嫉妬で腐っていただけ、そんな単純な答えを認めたくなかった。他人からは常に偉い人間でいたくて、自尊心というものを捨てたくなかったのだ。

「今まで、己というものに振り回されていたに過ぎなかったのかもしれない」

心の中で浮かんだ言葉をそのまま口に出した時、やっと悔し涙が出てきた。


気がつくと老人はいなかったが、老人が座っていた所には1枚の紙切れと、本から抜けていた数頁が置いてあった。紙切れには、東京駅が終点だということと、送り先も宛先も自分だと記されていた。


無愛想な車掌がやってきて、「そろそろ終点ですよ、お客さん」と言った。すると列車は突然として明かりのある世界に入り込んだようで、持ち場に戻った車掌はハッキリした声で「東京」と言った。戸が開いた時、やっとこの列車に別れを告げた。


ホームには相変わらず誰もいない。風もなく、ただ静寂な世界が広がっている。あの不思議な列車も、降りてからすぐ最初からいなかったように消えていた。

3分後には帰路につく終電がやってきて、平常通り数人の客を乗せて出発する。


決して爽やかな気持ちではないが、どうにも今の私から自尊心というものは見当たらない。目の腫れと、ハッキリ悔しいと認めた記憶と共にどこかに流れていったようだった。


破かれていた数頁を目にしながら、明日のことを少し楽しみにしている。



終わり

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神サマが死んだ日 深爪之人 @karorys

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