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駅に消えていく父親を見て、少しばかり涙が溢れてきた。予期もしない夢のような出来事だったが、心中では夢だと思いつつもこれほど嬉しいことはなかった。駅のホームは相変わらず暗黒で、父親の姿もどこにもなかった。


わからないことは多い。冷静に考えれば意味不明な出来事の連続だが、あまり驚きとか混乱とかそういうものはなく、むしろ不気味なほどの居心地の良さが勝っていた。暗黒で先の見えない列車の外より、何が起こるのかわからないこの列車の未知を選んだとも言える。


元にいた座席に戻ってすぐ、切符というものが本当にあるのか確認した。身に覚えはないが、この列車に乗る直前に切符を渡されているはず、と確か車掌は言っていた。

なら列車に乗る前変わったことがあったか。そういえばと、会社からの封筒を老人から受け取ったことを思い出した。すると驚いた。封筒の中身はすっかりなくなって、代わりに中からトウキョウと小さく印字された切符と思しきものが見つかった。


車掌が歩いてきたので、これかと思って切符を差し出してみると、車掌は何も言わず切符に鋏を入れた。

恐る恐る聞いた。

「車掌さん、次の駅はどこですか」

「次は上野ですかね」

そう返ってきた。

これがもし夢ではないのなら、私は今死者が乗るはずの列車に乗っているのかもしれない。だから「終点はあの世です」なんて言われるかもしれない。


外をボケっと眺めていると、対角線向こう側の窓席に男性が現れた。まるで最初から乗っていたかのように静かだったが、男性もこちらに気付いて近寄ってきた。

男性は特徴のない顔立ちで、覇気も何も感じない。そしてまた、見覚えがない。見た目は……まあまあ若いだろうってことはわかるのだが、どこか掴み所に困る男と言えた。

「驚いたな。あなたとこんなところで出会えるとは夢にも思いませんでしたよ。これは驚きというよりサプライズですね」

「あの、どちら様でしたっけ」

「そうやって他人扱いですか。困ったなぁ」

男性は、ペラペラ喋ったと思ったら首を傾げて、白い歯を見せてにやけている。とはいえ親しげに話してはいるのだから、どこかで知り合った人物なのは間違いない。ただ、思い出せない。

誰だろうと考えていると、また男性から口を開いた。

「先輩。僕は一応、先輩に感謝しているんですよ。心の底からね」

「そりゃどうも。私はどうにもその内容がパッとしないのだが」

「それはそうでしょうね」

先輩、と私を呼ぶ彼は終始笑っているように見える。一方的に身に覚えのない感謝を受けてはいるものの、どうにも腑に落ちない。それにまた、脳裏でガリガリと何かを引っ掻くような違和感が現れはじめた。

「先輩のおかげでようやく、僕のしたいことができるようになったんですよ。雲の上に登ることができた」

言葉の一つ一つがなぜか重く突き刺さる。鋭利な痛みではなく、スコップで心臓を掘ったかのような欠如感と、脱力感が襲った。そうして少しばかり息苦しくなって、違和感の正体が近付いてきていた。

「先輩。だから先輩の営業ルート、もう暫くお借りしますね」

鼓動が嫌な音を立てて、冷や汗は額に現れた。この違和感の正体は、私が十年かけて築いた営業ルートに、何食わぬ顔で横入りしてきた複数の人間だ。わからないわけだ。それは特定の誰かではなかったからだ。

「ふざけるな!」

胸が締め付けられそうになる見えない痛みの中で、ようやく言葉を返すことができた。一番言いたくて、言えなかった言葉だ。

「私が開拓のために浪費した苦労の時間。この財産を奪うのがお前のやりたいことなのか」

「奪うなんて言い過ぎですよ。僕たちだから有効活用できて、保持もできるんです。適材適所ってやつです」

「馬鹿げた持論にすぎない。そうなればお前、お前の努力は」

「僕達は盗人ではありません。雲の上に手を届かせるために、僕たちなりの努力をしただけです」

どんなに声を出そうとしても、何も言い返せなかった。確かに、彼らが分割して引き継いだ営業ルートはいずれも発展と保持に成功して、私が歩いてきた道は未だに会社を救っている。彼らがいなければ今の繁栄はないともされているし、私の功績は消える一方だ。


私の力では、今の大規模な繁栄はない。だから全てが正論で、文句の一つも作れない事実だから、私は何の反論もできず胃を傷つける日々だった。


私の中で交差していたのはちっぽけで青臭い嫉妬心と、仕事で行き詰まった言い訳と、未熟で十分なほど傷を負った自尊心だ。

「先輩。お気持ちはわからなくはないです。理解もしたくありませんけど」

この後輩たちの奥底にある心が、確かに私にそう言っていたようだった。凡人の集まりだと彼らを常に雲の上から見下ろしていた私は、知らず知らずに引きずりおろされて、今こうして虚しさだけを残している。


少しばかり長く感じる沈黙の時間ができた。後輩もさっきまでのにやけ面はなく、気まずそうに私から視線を逸らしているだけに見える。いや、それは私自信がそうしているからわかることなのだが。

「先輩」

小さくそう呟くと、後輩たちは座席を空けて、廊下に立って言った。

「先輩がいなかったら今の自分はない。だから、感謝はしているんです。いくら青臭くても、先輩はずっと雲の上を知る人です」

「しかし結果はそうではない」

「いいえ、何もないところから1を作り出せる才能なんて、僕たちにはありませんから」

彼らは強い口調で言っていた。そこに不快感と胸を抉るようなトゲがあっても、野心はまるで見えなかった。


車両は上野駅に到着したようで、後輩たちも降りていこうとした。軽く礼をして、無言のまま立ち去るだけだった。


彼らは目標を叶える手段の1つとして、私を雲の上から引きずり下ろして、雲の上に登ろうとしただけなのだろう。

同時に気付かされたのは、私は彼らを恨む一方で、嫉妬と自尊心を守るために力を注いで、ただ努力を止めてしまったのだろう。


上野駅と呼ばれた暗黒の世界は、私が営業ルートとして開拓したエリアだ。彼らもまたそこで、今を保持する努力を忘れてはいないだろう。

「どうも、吹っ切れたような。理解できたような」

モヤモヤが晴れたわけではないが、私の口から無意識にそんな言葉が飛び出した。

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