第19話
部屋に戻ったら、世界史のノートを後ろから開いて、さっきの考えの要点を書く。もう一度なぞってみても、やはり始めてみてから考えるのが正解なように思えたから、大きく息を吐いてノートを閉じる。
それでも風呂の中でも続きを考える。多分、数学的な、もしくは学校のテストのような、明確な「答え」は存在しない問いなのだと確信する。どの方向に行っても何かは起きるし、起きないものは起きないし、だけど、その何かは行く先によって大きく異なる。だからこれは回答を探す旅ではなくて、決断をする旅なのだ。もしかしたら今後の人生も、こう言うタイプの問いが続くのかも知れない。それなのに回答を探してしまったら、永遠に迷子になるだろう。誰も正解を教えてはくれない。だってそもそもないのだから。そうすると、他者の意見というのも、相対的なものとして、参考にはするけど決断をするのは自分であり、自分でしかないと言う自覚はとても重要なものになるのだと思う。自分の人生だから、その責任を自分で取れると言うのはいいことのように思う。でももっと大きくなったら、自分の決断が他の人を巻き込むと言うことも出て来るのだろうか。……出て来る。リーダーとか政治家とかはそうだ。ただ、そう言う立場を回避することは出来るかも知れないし、そう言う立場にこそ喜びを見出だす人もいるのだと思う。
考えながら入っていたら、いつの間にか体を洗い終えていて、自分に付いているローテーションの強固さに驚いた。
自室へ帰っていつもなら本を読む時間。続きを楽しみにしている『リードオーバー』だけど、今日はそれどころじゃない。そう思ったけど、やっぱり読むことにした。このままじゃ脳が焼き切れそうだから。
でもそんな状態では文章が頭に入って来ない。滑る。これはダメだ。数分頑張って、閉じる。パタンと言う音が耳に心地良かった。
興奮状態の頭では眠れないとか、あるのだろうか。生まれてこの方寝付けなかったことなどない。運動をしているせいかも知れないし、単に夜は眠ると言うのが正常の営みだからそうなっているだけかも知れない。ここまでの頭とこころが燃え盛る経験がなかったからかも知れない。
音楽もマンガも、ラノベも、もちろん教科書も、受け入れる気になれない。真山がダメなら他は全部ダメなのは自明の理だ。だから、もう寝ることにする。いつもより二時間近く早いけど、横になっていれば寝るだろう。生物としての俺はきっと、強靭なリズムを刻んでいる筈だから。
部屋の電気を消して、ゴロリと横になる。
「ファーー、ホイ!」
自分のした行動が、思い返すと、滑稽だ。あのときは真剣だった。何かを今すぐしないと、俺を刻まないと、そう言う衝動が恥ずかしさに勝った。シモンさんを始めみんながそれに呼応してくれた。もし放置されたら、痛々しかっただろう。でもその可能性は考えなかった。そして実際にみんなが動いた。場の雰囲気と言うものがあるのだと思う。シモンさんが作ったそれの上だから、俺の拙いパフォーマンスが意味のあるものになった。そうだよ。あれは人のふんどしで相撲を取っていたんだ。あの「場」を作る力こそがシモンさんの強力無比な芸術力なのだ。彼はパフォーマーだから、そう言う力を必要として、発揮した。だったら、文学ではどんな力が必要になるだろうーーーー。
思考が座り込みを始めて、連鎖的に脳が機能を停止する。はい、今日の限界はここね、と体に言われているみたいだった。気が付いたら、もう朝だった。
朝食。
ノバナが居た。
「おはよう、ここ、いい?」
「もちろん」
「ノバナは昨日はよく眠れた?」
「うん。いつも通りだよ。リュータは?」
「早く寝た。考えることが山のようにあったけど、概ね考え尽くして、気が付いたら朝だった」
ノバナが、にっ、と笑う。
「リュータは芸術家になるのかな?」
核心過ぎて驚き体が飛び上がる。
「どうしてそれを?」
「だってシモンさんとの会話がそう言う感じだったから、それで考えるとしたら、これしかない」
「俺が何時間もかかった思考を、数秒で……」
「岡目八目だよ。でも続きは合宿所でね」
ノバナは食べ終えて行ってしまった。
俺は自分の左側に立っている太い柱を見る。昨日はこの周りを回った。何だか、俺が芸術家になる記念碑のように感じる。それは同時に芸術家ではない俺の墓標のようでもある。柱は何も言わないけど、俺の記憶がカラフルな音と人を何度でも呼び覚ます。
約束の時間になったので勉強部屋に向かう途中で、ノバナと会った。
「リュータ、困ったことが起きたよ。と言うか起きていたことに気が付いた」
「どうしたの?」
「書く用の紙を買ってなかった」
「あ」
俺も完全に忘れてた。何に書くつもりだったのだろう。
「だから、先んじて買いに行こうよ。コンビニで仕方ない」
「そうだね。ごめん、俺も気付かなかった」
寮を出てコンビニに行って、帰って来るまで十五分。
「リュータは芸術家になるの?」
「なることに決めた。ただし、やってみて合わなかったらやめる」
「お試しってことか。それがいいと思う」
「ノバナは芸術家なの?」
「目指している先が真山白馬だから、芸術家になるしか道はないと思っているよ」
「やっていて、大変じゃない?」
「ずーっと芸術している訳じゃないから、大丈夫。もし二十四時間芸術家であれってなったら、しんどいかも」
「やめたくなったことってある?」
「ないよ」
「文学以外をしたいって思ったことは?」
「実は、絵画、マンガ、は描いてたよ、中学校のとき。ピアノも弾けるんだよ」
「マジか。俺は剣道しか出来ない」
ノバナは、あははは、と笑う。
「何をやって来たかは影響はするけど全てじゃないし、違うジャンルでもしっかり深くやって来た経験って、他のジャンルに向かうときに成長のスピードを上げるから、少なくとも、アーティストをやる上で無駄な経験ってのは存在しないと考えていいと思うよ」
「そんなもんなのか」
「そう、そんなもんよ。だから、私が色々に手を出したのも、意味があると言えばあるし、クリティカルかと言えばそうでもない。むしろ、今大事なのは小説に一本化している私、と言う事実」
「俺も小説一本で行く、と言いたいけど、詩とかエッセイとかも興味がある。論説はいまいちだけど」
「どれも文を書くものだから、大枠では同じジャンルでいいと思うよ。さあ、着いた」
借りて来た鍵でドアを開ける。サウナのような熱気。窓を一旦開けて、クーラーを入れる。無言で気温の変化を追って、窓を閉める。
「じゃあ、早速始めようか」
ノバナが仕切る態勢に入る。
「よろしくお願いします」
「まあ、二人なんだし堅苦しくなくやろうよ、ね?」
「うん。で、最初はどうする?」
「最初の午前中は、何をするかを決めるところから始めようよ。今後のスケジュールを決めるの」
「なるほど。突拍子がなくてもいい?」
「もちろん。後で吟味すればいいから」
「まず、どうしてノバナが小説を書き始めたのか知りたい」
「分かった」
「次に、芸術として文学をすることについて語り合いたい」
「了解」
「と言うか、そこをはっきりさせてから書き始めたい」
「いいよ」
「課題的なやつで書く練習してみたい」
「あるよあるよ〜。文芸部お得意のやつだよ」
「自由に書くのもやってみたい」
「もちろんそれもするよ」
「音読は?」
「これは私の考えなんだけど、自分じゃなくて相手のを音読するってのはどう?」
「あ、面白いかも。ちょっと照れる」
「あとは……?」
「パソコン打ちじゃないのは何故?」
「パソコンでもいいよ。私は自分のは持ってないからいつもは学校のを使っているけど、ここでは仕方ないので手書きで行こうと思って」
「俺も自分のパソコンは持ってないや。今時珍しいね、お互いに」
「実家には共有のがあったから、一人暮らし中だから、その間はなくてもいいかなって思って、私は」
「俺もネットはスマホで見れるからって理由で買ってない」
「じゃあこんなものね」
俺は挙手する。
「はい、リュータ君」
「俺のペンネームが必要です。それと、文学をするのに必要な能力を知りたい」
「いいですね。それは重要ですね」
「ノバナがなければ俺は以上だよ」
「うん。これで全部でいいと思う」
話しながら紙にノバナはメモしていて、一緒にそれを覗き込みながらやる順番を決める。実際に書く練習の前に、話し合うべきことを話して、ペンネームと必要な能力を洗い出しすことにする。午前中まででそこまで行きたいところだ。
「ノバナの話を最初に聞きたい。どうして、文学を始めたの?」
それはね、とノバナが真剣な顔になる。俺は居住まいを正す。
「元々創作することが好きで、これはもう、いつから好きとかは分からないくらい昔からなのね。気が付いたらお絵かきは日常に溶け込んでいたし、ピアノを始めたときのことも覚えてなければ初めて作曲した日のことも覚えてない。私の人生は創作をしている途中から始まったんだ」
「生まれつきの芸術家……」
自分がナチュラルボーンではないと理解したことがパッと浮かぶ。そこには少しよりずっと多量の、羨望があった。
「そんな大層なものじゃないよ。子供が何かを創るのが好きってレベル。でも小学校の上の方になってからは意識するようになった。イラストとか漫画を真剣に描いてたのはその頃のこと。逆にピアノは限界を既に薄々感じていたんだよね。上手な子はずっと先に、ずっと早く、加速するように離れてゆく。趣味としてやるには悪くないのだけど、この年で趣味と決め付けて何かを修行はしたくない」
俺は自分がやっている剣道が、趣味だと分かっている。全国を狙っている訳でもないし、その能力がある訳でもないし、そのための非常な努力を重ねている訳でもない。何で竹刀振ってるんだろう。絶対に俺は剣道を中心に生きてないし、これからもその予定もないのに。
「そんな訳で、ピアノや作曲は私の一番になる可能性を失った」
「いや、ノバナがそう決断したってことだと思う」
ノバナはニコリと微笑む。
「それが正解。私が見切りを付けた。で、残ったイラスト、漫画。この二つの最大の違いって、分かる?」
「ストーリーの有無」
「そう。イラストにもストーリーを乗せることは出来るけど、それはほのめかす程度。漫画はストーリーこそが中心で、絵は媒介物。で、この両者をやっている内に、ストーリーを考える方が面白くなって来ちゃったんだ。これが中二の頃。絵って描くのにすごい労力がいるでしょ? だったらストーリーだけ考えた方が、そしてそれを表現した方が、自分の衝動に合っているような気がしたの。学校は中高一貫だから高校受験はなくて、十分に悩む時間があった。それで、漫画のようなストーリーを書くようになった」
「ノバナは高校から東京に来たんじゃないの?」
「ずっと東京だよ。他の子と違って、うちの場合は家族が地方に行っちゃったから、寮に入ったんだ。んで、そのストーリーって、ラノベみたいな感じだったり、マンガでやればいいことを文章でやってたり、ってので、どうもしっくり来なかったのね。真山白馬に魅了されたのは小学校のときだったし、読む本は文学ばかりだった。でもそのギャップに、好んで読むものと書くもののギャップに気付けないまま、違和感を抱えて一年が過ぎた頃、あれ、って思ったんだ」
「ノバナの好きなものが何かに気付いた」
「そう。好きだから同じようにやると言うのは単純だけど一抹の真理があると思う。少なくとも私の中の違和感の正体はそれだった。私が文章で表現されていて欲しいものは、文学だと言うことに気付いた。そしてこの寮に入るのを機に、文芸部の門を潜り、自分がする表現を文章に一本化したのでした」
「なるほど」
「だから、リュータに最初に見せた作品は、文芸としての本当に最初の作品なんだ。『舞茸あぶり』はマンガを描いていたときのペンネーム。創作歴は長いけど、文学歴は実は数ヶ月。これが私の文芸への道だよ」
「直しをしたときの反応のよさ、成長の早さは、きっとそう言う背景から来てるんだね」
「そう思うよ」
「舞茸のときも、自分の作品を出すときに、『私が面白いと思うものはこれ』ってやってた? それとも『君が面白いと思うのはこれでしょ?』ってやってた?」
「前者。唯我独尊だってよく言われてた。人気のある子の場合、リサーチとかしてたから、それによって内容を変えてたのが私はどうしても納得出来なかったんだ。私は私が最高と思うものを出す以外の方策で、作品を出したいとは思わない。それが当たり前だと思う」
エンターテイメントには決してならないと言う宣言だ。多分、そう言う考察は彼女はしていない。していないけど、明確な答えを出している。これが生まれ付きのアーティストなのだ。
「でもだからと言って、アドバイスは全て飲み込もうと思ってる」
「それは、よく知ってる。全部呑んでその上のを毎回出して来るから、脱帽半分、俺も言い甲斐がある」
「いつも本当にありがとう」
ノバナが頭を下げる。
「全然いいって。これからは俺も読んで貰うんだし、すぐにお互い様になるよ」
「そうだね」
笑い合うと放課後の教室とかで話している見たいなのに、俺達は人生を決めることを話している。
「だから、私にとって文学が芸術なのは、当たり前なんだ。そして私を表現するのが芸術。もしくは、私と言う人間を通したら世界がどう見えるかを表現したもの。ノバナさんは感動的にシンプルに芸術を捉えております」
「俺も、文学と芸術は一致すると結論してる。でも、芸術とは何ぞやは、まだ分からない。でも、ノバナの話を聞くと、それが正解のような気がする」
「うん。もう少し、いや年単位でそこは考えた方がいいよ。実際にやりながら。早く結論していけないことはないけど、書き始める前に決めてかかるのは大間違いだよ。私は私の人生を使ってそこまで行った。それを聞いて、すぐにああそうかと取り込むなんてことをしたら、リュータの価値観は不格好なコラージュにしかならない。取り込みながらも一つひとつ丁寧に、石臼で引くみたいに粉々にして、再構成して欲しい。自分の価値観を知ることは芸術の目的の一つでもあるし、芸術論について話すにはそれ以前の蓄積が必要だよ」
「別に考えなしに受け入れようとした訳じゃないよ」
俺だって何も考えないで生きているのではない。自分の価値観が生まれるプロセスくらい、向き合ったことは何度もある。
憮然とした表情をしていたのだろう。ノバナが困った顔をする。
「責めてるんじゃなくて、この方がいいよと伝えてるつもりなんだけど」
「うん。分かってる。顔変?」
「苦虫みたいな顔してる」
「ごめん。わざとじゃない」
俺は両手でほっぺたを引っ張る。思いの外伸びて、手が面白がって何回も引く。
ノバナはほっぺたが伸びる毎にほっとしたような顔になり、ちょっと笑って、大きく笑った。
「リュータ、ごめん。ちょっと言い方きつかったかも」
「うん。だからもう大丈夫」
ノバナは小さく深呼吸をする。
「芸術論はここまでで終わりにしない? 書いてからまた必要だと思ったら第二ラウンドしようよ」
「賛成。俺はまだ参加するだけの前提がないことが分かったし、俺としてもそう言う蓄積をしてから話した方がいいと思った」
「うん。じゃあ、ここまでで」
「了解」
今度は二人合わせて、深呼吸をする。勝手にタイミングが合って、笑う。
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