第12話
靖国通りを再び渡りながら、覗き小屋や風俗店がチラホラあったことを思い出す。すぐ目の前にあるのではなく、刹那に過去になったことから相対化されたのか、話題にしようと思った。
「風俗と言えばさ、真山白馬の『エンジェルズ・ルーティーン』、今読んでるんだ」
「私も読んだよ」
途端にちゃんとした感想のやり取りがしたくなった。
「あ、やっぱごめん。中途半端じゃなくて、ちゃんと読み終えてから、感想の言い合いをしたい」
「うん。そう言うと思った」
紀伊國屋には予想よりずっと早く着いた。入り口からしてそんじょそこらの本屋と規模が違う。
「何これ! すごいね。リュータ、すごいね。やっぱり新宿ってすごいね」
走り出すように本の海に飛び込むノバナ。きっと彼女は自由に動くから、迷子にならないように俺が意識し続けなくてはならない。そう気を引き締めたのだけど、ノバナがはたと止まって手招きする。
「真山白馬はここにも平積みになってるよ」
「本当だ。『リードオーバー』売れてるんだね、きっと」
「彼の文章が美味しい人がたくさん居るんだよ」
「俺もその一人。まだ知ったばかり」
「まだまだたくさん読んでない真山があるって、羨ましいな」
「たっぷり楽しませて頂きます」
ノバナは俺から離れ過ぎないスピードで、書架、平積み、色々な陳列の本達をさらって行く。この作者はどうだどか、この人のこの作品はどうだとか、アクセサリーで女の子がキャッキャするように語る。俺はその幅広さに唸る。
「結構読んでるね」
「読書好きで何年もやってるとこんなものだと思うよ。それに知っているものを言っているだけで、知らない本の方がずっと多いもん。でも、ここならいろんな本と出会えそうだから、時々来てみようと思う」
暗に俺が居るからじっくり吟味出来ないと言われた。
「ごめん。どこかで待ってようか?」
「違うの。今日はリュータがメインディッシュだからこれがいいの。でも、本が主菜の日を別に作って、溺れようと思っただけ。リュータが居ちゃいけないなんて、微塵も思ってない」
「そっか」
「初めてのところは緊張するから、一緒に来てくれてありがたいんだよ。そして、マーキングが出来たらゆっくりと漁る訳です」
「なるほど」
「でもさ、こんなに本があって、これまでも大量の人が大量に書いてて、これからもたくさんの文章が書かれる中で、私が書かなきゃいけない理由って、あるのかなって、この物量を前にすると思う」
何言ってんだ。そんなのあるに決まってる。
顔に出たようで、ノバナがじっと見た後に目を逸らす。
「何で怒ってるの?」
「ノバナが書く意味はあるに決まってるのに、そこに日和ってるから。世界にどれだけ文章があったとしても、ノバナが書く文章は、ノバナにしか書けない文章なんだよ。それが外側から見た理由。内側から見た理由は、分かるよね? 書きたいか、書いたくないか」
ノバナは気を付けをする。
「書きたいです」
「それ以上に必要な理由はある?」
「ありません」
「じゃあ、書いてよ。俺はノバナの文章がもっと読みたい。いつか、他の文章じゃ満足出来なくて、真山白馬も超えて、ノバナの文章の中毒者にして欲しい」
真顔だったノバナの双眸にじわっと涙が溜まる。それが少しの時間をかけて、溢れる。頬を流れる。俺は、美しいと思ってしまった。だから慌てもせず、慰めもせず、彼女の前でじっとその姿を見ていた。
「私、書く」
「うん」
「だって、直すところがあんなにあるんだもん。直したことを生かしたら次もあるんだもん。きっとまだまだずっと続くんだ。それに怯んでた。でも、書きたいの。私、書きたいの。だから、読んで。ずっと読んで」
「読むよ。もちろんだよ。俺は中毒者になるんだ」
「私、がんばる」
そこまで聞いてからハンカチを手渡したのは、その言葉を期待していたからではない。ただ、区切りがよかったからだ。ノバナは俺の渡したハンカチで涙を拭く。彼女の目が隠れるまで、周囲の視線があることに全く気が付かなかった。でも俺の腹は座っていた。女の子を泣かせることを揶揄されても、絶対に言わなくちゃいけないことがある。伝えるべきことがある。
「厳しい言い方をしてごめん。今後も弱気になったら話してよ。もうちょっと上手に話せるように努力するから」
「……ありがとう」
言うと同時にハンカチが返って来た。俺はそれをカバンに仕舞う。ノバナが続ける。
「だから、名前を決めないとね」
「うん。新宿に圧倒されて、すっかりそこから脱線してたね」
「出よう、マーキングはしっかり出来た」
それから外に出て、駅に向かうまでは何も喋らなかった。喧嘩した訳でもないし、気まずくもない。自然な形として喋らずに歩いた。駅に着く。
「なんか、南口の方にテラスがあるらしいの、行かない?」
「いいよ」
駅をぐるりと回る間にも、多くの店ともっと多くの人と擦れ違った。スマホに出した地図を頼りに南口のテラスに到着する。アンテナショップを通過したら、カフェがあったから、そこで休憩することにした。タイミングよく座れて、俺の正面に座ったノバナにはまだ、涙の色があった。
「まだ泣いてるの?」
「うんん、泣いてない。でも、書くことへの覚悟が問われていて、私はそれにyesと答えるのだけど、その自信はやっぱり揺らぎ易いもののような気がするんだ。もしかしたら、名前が決まったら、覚悟も決まるのかなって思って、クルクル考えてた」
「多分さ、覚悟って一回で全部決まるんじゃなくて、もっと時間の帯の中で決まってゆくものなんじゃないかって思うんだ。それでも、そのときそのときで最大の覚悟を決める、その積み重ねが必要なんじゃないかって思うんだ」
「さっき紀伊國屋で、いや、紀伊國屋事変で、一回決めた」
「うん。聞いた」
「だから一回、前に進もうと思う」
「分かった。どう進むの?」
ノバナは思い切り息を吸い込む。
「名前を決める」
「よしきた」
「野、を残すのはさっきやったから、花を残してみる」
「俺は花を残す方が素敵になると思う」
「じゃあ、最初から言ってよ」
「ごめん。で、何花?」
「読み方は、はな、か、ばな、がいいな。菜花は?」
「可愛いと思う」
「
「芸者っぽいけど、ノリは悪くないと思う」
「
「かっこいい。それ、候補に残そう」
俺は生徒手帳に書く。
「リュータもアイデア出して」
「
「まあまあ」
「ストレートに紅花」
「ちょっと違う」
「楽しいで、
「噺家みたい」
「苗字はつけるの?」
「それは候補がもうある」
「それって?」
「島峰」
俺は凍り付く。それは、あまりにも、……いいのか?
俺の様子をじっと見るノバナ。さっきまでが嘘のように、強い。
「これは私の意志。私の一族から一文字。そして、リュータの名前から一文字。私の苗字である青峰の青は、下の名前とぶつかり易いと思うから使わずに、峰を。そしてリュータの苗字である島崎から島を。これは候補じゃなくて決定に、今決めた」
「俺が入っていいの?」
「私が入れたいの。リュータに読んで貰わないと私の小説は育たなかった。きっとこれからもそう。だからせめて、名前にリュータを入れたい」
異論は受け付けないと顔に書いてある。
「分かった。じゃあ、その苗字に合う名前にしなきゃだね」
「さっきの紫花って、
「悪くない」
「多分、三文字がいいと思う。と言うか紫花でいいような気がして来た」
言われてみるとそんな気がする。でもこんなフィーリングで決めていいのか。もっと、意味とか画数とか考えなくていいのかな。
「リュータ、紫花にしようよ」
頭の中で三文字になる組み合わせをローラー作戦で検証する。
「
「小花は小さい鼻みたいだからパス。穂花は悪くないけど劣る。夜花は、結構いいかも」
「じゃあ、紫花と夜花を最終候補にしよう」
「……紫花で。名前のイメージの色が、紫の方が広がりがあって不安定。可能性を感じるからと言うのが選んだ理由だよ」
「分かった。ペンネームは『島峰紫花』に決定!」
「リュータ」
「はい」
「私は、名前を付けたことで、より一層書こうと思う」
「うん。期待してる」
「いい名前をありがとう」
俺は目を見開く。
「いや、ほとんど自分で決めたじゃん」
「触媒だよ。リュータという触媒がないと決まらなかったんだ。だから、ありがとう」
「そっか。紫花さん、頑張ってね」
ノバナは今日一番の笑顔で頷いた。
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