第9話

 これまでは、ふい、と居なくなってしまったノバナがそのまま座っている。明らかに俺達の用事は済んでいる。これはチャンスだ。彼女が立ち上がる前に勇気を出せ。土曜日の昼を一緒に過ごそうと誘うんだ、俺。

「今回も意見を書いてくれた紙、貰ってもいい?」

「もちろん」

 俺は彼女に紙を渡す。これが渡ったところから彼女が帰るまでがカウントダウンのように感じる。何もしなければ何も起きないままに、彼女は普通に部屋に帰るだろう。取り残された俺はコーラを飲み込んで、やはり自分の部屋に帰るのだ。……今日はそうじゃない未来が欲しい。

 さっきまで目の前のノバナのことしか見えても聞こえてもなかったのに、急に自分が人々のざわつきの中にいることを自覚する。公衆の面前で女の子を誘うことがひどく困難な気がする。でも、でも、それ以外に選択肢はない。ここでメールで言うのも変だし、部屋に帰った後にメールするのも妙だし、今日はこのタイミングを逃したら他はない。自分を説得するための理論武装はいくらでも出来そうだ。どうも理論で勇気は出ないみたいだ。

 ノバナが紙の内容を吟味している。さっき言ったことと同じことが書いてあるだけだから、すぐに読み終わってしまうだろう。ほら、ファイルに仕舞った。あとちょっとしかない。この一瞬を逃すな。

「ノバナ」

「何?」

「この後ヒマ?」

 ノバナはちょっと考える。あまり驚いてはいない様子だ。

「直しがあるから、ヒマではないよ」

「そっか」

 意見を貰ったらそれをすぐに反映させる。いい心がけだ。だけど、いや、それでいいのだけど。

「どうして?」

「え、いや、あの……」

 彼女がすぐに直しをすることと理解していない、きっとしばらく寝かすのだろう、そう言う考えの男とは思われたくない。それは当然の行動だし、それ以外を想定するのが間違っているのだ。でも、賽はもう投げられてしまっている。

「珍しいね、歯切れが悪い。さっきまでと別人みたい」

「うん。それは、種々の理由によってそうなっているのだ」

「喋り方まで変だよ」

 愚かな俺をこれ以上晒しても意味がない。やっと本物の覚悟が決まった。

「あのね、ヒマだったら一緒に街に遊びに行こうって、言おうと思ったんだ」

「いいね」

 勢いよくサムアップするノバナ。

「リュータと街に出るのは楽しそうだね」

「うん。でも、直しがあるよね」

「そうだね。貰った言葉をしっかりと咀嚼したいから……一時集合でどう?」

「へ?」

「三時間あれば大体今日出来ることは終わると思う。と言うかそれ以上は集中力がたない」

「てことは?」

「一時に集合して、まずはお昼を食べよう。寮のお昼ご飯、キャンセルしてさ」

「うん」

 強く頷き過ぎて景色が回る。回ることで一回意識から外れた景色が戻って来たとき、ノバナの笑顔があった。こころなしか頬が紅い気がする。ノバナも楽しみにしてくれているのだ。嬉しい。

「じゃあ、早速直しに入るね」

 ノバナはマックを後にする。俺はコーラを飲み干して、やはり寮に向かう。


 世界で一番長い三時間になるだろう。

 ワクワクドキドキ悶々。その必要性はないのだが、俺は寮の自室に居る。きっと何も手に付かないと自分で決めてしまって、ベッドに横になる。でも、横になることこそ手に付かない行為で、ゴロゴロゴロゴロ狭いベッドの上を転がり回る。

「決めつけはいけない。何かやってみよう」

 俺が差し当たってやりたいことは、『エンジェルズ・ルーティーン』の続きを読むことだ。昨晩は自家製のストイシズムの結果、読むことを禁じたから、続きを読みたい。手に取る。果たして、性描写のある本を読んで、この後の行動に影響は出ないだろうか。……それは大丈夫だろう。俺はセックスをしたことがない。もしするのなら相当の緊張を伴う筈だ。だから、うっかりやってしまうと言うことはあり得ない。そもそもノバナがいきなりそんなことをする子とは思えない。じゃあ、キスは? だから付き合ってないっつーの。触れたことすらないじゃないか。だから、今日は「友達」として街に出るだけだから、そう言うことは期待も予定もない。むしろ、そんなことをしようとするものなら、俺はノバナを大切に思っていないと捉えられると思う。だからもしあるとしても、『エンジェルズ』の内容を話してしまうことくらいだ。それはいいと思う。二人共が好きな真山白馬の作品なのだから。むしろ、ノバナも読んだことがあるんじゃないのかな。そうだ。だとしたら逆に読んでいる方が共通の話題が多くなるじゃないか。

「読もう」

 本を取り、栞のページから始める。

 途端に、本の世界に戻る。前回までに読んでいたところがキュッと接近して来て、俺はついさっきまで読んでいたかのように続きを読み始める。もう、現実の思考も感情もどこかに行ってしまった。俺は文彦になっている。


 四十五分後、集中力が途切れる。

「のどか……!」

 込み入った感情が胸を締め付ける。彼女は仕事として文彦に接している。だから他の客もある。でも、文彦の感覚としては彼女にとって自分は特別な誰かになって来ているように思える。それは妄想かも知れない。でも空想レベルの不確かさではなくて、妄想レベルの確固たる具合いを持っている。しかしだからと言ってのどかが文彦にその特別さを打ち明けることはない。ないのだが、接していて、会話をしていて、そしてセックスをしていて文彦は、俺だけは違うのだと感じる。でも客であることに変わりはないから、それ以上に踏み込めない。そう言う妄想と現実との間のせめぎ合いと、のどかの一つひとつの所作への意味の読み取りが、繚乱の如く飛び交って、華々しい想いの園を展開する。

 文彦は、のどかは、幸せになれるのだろうか。

 重層的。単純な二者関係なのに、そこに含まれるものは重層で、単純ではない。これがプロの小説。これが真山白馬の小説。これが俺を導く小説。

 目を瞑ってやや斜め上を向き、余韻の中にのどかを想う。俺は文彦。

 時計を見ると連続読書時間が伸びている。ちょっと嬉しい。と同時に現実に戻る。

 俺は風俗どころかセックスもしたことがない。なのに、こんな風に持っていかれている。もし経験があったらもっと深く理解するのだろうか。それとも経験に邪魔されて、没頭し辛くなるのだろうか。例えばマンガを読んでいたら殆どが経験したことのないものだけど、夢中になる。剣道マンガは逆にツッコミながら読んでしまうことを考えると、経験がない方がいいのかも知れない。いやいや、それは競技と言う範囲の話で、セックスというもっと一般的なことだったら違うのかも知れない。と言うより、一般化することの方が問題なのではないか。経験があっても没頭するものも、なくても没入出来ないものも、あって然るべきだろう。大事なのは今俺は真山の作品に溺れていると言う事実だ。少なくとも真山白馬の『エンジェルズ・ルーティーン』と俺の組み合わせは、熱中を生んでいる。鍵と鍵穴の組み合わせのようなものなのか、もっと別の出会いなのか、まだ分からないけど、ノバナにとっても同じだったらいいなと思う。

「まだ時間があるな」

 文学への集中は今はもうスタミナ切れだから、音楽を聴くことにする。聴きながらマンガを手に取って、読む。文学では音楽を聴きながらは無理だと思う。けど、音楽とマンガは相性がいい。不思議だ。

 出発の前に歯磨きをもう一回する。キスを想定しなくても、息が臭い男はダメだろう。

 服はさっきと同じ。もっとおしゃれをしようにも持ってないし、わざわざ変えると気合いが入り過ぎているみたいで構えられたら嫌だから、こうした。腹が減っている筈なのに、全然感じない。胸がパンパンに高鳴っている。待ち合わせは一階のベンチだから、もう行って待っていよう。

 階段を下る。

 一階のロビーのようなところで顔合わせのときに騒いでいた内の一人がソワソワした面持ちで座っていた。そこに、声の大きかった女子の内の一人がド派手なメイクで現れて、二人は連れ立って出て行った。二人とも名前は覚えていないけど、男の雰囲気も女のいで立ちも、初めてのデートの印象が強い。俺も外から見たら同じように見えるのだろう。みっともなくはない。ソワソワしないデートなんて、デートじゃない。だから、名前を忘れたあいつも、俺も、ちゃんとデートに向き合っているんだ。でも、ノバナがド派手なメイクで来たらどうしよう。ちょっと引いちゃうかも知れない。そんなことはないか。気合いを入れて会うような仲ではまだない、俺だけ片デートで、彼女から見たらただの友達との外出だから。あれ、なんだかやっぱり文彦とのどかにちょっと似てないか? ……いや、似てない。関係を持つ持たないの観点で全然違う。『夏待ち月』の二人とも違う。男女と言うことでまとめるのは、雑過ぎる。

 ベンチにはノバナはまだいなくて、そう言えば俺の方が待つのって初めてかも知れない。俺はさっきの彼と同じように、ソワソワしているけど、それを表面になるべく出さないようにして、持って来た『エンジェルズ・ルーティーン』を読もうとカバンから出した。でもよく考えたら、もの凄い集中力を必要とするような本を、ここで読みながら待つって、可能なのだろうか。『三四郎』のときのように滑りまくるんじゃないだろうか。せっかくの真山の作品を滑らせるのはいかにも惜しい。俺は本をカバンに戻した。かと言って、音楽を聞いていたら来たのに気付かないかも知れないし、携帯をいじっているのは現代では普通だけど、いじるようなアプリは入っていない。マンガは持って来てないし、参考書だって持って来ない。カバンをあっちこっち触ってみるけど、めぼしいものは一切ない。仕方ない。もう既に不審な動きをたっぷりしたけど、大人しく虚空を見つめながらソワソワしよう。ノバナのことと、この後のことを考えよう。彼もこう言った仕組みで一人ソワソワしていたのだ。話したこともないけど、今日だけは俺達は味方だ。

 だからノバナのことを考える。

 きっと俺が言ったことを実際に落とし込む作業をしている。俺は言うだけだけど、文章にそれを生かすのは相当に骨が折れるのだと思う。設定の詳細とか、話の終わり方だとか、かなり全体に影響がある項目が今回は多かった。いや、前回も文体とか色々を含めると全部直しになったかも知れない。もしかしたら、三時間で終わらずに、集中力が思った以上に発揮されて、気が付かないで俺は放置されるかも知れない。

 それでもいい。

 いい文章を書くことが一番大事なことだから、ちょっとやそっと待たされてもいい。甘んじてーーーー。

「お待たせ」

 ノバナの笑顔。

「全然待ってない」

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