第8話

 ノバナに読み終えたことを連絡したら、まだ三日あるけどやっぱり土曜日にマックで話をしようと決まった。俺は『リードオーバー』を読む訳にもいかないし、ノバナの『夏待ち月』ばかりを何回も読むのもつまらないしで、他の本を探すことにした。自然な流れで書店に入った後に気付く。俺はこんな行動、これまでしたことがない。

 読みたい本を、それも文芸書を探すために書店に入るなんて、前の自分からは信じられない変化だ。ラノベやマンガならまだしも、文学だよ? 俺は間違いなく文学を探しに今書店に居る。ここで「いや、俺はそんな男じゃない」と過去の因習に回帰するのも頭ごなしに否定は出来ない。でも、俺は逆のことを思う。新しい面白いが見付かったなら、どっぷりそれに漬かる方がいい。それによって他のライフスタイルが影響を受けるなら少しは勘案の余地があるけれども、既にライフスタイルは、夜は読書になっている。つまりもう生活の中に読むことが入っていて、今夜読むものがないことが嫌なのだ。

「とは言え、誰の小説がいいのかなんて全く分からない。真山白馬くらいしか今の人は知らない……」

 そこで、学校の授業で習ったような過去の文豪の文庫を開いてみる。夏目漱石、川端康成、太宰治、芥川龍之介。ノーベル賞を取ったと言うことで大江健三郎も。でもどれもピンと来ない。一ページ目で、もういっかな、になってしまう。古過ぎるせいなのか、たまたま取った作品がハズレだったのか、それとも俺がまだ未熟だから読めないのか、理由は判然としない。でも結論は明白で、今君達を読む気にはなれない。

 うろうろと書店内を歩いていたら、『リードオーバー』がポップ付きで平積みになっていた。

「やっぱり、真山の他のを読もう。それが一番確実だ」

 真山白馬の本は十冊以上が既に文庫になっていたから、文庫の中から一冊を決めることにした。

 タイトルへのフィーリングで手に取るものを選ぶ。『エンジェルズ・ルーティーン』。『掌に垂線』と同じくらいの厚さだ。パラパラと捲る。彼の世界観が自分の中にまだ残っているからなのか、吸い込まれるように読める。気を強く持たないとここでガシガシ読むことになってしまうと俺の中の危機管理システムが警鐘を鳴らしたので、強制終了的に顔を、バッ、と上に向ける。

 これ買う。

 紙のブックカバーをしてもらう。ノバナがそうしていたように、紙の背表紙に『エンジェルズ・ルーティーン』と書いたら、すっごくお揃いな気分で、一人にやけたまま寮まで帰った。


 遂に感想を言うことを要求されない状態で、自分がただ求めるだけのために文芸書を読む。

 『エンジェルズ・ルーティーン』は、疾走感のある小説だ。同じ文芸で、同じ作者でも、ここまで変化すると言うことに驚く、敬服する。変わらず文章は美味しい。かなり性的な描写があって、下半身が悶々する。それなのに、何て言うか、エロ本とかを読むときの感じとは明らかに違う。淫心をくすぐるのは手段で必要だけど目的はもっと奥にあるような。でも、女の子に勧めるのはし辛い内容ではある。

 やはり三十分くらいで集中力が切れる。栞を置いて、パタンと本を閉じる。目を瞑って今読んだところを思う。俺の行ったことのない場所、風俗でサービスをするお姉さんである、のどかと、そこに足繁く通う文彦の話。花魁とか水揚げとかが対照として話に出て来て、そう言う風に苦界から救い出すと言うことはないのだろうなと思う。それでも、文彦はのどかにこころ惹かれている。そう言う場所だから必ずセックスを伴う。でも、今の段階では文彦はのどかと話をしに来ているのではないかと思える。会いに来ているのではないかと思える。話はもう既に通い続けているところからスタートしているから、最初がどうであったのかは分からない。のどかがどう思っているのかも今の段階ではくっきりとはしない。

 次の日も読んだが、その次の日は先に『夏待ち月』のおさらいをした。ひとつ見落としていたのが、ノバナの文章の味についてだ。薄味だけど好きな方向の味だと思う。もしこれが嫌いな味だったら全然読みたくないと思ってしまいそう。この前書店では、大江健三郎の文章の味が酷かった。でもそれは逆にあの味が大好きな人にはたまらないのだと思う。ドリアンや納豆やくさやのようなものだろう。表現である以上万人に好かれると言うことはない筈だ。その作品を好きな人の多寡と、深く突き刺さることには相関があるのかな。狭い範囲の人にだけ美味しく感じるものは、広く好かれるものよりも、届くような。分からない。何となくそうであったらいいなと思うけど、広く好かれたからって言って奥まで届いていけない理由はない。狭いからと言って深い保証もない。直観と実際がズレていそうな気がする。と言ってもそれを調べる動機はない。手段もない。そう言う研究を大学の文学部とかではするのかも知れない。真っ白なノートに自由に描いていいと言われているくらいに手掛かりのない話だ。予感だけがある。きっとノバナの文章は俺に深く届くようになる。でも、今はまだそこまでではない。

 ノバナの『夏待ち月』を読んだら、『エンジェルズ・ルーティーン』を読んではいけない気がした。

 感想を伝えるまでに雑味を入れたくない。俺の体が『夏待ち月』の形になっているままで彼女に話したい。こだわりが感覚的なものから発生していても、それに殉じたい。きっと九十九パーセントは同じことを言うのだと思う。でも、その残りの一パーセントのために行動を規制したい。その一パーセントが何よりも大事な部位のような気がする。もしかしたら書く人と言うのはその一パーセントのために命を削っているのではないだろうか。美味しい文章とそうでない文章の差もそれくらいのものなのかも知れない。決定的な一パーセント。ならば読み手が同じ構えでいてもいいと思う。誰もがそれを要求されている訳じゃない。ノバナにとっての読み手の、俺だけがそれを要請されている。彼女からではなくて、俺から。

「やり過ぎなんてない」


 マックはマックで、まだ数回目なのに俺達の秘密の場所のような気がする。鬱蒼とした森の中でも、街の奥の廃ビルでもなくて、白昼堂々とした人のざわめきの中に秘密基地があるのだ。

「お待たせ」

「時間ぴったりだよ」

 いつもの席に座る。俺は原稿と感想の紙をカバンに探す。ノバナの顔が緊張の色を得てゆく。

「今日はどう言う順番がいい?」

「悪いところから……」

「分かった。でも最初に前回伝えたことの結果だけ言うね」

 ノバナはコクンと頷く。

「前回俺がノバナに直したらいいと言ったことは、全部クリアされていたんだ。それはそれで嬉しいのだけど、俺の意見が全てではないとも思った。ノバナはどう言う考えで俺の言ったことを、やったの?」

「リュータの指摘したことは、もっともだと思ったんだよ。前回『かすみ草』を直したときに、あ、これは今後も守っていった方がいい、そう確信したんだ。盲目的に従った訳じゃないよ」

「そうなんだ。それならよかった」

 俺は笑って見せようと思ったのに、顔が引きつって、変なキメ顔みたいになってしまった。その顔を見てもノバナは笑わない。じっと目を見ている。俺の言葉を待っている。

「『夏待ち月』を読んで、まず、人物の地の文での呼び方が気になった。美代と男が非対称だよね、男が匿名的」

「それは男が正体不明だと言うことを表現したんだ」

「うん。その効果は出ている。でも、二点、宿なのに『男』と言うのを合理的に説明して欲しい、つまり名前なしで泊まれるのかと言うこと。もう一点は、最後にハッピーエンドになるときには名前を名乗ってもいいんじゃないかと言うこと」

「それだったら最初から宿じゃなくした方がいいかも」

「確かに、それだと違和感がなくなるけど、男と昵懇じっこんになるエピソードが必要になるね」

「最後に名前を明かすのは、確かに必要かも知れない。それがハッピーエンドの構成要素になる」

「うん。次に、時代設定が曖昧に感じた。藩って江戸時代のイメージだから、転覆は無理なんじゃないかって。もっと、戦国時代とかにすればスムーズに頭に入って来たと思う」

 ノバナの顔にしまったの花が咲いた。

「考察不足だった」

「あと、満月に男が来る理由が書いてなくて、不思議なまま終わっちゃってる」

 しまったの花がさらに大輪になる。

「国を転覆させるなら、その予兆みたいなものがあったり、転覆させるだけの理由があったり、そう言う背景がもっと明らかになっていたらよかったと思う」

 花が咲き切って、その中からノバナが顔を出す。

「設定とか、背景とか、そう言うところが今回の反省点、ってことだね」

「そう思う。リアリティーが全てではないけれども、『どうして?』がたくさん残る状態で物語りから放り出される感じってのは、不全感がある。もちろん、それが目的なら、意図してなら全然問題ないんだけど」

「意図してない! 私は美代が幸せになる話を書きたかったの。そのために不安定な状況にして、それが収まると言う形にしたかった」

「本筋はそうなってると思う。本筋を支える脇がもっと詰められたんじゃないかな」

 ノバナの顔が中心に寄り始める。

「ねえ、ノバナ、いいところが今回はいっぱいあるよ」

「え?」

 急峻に解除される顔の収縮。目が早くくれと言っている。

「まず、さっきも言った通り、物語りの本筋がちゃんとしていて、収まりもいい。ただ、最後にちょっとしたどんでん返しがあるけど、その辺りは工夫の余地があると思う。居なくなることを仄めかすんじゃなくて、さらいに来るとか」

「そっか。本筋は大丈夫か。分かった。最後は考える」

「で、文章の味が、まだ薄味だけどあって、それがちょっとだけ美味しい」

「真山白馬のようにはいかないか」

「そうだね。でも美味しいんだよ。これってすごいことだと思う」

「どうして?」

「味気のない文章ってたくさんあると思うんだ。その中で味があって、しかも俺が好きな味だってのは、嬉しいことだよ。もっとも、俺好みになる必要性は全くないんだけどね」

「私はリュータが好きな文章を書きたい」

 ドキッとする。俺のことが好きと言われたみたいな気がする。俺もノバナが好きだ。でも違う。好きなんじゃなくて好きな文章だ。

「どうして?」

「リュータと私は好きな文章が似ていると思うの。私が最高と思う文章はきっとリュータもそう思う。だから、リュータが好きだって言い切れる文章を書きたい」

「そっちに頂きはないかも知れないよ?」

「行ってみて、なかったら次を探すから、行かせて欲しい」

「……俺は、ウェルカムだよ」

「旅路が長いか短いか分からないけど、よろしくお願いします」

 頭を下げるノバナ。俺も呼応して下げる。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 頭を上げると、ノバナは落ち着いた顔をしていた。泣くカウントダウンの顔ではなくて、ベンチや食堂で会うときの顔に近い。でも、どこか凛としている。俺は続きを話さなくてはならない。

「前回よりもずっと、小説の内容について論じられるのが俺はすごく進化だと思う」

「確かに、前回は文体とかだったものね」

 やっぱり、気になった幹を話さないのはアンフェアだ。

「でさ、女が男を待つって言うシチュエーションの小説を書いたのは、何か思うところがあってのことなの?」

「うーん、特にメッセージ性を持たせた訳じゃなくて、色々アイデアを出している内に、夏待ち月って単語が出て来たんだ。立ち待ち月、居待ち月、寝待ち月の延長線で。でも意味は全然違うものになってる。立ちながら待つ月と、夏を待つ月で主役が逆転してるでしょ? それでそれもいいなと思って、タイトルから物語りを考えたんだ」

「そっか。もしかしたらだから、設定が曖昧だったりするのかも知れない。何を伝えたいのかってのが明瞭じゃないと枝葉末節に意識が向きにくいのかも。伝達することがあることが必須ではないとは思うけど、書きたいことが明確なのは必要なことかも知れない」

「なるほど。書きたいことか。確かにこの小説では結局待つ女が幸せになると言う話になったけど、そう言うゴールを設定もしたけど、それを書くために文章の全てがあるような感覚は持ってなかったかも」

「書きたいことのために文章の全部がある、と言うのは極端だと思うけど、書き手的にはそう言うものなの?」

「分からない。でも、そう言う風に書いてみたらいいかも知れないって、今思った」

「そっか。やってみる?」

「やってみる」

 そこで俺の緊張がプツリと解ける。肩から力がふーっと抜ける。

「俺の今回の話はこれでおしまい」

 同じようにノバナからも、抜けてみて初めて分かる力みが取れる。

「何か、これまでと違って議論になったね」

 言われてみればそうだ。

「確かに。これからもこう言う感じになるのかも知れないね」

「一方的に怒られるのよりずっと面白い」

「俺は怒ったりしてないよ」

「でも、前のときなんて、こーんな顔をしてザクザク言ってくるから、泣いちゃったんだよ」

 ノバナは両手で目を吊り上げさせて見せる。

「でも、怒ってはいないよ」

「言われている方から見たら怖かったんだ。でも今日は何かもっとフラットな感じで、嬉しかった」

 ニコリと笑うノバナ。俺も自然と笑顔になる。心臓はドキドキする。

「よかった。感想を伝えるのも、今後もっと上手く出来るようになると思う。自分でも変化と成長を感じるよ」

「うん。今日はすごくよかった。今のところ泣く予定はありません」

「毎回泣かしたらどんだけの男だよ」

「そうなることは覚悟して来たんだよ? 自分でお願いしたんだけど」

「これからは笑って帰れるといいね」

「うん。可能な限り」

「可能な限り」

 どちらからともなく笑う。この営みが厳しいものを含んでいるとお互いが理解しているからだと思う。でも、二人が一緒に居るメインの理由だから、手を抜くことは出来ない。

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