第7話
「僕と浩子は繋がっていたからこそ膜があったけど、君達はまだ開通していないから膜ではない境界があるね」
「その境界をじりじりと壊していこうとしているんだ」
米良は頷く。
「正しいやり方をすれば膜なんてものは最初から出来ない。でもどれが正しいかは後から見ないと分からない。結果から正しさを推定するしかない」
「分かっている。しかもそれは一つの事例で正しかったからと言って、他でもそうだとは決められない」
「よく読み込んでいるね」
「飲み込んでいるんだ」
年上の米良に対してタメ口をきいているのにそれが自然なように思う。登場人物と自分は常にタメなのかも知れない。
「君はだから勇気があると言える」
「振り絞っている訳じゃないよ。恋が力をくれるんだ。そうせざるを得ないこころになるんだ」
「僕とは違う、みたいだ。少なくとも、より正しい方にはあるよ」
「きっとそうだと信じられるか、信じ切れずに進むかが、膜を生むか否かだと俺は理解した」
「そうなのかも知れない。でも君は知っている筈だ、もし膜が生まれたとしてもそれを破る方法は存在すると言うことを。だから安心して進めばいい」
「そうするよ」
米良が頷いて右の、道が続いている方角を向く。俺もそれに従じて振り向く。明るく輝くところからノバナが歩いて来た。
俺は米良と握手をして、ノバナの方に向かう。逆光でシルエットになっていてもそれがノバナだって分かっている。もっと近付けば表情も見えるだろう。いつも会うときと同じ制服――――。
夢の続きの記憶はないのに、涙が溢れて止まらなくなっている。全くの途中で目が覚めた。あの後に何かがあったのだろうか。分からない。でもこの胸の感覚は喪失と暖かみの両方を抱えている。懐かしい大切な人に、永久に会えないと思ったその人に、再会したときのような。
暫く泣いた。
意味も分からないまま、泣いた。泣くのが正解だと思えた。きっと予言とかではないからノバナの身に何かが起きていると言うことではないと思う。かと言って他の全ての人類とは関係がない確信がある。俺とノバナの二人だけの問題だ。それは膜のない境界の問題だ。いつか踏み越える線の問題だ。
ふるふるした胸のまま学校に向かう。泣いた分だけ遅れそうだったけど、急いだら帳尻が合った。学校は学校で、部活は部活で、帰路は帰路だった。夕食を食べて部屋に戻っても、風呂に入っても、感情の混乱は胸の底の方でぐしゃぐしゃに書いた線のように渦巻いている。こんな状態でノバナの新作を読んでもいいのだろうか。感想への批評への影響が強く出てしまうのではないか。でも、昨日も同じ理由で読まずに終えた。もしかしたら、真山白馬によって開かれた感受性は暫くよりももっとずっと長い期間俺をこの状態にキープするのかも知れない。だとしたら、これが終わることを読むことの条件とするのは愚策だと言うことになる。
「自分を整えてから向き合う、それが出来ない状況でも読まなくてはならない」
まるでプロの読み手のようなストイックな考えが俺の中に生まれた。しかし同時にもう一つの考えが反作用のように生まれる。
「感受性が開いている状態だからこそ読み取れるものもある」
真山の打撃は俺を元のままで居させてくれない。しかし現実は進んで行く。だとしたら、それでもやってみることの方が必要な行動だと結論した。もしやってみてダメなら次の手を考えればいい。失敗と言うものはこの場合存在しない。上手く行かなかったら次をする、ただそれだけのことなのだ。
方針は決まった。ちょうど風呂も入って寝るばかりの状態で、昨日まではこの時間帯に『掌に垂線』を読んでいたけど、今日はノバナの新作を読もう。
渡されたクリアファイル、『夏待ち月』を取り出す。
手に取ってみると、ずしっと重い。それが紙の重さではないことはすぐに分かる。もちろん中に鉛とかが挟み込まれている訳でもない。俺のこころが感じている責任と、多分ノバナへの想いから来る重さだ。前回も真剣に読んだが、その後のことがあるだけに今回はさらに重みが増している。心理的な変化を機械的な感覚として感受すると言う現象がちょっと面白い。それは比喩の筈なのに、現実の歪曲として体感されている。もしかしたら今慣用句になっているもの達も全て、単に体験を記述しただけの表現が最初だったのかも知れない。今までなかったと言うことは俺の方が変化したのか、それとも、変わらない俺であっても体験出来るくらいの大きなことがやって来たのかそれは分けられないけど、少なくとも俺にとって重要な「読み」であることは理解出来る。
タイトルの評価は読み終えてからするとして、ペンネームはどうだ。
「野花」とだけ書いてある。潔くていい。でも本名だから、俺はそれがいいとは言ったけど、やっぱり別の名前を考えてもいいのかも知れない。少なくとも「舞茸あぶり」よりずっといい。訊かなかったけど、どう言う発想であれになったのか全く想像が出来ない。
ページを捲ると本文が始まる。息を殺して読む。
昔の宿の話。
俺は読んで何かが引っ掛かったのだけどそれが何か分からなかったのであらすじをまとめた。すると、少しずつそれが氷解する。
まず、美代は名前であるのに対して相手が「男」と表記されていて、匿名な感じがある。それはそれでこの設定に効く効果だと思う。でも、だとしたら夫婦になるところで名前を名乗るとかしたらいいと思う。宿なのに名無しというのが変というのもあるけど、それは効果優先でいいようにも思う。
次に、藩の転覆が唐突過ぎる。そういうことが起きそうな気配を書いた方がいい。そもそも藩ってのは江戸時代になるから、それは無理があるから、もっと前の時代設定にした方がいいだろう。ああそうか、時代設定が曖昧なところが違和感に繋がっているんだ。どの時代でもいいけど、この時代、と決めて欲しい。
文体の感じとか、ラストが締めて終わっているのとか、前回の諫言は見事に生かされている。嬉しい。でも、終わり方が安直な感じが否めない。プチどんでん返しがあるけど、要らないんじゃないかな。もっとザバッと拐うくらいの方が気持ちいいかも。夏待ち月と言うタイトルは綺麗でいいと思うけど、だからと言って満月に必ず来る説明がないのは片手落ち感が拭えない。説明しなくていいこともたくさんあると思うし、その方がいいこともあるのだろうけど、これは説明が欲しい。最後のシーンで種明かしでもいいから、満月男の理由を知りたい。
一つひとつの感想と考えを紙に書いてゆく。
さけるチーズのように端っこから順に違和感の正体は明かされてゆく。でも、中心にもっとでっかいものがある。それに比べたら、他のものなんて枝葉末節に過ぎないと分かる。
本文をもう一度読む。
「あ」
もしかして、この物語りは物語り全体が比喩なのではないか。
「女が男の愛を待つ話、だ」
もしかして、この物語りはノバナの今を表現しているのではないか。
「ノバナが俺の愛を待つ話……?」
月は文学による交わりのとき。
夏は、まだどちらも決めていない告白の日のこと。
蜂起は、俺が覚悟を決めるために通過しなくてはいけない何か。
「これは、隠された形での、俺へのラブレターなのか!?」
いや待て。
暴走するな、俺。
これはあくまで彼女の書いたストーリーであって、彼女の願望ではないだろう。そんなことを言ったら恋の話は全てラブレターになってしまう。俺が今読み取ろうとしているのは、彼女が彼女そのものを小説に載せて、俺に読ませると言う、何ともまわりくどい方策が存在すると言う前提のものだ。カラオケで女子がラブソングを歌ったから俺のことを好きに違いないと判断したら、脳味噌沸いているんじゃないかと思うだろ。それと同じだよ。これはノバナの作品であって、ラブレターじゃない。ラブレターならそれそのものを彼女は書く筈だ。
「俺は俺の読みたい形で読んでいるだけだ」
最大の違和感の正体は、自分の中の恋愛的期待がくすぐられていたことだった。もしかしたらもしかするのかも知れない、彼女がうっかりそう言う気持ちを乗せるってことはあり得ることだ。でも、小説を書くと言うことに真摯であるならば、物語りは物語りである筈だ。それはだからこそ特定のテーマを除外しないし、限定されたテーマしか書かないと言うこともしない。俺が誤解することを恐れない。もちろん意図的にそう言うことをしたりもしない。きっとそうだ。
「だから、これは俺の願望。……恋が育っていることの証左だ」
そこにはもう一つ、小説は神聖なものであって、恋の伝達手段に落としてはいけないと言う感覚がある。ノバナがそれを守っていると言う期待がある。俺はノバナが好きだ。でもその気持ちは小説という二人の通路を通ってはいけない。その道とは違う道を通して伝えられなくてはならない。
小説を読むに際して、俺側のものが影響することがよく分かった。これは真山白馬の何かによるものではない。俺自身が抱えているものだ。これに関しては、ノバナに報告しなくてもいいと思う。と言うか恋を告白する形になってしまうので、出来ない。告白はちゃんとしたい。
俺は深くため息を
原稿をグッと持ち上げて、目の前に戻す。丁寧にクリアファイルに戻して、書いた感想を一緒に入れる。違和感の中心以外のものがそこには書いてある。中心の恋文疑惑は、入れないけど、それが残りの全てだったことはわかったから、必要なことは十分にしたと思えた。
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