第6話
読み始めて最初に気付いたのは、自分が文章を読むときの視点が以前と全く変わっていると言うことだった。文章の喉越しがどうかと言うところに意識が行く。ノバナのを直したときに感じた文体とかへの感受性がそのようにさせているのだと思う。真山白馬の文章の喉越しはすごくいい。渇いたときのスポーツドリンクのようにいくらでも行けそうだ。もしお酒を飲むのならビールとかってこう言う感覚なのだろうか。と言うのも、喉越しだけで酔えるのだ。これは内容とは関係のないものだと思う。文芸と言う言葉に芸が入っているのはこう言う理由なのかも知れない。内容ではなく、文章自体が、芸になっている。読み進めさせる原動力になる。
次に思ったのが、文章が平易だと言うこと。決めの表現は随所にあっても、基本的には「普通」と受け止められるような文章。プロだから難しい表現をたくさん使うのかと思いきやそうでもない。辞書が必要になることは今のところない。
三つ目が、その決めの表現が過不足がない。ぴったりその表現しかない、と思えるような表現なのだ。「彼女と掌を合わせてみても、二つの手の間には薄いプラスチックの膜があり、それは上下左右にどこまでも拡い」「夕闇に端から徐々に喰われゆく空」「僕のこころの砂漠の中に、オアシスを探す旅」と枚挙に暇がない。
とにかく読みやすい。スラスラ読める。あっと言う間に時間が過ぎるが、元々あまり読まない方だからか、急に失速したのでそこでやめた。三十分が経過していた。
「ノバナが勧めるだけのことはある」
閉じた文庫を手に持って眺めながら、文学の筆下ろしをされたような気持ちになる。ノバナにされたと言うのが嬉しい。深淵の入り口に立たせてもらったような気持ち。
全部を読んでから感想を言った方がいいとは思うけど、チャンスがあれば途中経過を彼女に伝えよう。
サプライズ失敗の感覚はもうどこにも残っていない。
それから毎日三十分ずつ読み進めた。電車とか学校では読まない。通勤中は他のマンガを読んだり、音楽を聴いたりしている。学校では学校の人間関係をやっている。部活も同じ。家に帰って来て、夕食を食べた後の時間で読む。ノバナの作品のような神聖さは全くないが、俺は楽しみに本を開くようになっていた。
「ここ、いい?」
「もちろん」
「新作はどう、って訊いて」
「新作はどう?」
「もうすぐ完成する。でも、今回は前回の反省を生かして、直しをしっかりやってから読んで貰おうと思います」
「楽しみにしてる」
「でさ、『掌に垂線』読んだ?」
「うん。今八割くらいまで来たよ」
ノバナは目をまん丸にして息を吸う。
「どう?」
「俺、生まれて初めて文学で面白いと思ってる。毎日区切って読んでるんだけど、楽しみになってる」
その顔のままノバナは細かく何回も頷く。
「私が好きなものが、好きって、素敵だね」
胸がドキン、とした。でも、俺もそう思った。思うより早く顔が笑った。
「本当に、そうだね」
そのまま心臓は鼓動の速度を落とさない。やっぱり、ノバナのことが、好きだ。
「じゃあ、その楽しみを邪魔してはいけないから、感想は読み終わったらね。その後に、私のを読んでね」
「盛り沢山だね」
「特盛で行かせて頂きます」
「絶対に完食してみせる」
二人で笑って、だから感想はここまでで、夕食と向き合う。
トレイを返すときにおばちゃんに「ごちそうさまでした」と言ったら、「何かいいことあった?」と訊かれて、曖昧な表情になっているだろうなと思いながら「ありました」と答えた。
部屋に帰れば真山が待っている。
物語りは佳境で、主人公の
今日もどんどん読み進める。三十分くらい経ったところで後数ページになった。
急に読むのが惜しくなる。このまま読めば文章は終わってしまう。物語りは終わってしまう。
でも、読みたい。こんな奇妙な葛藤は初めてだ。
そして答えは最初から決まっていて、読む。
読み終える。
文章をザーッと進んだ勢いが文庫の外まで続いて、この部屋までもが余韻の場所になって、俺はその中を
こんな世界があるのか。
こんな感覚があるのか。
これは読書にハマる人がいる訳だ。
殆ど、ドラッグみたいな感覚だと思う。テキストドラッグ。
ノバナもこうなったのだろう。
『リードオーバー』も読みたい。そりゃあんだけ読むのが楽しみで、新刊を嬉しく思うよね。
そしてこのレベルがノバナが目指しているレベル。俺と二人で辿り着けるのか全然分からない。けど、今はいいや。今はこの感じの中で、居たい。
俺は感覚に意識を向けつつ、小説の中身に声をかけるように思い出して、ベッドの上から動かなかった。
最高の時間はそれでもいずれ緩まって行き、減衰した分だけこの感動を誰かに伝えたいと言う衝動が育つ。でも取り敢えずは風呂に入ろう。寝る準備をしよう。この衝動をぶつける先は決まっている。次に会うまではさらに育成しよう、衝動そのものも、内容も。
風呂に入ると、さっきの感覚が呼び起こされた。いいフラッシュバック? それは風呂上りも暫く続いた。もしかしたら体が覚えた感覚だから、今後もこう言うことがあるのかも知れない。それはそれでいいけど、多過ぎたらダメな人間になってしまいそうだ。でも、読了感を手に入れるために小説を読むのは今後もする。ノバナが教えたキメ方だ。由来も効果も最高じゃないか。笑みが溢れる。
次の日学校でうっかり話しそうになる。でも堪える。最初に話すのはノバナと決めている。
食堂では会えなかった。元々の遭遇確率を考えれば昨日会って今日は会えないのは普通だけど、ことさらゆっくり夕食を食べた。ゆっくりしたが、彼女は現れなかった。もう食べ終えているのだろう。
『リードオーバー』は確かに俺の部屋にある。包むものを剥がせばすぐに読める。ほんの少しだけ誘惑があって、でもあれは記念碑だと頭を振る。そして、ノバナが読んだ後に貸してくれると言うのだからそれを待ちたい。彼女が読んだその本であることに価値があるのではなくて、約束に意義がある。そして何よりも他のものを入れる前のフレッシュな状態で感想を伝えたい。もし次を読めば俺の関心はそっちに移るし、上書きされる感覚で生で今ある感動が薄れる恐れがある。
Lineの通知。ノバナ。
新作が出来たから渡したいとのこと。一階のベンチで待ち合わせる。
俺は『掌に垂線』を片手に、階段を降りてゆく。
ベンチにはノバナがもう居た。
「お待たせ」
「全然」
「ちょうど、『掌に垂線』読み終えたよ」
「わお。じゃあ先に感想を訊いていい?」
「うん。俺の中でも喋りたくて爆発しそうだった」
「いいね」
秘密を共有する仲間の笑顔。俺はどんな顔をしているのだろう。
「あのね」
「うん」
宝箱を開けるときのような顔のノバナ。
「最高だった」
「だよね!」
「読み終わったら、何か、世界がふわーっと変わって、ずっとその中に
「最高の小説を読むとそうなるのです」
「最後の方とか、早く続きが読みたいのに、小説が終わってしまうのが嫌で、迷うんだけどもちろん読んで」
「分かる!」
「読書にハマるってのはこう言う体験からなんだってのが、体に刻み込まれたよ」
大きく何度も頷くノバナ。
「新刊読みたくなるの、分かるでしょ?」
「心底分かった。それでね、文章は平易なのに、読むと美味しいんだ。すごい不思議なんだけど、文章自体が美味しく感じるんだよね」
「完全に真山白馬とフィットしてるね」
「キラキラと輝く表現もあって、それも素敵だけど、何て言うか、
「うん。うん」
「まさか、とか、びっくり、とかが一切ないのに面白い。これってすごいことだと思う。マンガとかだとそう言うのがたくさんあるし、ギミックとかトリックとかそう言うのに依存しているところもあると思うんだけど、もっと真っ直ぐ、でも直球ではなくて、大きなグラウンドに斜めに白線を引くような感じ」
「素敵な表現だね」
「今はその白線の延長線上に俺は居る。今の俺には『掌に垂線』をさらによくする必要性が見付からない」
「完璧ってことだね」
「ノバナ、ありがとう。俺に新しい世界をくれた」
「くれたのは真山白馬だよ」
「でも、紹介してくれたのはノバナだよ」
「ん、確かにそうか。でもよかった、スマッシュヒットしたみたいで」
「満塁場外ホームランだよ」
何それ!? とノバナが笑う。俺は思いの丈をぶつけて、清々しい。清々しくなれたのはぶつけたものを全て彼女が受け止めてくれたからだと思う。
「感想が出尽くすまでは言って」
「うん。でも、もう伝え終わった」
「じゃあ、私の話ね」
「こっちも、すごい楽しみ」
クリアファイルに入った紙をノバナは俺の目の前に出す。俺はそこに書いてある文字列を読む。
「『
「そう。『夏待ち月』」
「これが新作。……読ませて頂きます」
「よろしくお願いします」
部屋に戻ったが、今日は感性的に大きく動き過ぎているから『夏待ち月』を読み始めるのは明日にしようと決めた。今日ばかりは不思議な夢を見そうな気がする。でも寝ない訳にはいかないから、寝る。
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