第5話
サツキからアジサイに勢力が塗り替えられて来ているのを横目に、霧に近いような雨の中を寮に帰る。
「ここ、いい?」
「もちろん」
飽きずに同じ挨拶を繰り返す。むしろ、同じ挨拶ということが二人の間に特別なものがあることを示しているのかも知れない。
「新作はどう、って訊いて」
「新作はどう?」
「やっと構想がまとまったところ。もう暫くお待ち下さい」
「分かった」
「あとね、文学好きとしては嬉しい、真山白馬の新刊がもうすぐ出るんだ」
「そう言うのってすぐに読みたいものなの?」
「もちろん。ハードカバーだからちょっと高いのが難点だけど」
ノバナは肩を竦めて見せる。それでもきっと読みたいのだ。彼女と話していて小説家の名前が出たのは初めてだから、相当好きに違いない。
「真山白馬って、ごめん、知らない」
「うーむ。『痕の街』とか『掌に垂線』辺りが有名だけど、知らない?」
「知らない」
「じゃあ今度貸すよ。私のばっかり読むのもつまらないでしょ?」
「全然つまらなくない。でも、今はノバナの新作待ちだから試しに読んでみてもいいかも」
そう言ってみたけど、ノバナ以外の作者の小説に興味が全然湧かない。素の興味は湧かないけど、ノバナが好きな小説と言うのは興味がある。ノバナに関連付けされた小説だけが読みたいのかも知れない。『三四郎』が全く読み進まないのも同じ理由かも知れない。
「オッケー、じゃあ今度渡すね。私のお勧めは『掌に垂線』だから、こっちを持ってくるよ」
「サンキュ。楽しみにしてる」
「うん」
「ごちそうさま」まで、それから何も喋らずに部屋に帰った。
スマホで真山白馬を調べる。確かに新刊の『リードオーバー』と言うハードカバーが来週発売とある。
もし、俺がこの本をプレゼントしたら、ノバナは喜ぶだろうか。いや、きっと喜ぶ。これまで見たことのないような笑顔で、俺のことを忘れたようにすぐに読み始めたりして……。
「買おう」
ハードカバーの小説を新刊で買うなんてしたことがない。文庫か中古でしか買ったことがない。その上でまともに読んだ文学は皆無で、表面を撫でるだけなら『三四郎』の一ページ目だけは擦り切れる程にしているけど、それは読んだとは言えない。今回も買ったところで自分が読む訳ではないから、ハードカバーの新刊を買ったことがないと言うことに傷が付く訳ではない。付いたところで何ともないのだけど。
決めたら、その日が楽しみになる。本を渡したときのノバナの顔が楽しみになる。
女の子にプレゼントをするなんて生まれて初めてだ。ちょっと照れ臭いけど、小説のことだから敢行出来る。
「ノバナ、喜ぶだろうな」
一人呟いて、にやにやと笑う。枕を抱きしめてベッドの上を転げ回る。サプライズはされるよりする側の方が楽しいみたいだ。計画を確実にするために明日予約をしに行こう。そして初日に買って、ラップして貰って、夕食の後に呼び出して、渡そう。一階のベンチがいい。夕闇に浮かぶ本、欲しいものを急にプレゼントされて驚き喜ぶノバナ、それを見てドキドキしながらこっちも嬉しい俺。
「完璧だ。完璧な未来だ」
ベッドを転がり過ぎて壁に頭をぶつけた。
それは月曜日発売だったので、部活の帰りに書店に寄る形で手に入れることになった。それでも夕食の時間には十分間に合う。もしノバナと会えなかったとしても、Lineで約束を取り付ければいい。
食堂には果たしてノバナが夕食を摂っていた。
彼女が座っているところに声を掛けることはずっと避けて来たことだ。でも、連綿と続いた慣習なんてたった一つの必要で粉砕される。
「ここ、いい?」
「あ、リュータ。もちろん」
彼女の正面に座る。でも、肝心の勇気が顔を隠す。いやすぐに胸を張って出てくる筈だ。
「リュータ、ちょっと遅めだね、部活大変だったの?」
「いや、たまたまだよ。部活はそれなりには大変だけど、根を上げる程じゃない」
「そっか」
本当は書店に寄っていたことは秘密にしなくてはならない。だってサプライズだから。
暫く黙って食べる二人。
真山白馬の新刊について話せ、俺。白身魚のフライを噛みながら自分を鼓舞してみるも、踏み出せない。
「リュータ、この前言ってた本、今貸しちゃっていい?」
「あ、うん」
「いつまでってのはないけど、いつかきっと返してね」
「うん。読み終わったらすぐに返すよ」
「ゆっくりでいいから」
「分かった」
「でね」
ノバナが嬉しそうな顔になる。ほんのり紅が差す。
「でね?」
「私今、どう見える?」
「嬉しそうで、楽しそう」
「どうして楽しいの、って訊いて」
「ノバナ、どうして嬉しいの? 楽しいの?」
「ジャジャーン」
ノバナがバッグから取り出したのは『リードオーバー』、既に栞が挟まれている。両手で大事そうに持って、彼女は顔の横に並べる。
「買っちゃった。いいでしょ」
「本当に嬉しそう」
本当はその表情は俺のために出て来る筈だったもの。でも、サプライズが失敗した事実を言いたくない。敗北を明らかにしたくない。
「まだ最初しか読んでないけど、傑作の匂いがプンプンするんだ。これも読み終えたら貸すね」
「ありがとう」
自分の声が硬くないか、自分の表情が固まってないか。触れてみるけど顔がどんな感じかは分からない。
ノバナは見せるだけ見せて満足したように、宝物を仕舞うときのように丁寧に、カバンに『リードオーバー』を格納する。
自室に戻るために鞄を持ち上げたら、重くて、それが入っている真山の本のせいだって分かっているけど、空振りしたサプライズの反動に眉を
「サプライズ……」
ファールで中々起き上がらないサッカー選手が顔を覆うときと全く同じ格好で、天井の光を遮る。
ノバナは嬉しそうだった。嬉しさが体から漏れる程だった。もし俺があそこで自分の悔しさを言葉にしていたらきっとそれに水を差して、真山の本を読む楽しさを汚したと思う。それくらいの重要度は彼女の中の俺にはあると信じたい。それとも「あはは、被っちゃったね」と軽く流されて「それぞれ読んで感想を言い合おう」って残酷な建設的言葉を投げかけられるのか。……それはないな。ノバナは人のこころを感受出来ないような子ではない。やっぱり、悪いことをしたな、って思わせてしまう。だからそう言う観点でも俺がサプライズ未遂を秘匿したことは価値のある判断だった。
「あれだけ楽しみにしていたら自分で買うってのはむしろ当然の行動だよ」
自分の行動が浅はかだったと徐々に思い知る。絶対に上手くいくと妄信していた自分が恥ずかしくなる。
でも、それ以上に自分の計画がやって失敗したのではなく、するまでもなく潰えたことが歯痒い。
「恋も同じかも知れない」
天井に向かって吐いた言葉が放物線を描いて自分の胸に落ちる。
「ずっと抱えているままで何もしないで終わる恋にしてしまったら、それは伝えてフラれる恋とは全然違った痛みになるのかも知れない」
ノバナにいつか自分の想いを伝えなくてはならない。
今度こそは混じりっ気なしの確信だ。
でも今じゃない。恋は始まったばかりだ。まだ極期を迎えてはいない。俺達は仲の良い男女の友達に、小説を通じてなって来た。打算ではない勝算がもっと欲しいし、今の関係が心地よくもある。
「でも、いつか。必ず想いを伝える。伝えずに終わるのはもう嫌だ」
俺はカバンから二冊の本を出す。『リードオーバー』はラッピングされたままの状態で本棚に入れた。これは記念碑だ。サプライズの記念じゃなくて、恋を実行する決意の記念だ。俺はこの星柄のラップを見る度に決意を新たにするだろう。きっと実行するその日にも手に取って見るだろう。中身はノバナに借りて読むから、本としての本懐は永久に遂げられないけど、そのまま包まれていて欲しい。そしてもしノバナと男女の仲になって、彼女が君を見たがったなら、中身まで見たいと言うのなら、そのときに初めて開封しよう。そうだ、記念碑とは想いを封印するためのものなのだ。
右手でそっとラッピングを撫でる。
二冊目の真山は『掌に垂線』、こっちは文庫だ。
ブックカバーがしてあって、カバーの背に『掌に垂線』と書いてある。女の子らしい字。だけどだからどんな表紙なのかは分からない。でも表紙なんてなくてもいいのかも知れない。中学生のときに古本屋で女の人が足を組んでいる表紙の文庫を見つけて、その足があまりに綺麗だったからその本を買ったことがあって、でも内容は足とは全く関係がなかった。詐欺ではないけれども、やられた感があった。しかし、俺が読んだ数少ない文学の一冊になったのだから、表紙は成功している。映画の予告編と似ている。予告はすごい面白いのに本編はあくびが出ると言うことは多い。どちらも宣伝と言うことだ。小説も映画も中身を知らないで読むし観るしだから、読ませるには宣伝は重要なのだろう。中身を知った上で何度も聴く音楽とは違う。でも今はどんな宣伝よりも強力なノバナの推薦で読むのだから、表紙は要らない。むしろ雑味になるだろうからブックカバーを外してまで見ようとは思わない。
ノバナの作品を見るときには禊をしてから真剣に臨むのが通例になっているけど、真山にそこまでする必要はない。俺はベッドの上で壁に寄っかかって、文庫のページを開いた。
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