第4話

 多分、小説と言うのは生まれたときから格のようなものがあるのだ。直された「かすみ草」を読んで最初に思ったのはそれだった。「かすみ草」は「かすみ草」のままで、「直した『かすみ草』」になっただけだった。前回の指摘に対してノバナは丁寧に応えてくれた。文体は整ったし、先生の人物は分かるし、ダジャレた言葉の重なりは刷新されている。でも「かすみ草」の範疇を出ないのだ。最初にこの世に刻印された場所から離れられない呪いでもあるかのように、よくなっているのだけどそれは「かすみ草」の手が届く距離の内側なのだ。だから、微細な指摘とか意見とかよりずっと、彼女に別の作品を書くことを勧めるのが、今回の結論になる。

「でも、それってやっぱり『かすみ草』はダメだって言うようなものだよな」

 だから別の手段があるとすれば、既存のものを生かして直すのではなくて、同じテーマで全くのゼロから書くことを勧めることだろう。いずれにせよ、意見を求められただけの素人が言っていいことを超えているように思う。どうしよう。こんなことを言ったら今度こそ嫌われるかも知れない。嫌われたくない。

「相手に嫌われてでも、相手のためになることが出来るかどうかってのが、愛の深さのひとつの指標だ」

 嫌い、と言う言葉で記憶が呼び覚まされた、叔父さんの弁が脳裏に浮かぶ。親とか、主治医とか、先生とか、誰かを育てたり治したりする人には絶対必要な資質だとも言っていた。まるで、それが出来るのが大人で、出来ないのが子供のように感じる。自己犠牲のようでいて、ちょっと違う。多分自己犠牲って言うのは、自分と相手と、第三者ないし別の目的があって成立するんじゃないだろうか。君を守るためにあの宇宙人に特攻して死ぬ、とか。いや、自分の大切な時間を本当は割きたくないけど割いて、困っている人を支援するプログラムに参加するってのもあるから、大事な相手が居ることは必須条件ではないのだろう。でも今回の場合は相手がいることが前提だ。だからそのパターンで考える必要がある。叔父さんの言う愛の形は、相手をよくしたいと言う気持ちと、その相手に嫌われたくないと言う気持ちの天秤のところが問題になっている。でも逆に考えてみると、相手に嫌われたくないから、相手にとって必要なことをしない、ってのは、全くもって相手のことを想っていない行為だ。だとすると、叔父さんの言ったことはもっと普遍的なのかも知れない。そもそも、人を愛すると言うことは相手に嫌われようが好かれようが、相手をよくしようとすることを指すのではないか。叔父さんは愛の深さの指標と言ったけど、むしろ、愛の有無の指標なんじゃないのか。

 自分の思考が加速してゆく、気持ちよく。

 君が良ければ後はどうでもいい、とまではならなくても、方向性はそうだ。ただし、「良い」の判断基準はあくまで自分にあって、相手の「良い」に迎合してはいけない。俺は正しい愛の図面を知った。でも図面と本物は恐らく天地の開きがある。……でも、やる価値がある。俺の想いを懸けてでも。

 俺は彼女が文学のために傷付くのをいとわない姿にこころを掴まれている自覚がある。彼女の役に立ちたい。でもやっぱり捨て石になるのは嫌だ。彼女をよくしつつ、嫌われない方法を模索する方が俺のニーズに合っている。俺が彼女を愛しているから彼女から嫌われてもいいと言うのは、恋の中では欺瞞でしかないと思う。もしくは、嫌われても関係が続く保証がある中でやる行為のように思う。親子とかってそうだよ、何があっても嫌いになっても、親子は続く。でも、彼女と俺は嫌われたらもう続く理由がない。

「だから、彼女との関係が続くことは優先されるべきものだ」

 もしもう二度とノバナと呼べなくなって、リュータと呼び掛けられなくなったらと思うと胸がきしむ。

「でもやっぱり迎合するのも、嘘で褒めるのも、違う」

 俺は近付きつつある結論に、肉薄して来ている実感に、拳を握り締める。

「俺は俺のありのままで、彼女の作品に対して感じたことを伝える。俺は俺のままで彼女に好かれたい。失敗して失うことは怖いけど、不実に彼女と付き合う方が、きっと百万倍も苦しい」

 思考の帰結に、情緒が追いかけて来て合流する。後は決意だけだ。

 俺は窓を開ける。

 寮の中庭を挟んで向こう側に女子寮が見える。そのどこにノバナが住んでいるかは分からない。見えているのかも知れない。そうでないのかも知れない。それでも、俺は女子寮を睨めつける。

「ノバナ」

 彼女を感じようとする。そうしたら、気配があるような気がした。

 それを胸いっぱいに吸い込む。

「君の本気には応えたい。どうか俺を嫌いにならないでくれ」

 女子寮に祈ると言うのも奇妙だが、そうした。俺の正体と決意の行為の後、彼女と繋がったままで居られるかは彼女次第。だから俺のコントロール出来るものではない、ならば、祈るのは妥当だ。

 空想の中のノバナが頷いた気がしたから、Lineで感想を言う約束の日を取り付ける。


 次の土曜日。この前と同じマック。同じ時間。

 用意したフィールドがコピペであるのに、全く違うこころで入り口を潜る。

 二回目と言うのが一回目以上の特別を持つなんて知らなかった。最初と最後、後は中間で、前者には一層の価値があると思っていた。でも、一回目があるからこその二回目で、それは今日と言う日に俺が自分の存在を、彼女の中での存在を懸ける気持ちだからと言うだけでなく、一回目でしたやり取りとそれに対してノバナが注ぎ込んだものを前提にしての今日の話だからと言うことが、分かる。だから、もしこれが続くのなら、きっとスペシャルな三回目、かけがえのない四回目、二度とない五回目、と更新されてゆくのだ。

 座っている喋っている食べている客も先週と同じように見える。

 当然のように、ノバナは前回と同じ席に座っていた。

「お待たせ」

「時間ぴったりだよ」

 俺の席に座る。ノバナが俺の顔を覗き込む。

「リュータ、そんなに緊張しないで」

 咄嗟に自分の顔を触れる。触れても緊張の有無は分からない。でも、緊張しているのは分かっている。

 深呼吸をする。目を数秒だけ瞑る。黙想の要領だ。少しマシになったかも知れない。

「俺は、素人だ。でも、思ったことをちゃんと伝えようと思う」

「私も、素人だよ。そして、後出しジャンケンは嫌だから先に話させて、いいでしょ?」

 何を話すかによると思うけど、きっと俺が感想を言うのより先に話した方がいい話なのだろう。

 俺は頷く。

「私は、リュータが私の作品に対して何を言ってもリュータのことを嫌いになったりしないよ」

 懸念の中心を射抜かれて、瞬きしか出来ない。

「その理由は三つ」

 俺が内心で慌てていることを脇に置くように、対岸の火事を見ながら散歩を続けるように、ノバナは進む。

「一つは、リュータが本気で読んでくれて、考えてくれていることを私は知ってるから。けなしたりは絶対しない。だからこそ言葉が刺さるんだけどね」

 辛うじて頷く。

「二つ目は、読んで貰っているのは作品であって、私ではないこと。私が作ったものを酷評されるのは辛いけど、それとリュータが私を嫌っているとかそうじゃないとかは別だと思う」

 確かに、その通りだ。

「三つ目は、リュータの祈りが届いたからだよ」

「え!?」

「連絡をくれたとき、窓を開けて女子寮の方を見てたでしょ?」

「見てた」

「流石に何を言ってたのか考えてたのか、それは分からないけど、私もたまたま男子寮の方を見てたの。それですぐにメールが来たときに、あ、リュータは私のことを探していたんだなって、分かったの。きっとすごい痛烈な内容の感想で、だから、私を探した。だから、きっと仲が悪くならないようにって、祈ってたんだって、ピン、と来たんだ」

 状況証拠が幾つもあったとは言え、俺のこころを完全に見通している。女の子ってのはこう言うものなのか? それとも彼女が特別なのか? もしくは俺が分かり易いだけなのか?

「当たりだね、リュータはすぐに顔に出るね」

 再び顔に触れる。触れたって何も分からないのに。

「以上のことから、どんなものでもドンと来いだよ」

「分かった。安心して言う」

 実際に安心していた。躊躇はもうどこかに流れて行った。その駆動力はノバナが提供してくれた。安心をくれたノバナが今度は緊張し始めた。顔の中心にパーツが寄りかけている。首が硬い感じ。

「俺は、『かすみ草』を直しても、『直した「かすみ草」』にしかならないんだって思った」

「それはどう言うこと?」

「作品が生まれたときにこの世に刻む場所から、大きく動けないと言うことなのだと理解したんだけど、色々ノバナが直したけど、確実によくなったのだけど、「かすみ草」で届く最大のところってのがきっとあって、たとえそこに到達したとしても、最高の文学にはならないんじゃないかって思うんだ」

「『かすみ草』では、限界があるってこと?」

「うん。だから、もっと上を目指すのなら、全く別の作品を書くか、どうしても『かすみ草』がいいのなら全部消して最初から書き直す方がいいと思うんだ」

「つまり、ボツってこと?」

「作品には生まれ持った格があると思う。上を目指すなら、ボツがいいと思う」

「ボツかぁ」

 言葉とは裏腹に彼女の緊張が解ける。文章を書きもしない男にボツと言われるのはプライド的にどうなのだろう。いや彼女はそう言う小さなプライドで判断をしていない。するなら俺になど見せない。

「分かった。ボツにする」

「え、いいの?」

「だってリュータがそう言ったんだよ。それに私は納得したの」

「ごめん」

「違うでしょ。ごめんなんて要らない」

「でも」

「だったら、次は誰に読ませるのか、って訊いて」

「次の作品は誰に読ませるの?」

「リュータ」

 多分、ボツにした責任とかではなくて、俺の感想に意義があると思ったのだと思う。胸がグッと押される感じなのだけど、その色味が銀色。ハートに刺さって、熱い血潮が流れる。

「読む」

「うん、読んで」

「俺が読む」

「私が文豪になるまで導いて」

「それは出来るか分からないよ」

 今日初めて、ノバナが噴き出す。呼応するように俺も笑う。二人の時間が終わったらきっとノバナは一人で泣くのだと思う。そうやって前に進むのだと思う。それでも、今は笑っている。

 ひとしきり笑って、ノバナが新たに始める。

「ゴール含めて結構本気なんだけどな。私思うんだ、リュータとなら文豪になれるんだって」

「俺の読む力にそこまでのものはないんじゃないかな」

「私はそう思うの」

「サポートにはなるかも知れない」

「めっちゃなるよ。なってる。本当に毎度ありがとうございます」

「そっか。これからもよろしく」

「じゃあ、後は新作が出来次第連絡するね」

 多分、ノバナの涙の貯留が限界に近付いている。言ったノバナはスクッと立ち上がって店外に消えて行った。

 ずっと、ノバナの文章を見るのかな。それも悪くないように思う。だけど、それだけの関係でずっといるのは、恋の生殺し作戦になってしまう。どこかで踏み込まなくてはならない。だけど、今ではないと思う。今は俺達はノバナの小説を中心に居る二人だ。そこに注力している。そしてそれによって二人の距離はちょっとずつ近付いていっている。だから、今しばらくはこのまま、じわじわ、進むのがいいと思う。

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