第2話

 大人になってから考えてみれば、部活以外でやりたいことをすると言うのが選択肢として重要だと言うことはすぐに分かるのに、新一年生の俺は、高校生がやること=部活、と言う観念にしっかり縛られていた。もしこれまでに街の道場とかに通ったりしていたらそう言う判断も出来ただろうけど、中学でも部活を中心に生活をしていた。剣道部に入った。でも進学校のC高は部活が六時までと決まっているので、七時過ぎには寮に着く。

 帰ってすぐに夕食を食べる。八時には食堂が閉まるので、それまでに終わらせたい。

 トレイを持って適当な席に座り、食べる。古風かも知れないけど俺は食事中に携帯は見ない。

「ここ、いい?」

 何よりも待ちわびていた声がする。

「もちろん」

 ノバナが俺の正面に座る。

「リュータもこの時間ってことは、何か部活入ったの?」

「うん。剣道部」

「おお、運動部。いいね」

「ありがとう」

 ノバナもこの時間ってことは、と言おうと思ってつかえる。最初の時は言えたけど、呼び捨てにすることに照れがある。如何ともし難い照れがある。

「ねえ、私にも訊いてよ」

「え」

「この時間のこと」

 どう言う気持ちで言っているのかが全然分からないけど、俺が戸惑うのを見て楽しんでいるのではなさそうだ。促されて、ようやく勇気を振り絞る。

「ノバナも部活?」

 ノバナモブカツの七文字が鉛よりも重い。精神がぐっと疲弊する。

「うん。部活」

「何部?」

「へへへ。文芸部」

「文化部。あ、この前本読むかって言ってたあれ」

「そう。私は読むの」

「読む部活なの?」

 野花は一瞬固まって、噴き出す。

「そんな訳ないじゃない。書くよ、もちろん」

 俺はお絵かき以来創作などしたことがない。ひたすら、体を動かすか、勉強をするかしか、してない。どんなものを書くのだろう。彼女の書いたものなら読んでみたいな。でも、読みたいって言われたらプレッシャーに感じるのだろうか。俺だったらそうだな。

「すごいね。書くって」

「そうかな」

「俺はしたことないよ」

「そっか」

 彼女は食事に向かう。生態が全然把握出来ないのに、正面に居ることに、話をしたことに、喜びが駆け巡る。じゃあもっと話せばいいのだけど、そう言うフェーズにはもうないのが分かる。また彼女が気紛れに声を掛けて来たら話す。

 でも今回は「ごちそうさまでした」だけだった。

 彼女と食堂で遭遇することはしばしばあったが、毎回同席はしない。一つは、彼女が先に座っているところに俺が行くのははばかられた。一つは、彼女が後でも来ないことがあった。それでも、週に一回は相席になって、線香花火のような会話をする。

 五月になり、ゴールデンウィークに実家に帰る飛行機の中で一ヶ月を思い返すと、最初の顔合わせではしゃいでいた人達がどうなったのかは分からないけど、俺とは関係なく生活をしていることは分かった。彼等を食堂で見かけても、そんなに周囲に対してマウントを取ったりはしている様子はなく、それぞれがそれぞれの学校を中心に生活をしていると言う塩梅なのだと思う。少なくとも俺はそうで、後は、ノバナのことだけがこころの中心を占めている。ひと月「気になっている」を続けて、あとちょっと距離が近付いたら、これはもう「好き」と言っていいのだと思う。東京見物のときに叔父さんがどこかの店で言っていた言葉が思い出される。「片思いしているときに相手のことを愛していると言う人がいるけど、それは間違っていると思う。愛するってのは、相手がよくなるように願うこととそこから来る行動の筈で、恋はもっと、独善的だ」あの旅行で俺に残っているのは東京のあれこれではなくて、叔父さんのあれこれだ。飛行機の窓から平坦になった地上を見ながら恋と愛について考えるとは思ってもみなかった。……俺はノバナがいい感じに生きて欲しいかと言えばそうだから、愛しているのかも知れない。全然知らない彼女のことを? うん。違うね。やっぱり「好き」なだけであって、それは彼女が欲しいのであって、それだけで。

 首をふるふると振る。

 あまり高尚に考えても意味がないような気はする。俺はとにかく、この飛行機の中で自分の気持ちを認めたのだ。

 実家は変わらずに実家で、兄弟も元気で、だらだらとして東京に戻った。

 夕食から出して貰って、その日は早い時間に食べた。彼女が来ないか見渡したけど、居なくて、まあそんなものか、さっさと済ませて明日に備えた。


 五月中旬の部活帰りの日、久々に声が掛かった。

「ここ、いい?」

「もちろん」

「入学して最初の作品が、もうすぐ完成するんだ」

「へえ」

 彼女はスーンと空気を冷やすような顔をする。

「部員以外の人に読んで貰って、感想を貰って、参考にしたいんだけど、リュータは無理?」

 空想していたようなことを言われて、空想ってシミュレーションじゃないって思い知る。その瞬間から一生懸命考える。考えても、答えは最初からyesしかないって分かっている。

「ダメかな?」

「読む。読ませて頂きます」

「そんな大仰じゃないよ。短編だし」

 彼女はそう言って、コピー用紙に印刷されたものを数枚出す。なるほど今は文芸であってもパソコンなのか。そりゃそうか。手書きの時代じゃないよな。

「これ、貰っちゃっていいの?」

「うん。ただし、マル秘だよ」

「……感想はどうやって伝えればいい?」

 彼女は「確かに」と言ってちょっと考えて、いや考えたフリをしたのか? 結論が明確だ。

「連絡先交換しようよ。それで、共有スペースとか、それが嫌だったら外で休みの日にでも会って聞かせてよ」

 それはデートじゃないのか? いいのか? いや、でも、作品の感想を貰うってのはそれくらいの価値があるってことだよな。ただし、俺にその価値があるんじゃなくて、俺の感想に価値があるってことなんだよな。

 自分の期待をねじ伏せて、頷く。

 Lineを交換して、飯を食べる。

 部屋に帰ると、すぐに読みたい衝動を我慢して風呂に入る。もうやることが他にない状態にしてから向き合いたいと思った。

 ベッドに転がってうつ伏せに紙と向き合う。

 彼女の一部を借りて来たみたいな、大事に扱わなくちゃ、しっかり読もう。

 タイトルは『かすみ草』。ペンネームは『舞茸あぶり』。

「変なペンネーム。奇をてらっているのかな」

『破裂しそうなのはお腹ではなくてこころなのに、止まらない』から始まったその短編は、女子高生が歴史の教師に恋をするも、その禁断から想いばかり募って、我慢が強くなればなるほどに食欲が増して食べ続けると言う話だった。

 十分程で読み終えた。

 どうしよう。つまらない。

 ノバナに何て言えばいいんだ? ズバリつまらないって言うべきなのか。いや待て、俺の読解力が足りないからそう感じるだけかも知れない。

 もう一度読む。一言一句漏らさないように、じっくりと。

「……やばい。やっぱりつまらない。だけど、どうしてつまらないかはさっきより分かる。ノバナは俺に何を求めているのか。もしかしたら、上手くなるためにダメなところを指摘して欲しいと言うことなんじゃないのか」

 自分の言葉に説得されるこころ持ちがして、三回目はメモを取りながら読むことにする。

 二十分以上かかった。改善すべき点を、素人の俺の目線でのものでもきっと意味があると信じて、箇条書きにしていった。四回目は読む気になれない。いくらノバナの作品だと言っても、限度がある。それでも、批評をまとめると達成感があって、自分はやるべきことをしたのだと頷く。早速ノバナに読んだことを伝えよう。

 Lineを起動して、文面を考える。初めての連絡は素敵にしたい。でも格好つけていると思われるのは嫌だ。かと言って冷たい印象もダメだし、これから彼女に伝える内容を考えたら絶賛を送ることも出来ない。

 あっちこっち考えが行くうちに時間が過ぎたけど、結局シンプルに『読んだよ。感想はどこで言う?』と送った。送ってからじっと画面を見ていても全然既読にならない。それぞれの都合があるのは分かるし、メール依存はみっともないとも思っている。でも今の俺は思い切り返事待ちだ。世界で一番待っている男だ。でも既読にならない。もう風呂も何もかも終わっているから後は自由な俺で、しかも明日は土曜日で部活もない日だから、その自由は夜の方に間延びしている。その延びた分だけ俺は待てる。予定がないことがこんなにも俺を困らせるのは初めてだ。既読は付かない。もしかして俺はこのまま、待って、いずれ眠くなって寝るだけで今日と言う日を終わらせるのだろうか。いや、他のことをしよう。しながら待とう。そう言う「ながら」は有用だ。

 俺は本棚でずっと俺を待っていた、夏目漱石の『三四郎』を取る。ラノベとマンガが殆どを占める本棚の中で唯一文学と考えられる本。ずっと前に何の拍子にか買って、一ページ捲ってそのままになっていた本。ノバナの文学と交わらなかったら、きっと永久に日の目を見ることがなかった本。決して、彼女の作品を読んだ感覚を別の何かで上書きしたいとか、洗い流したいとか考えているんじゃない。彼女が文学だから、俺も文学を齧ろうと思ったんだ。

 文庫の『三四郎』を持って、ベッドに戻ったら、既読が付いていた。ほっとする。ほっとした上で返信を待ち始める。如何様な形にしろ今日は、待つ宿命にある。

「来ぬならば、来るまで待とう、返信」

 家康な気分でスマホの横に座って、チラ見で画面、本を開く。開いてみたが、一切頭に入らない。文章の上を視線が滑る。ツルツルだ。ワックスを塗られたみたいな。主人公がどうやら三四郎であることしか分からない。滑って落ちた視線はスマホにヒュッと向かう。そこから持ち上げて、もう一度文を滑って、スマホを見る。まるで滑り台を繰り返す子供のように、俺の目は縦の動きが活発だ。十回くらいした着地が返信を捉える。本をパタンと閉じて脇に置き、スマホを手に取る。

『明日、駅前のマックで、十時くらいでどう?』

『了解。じゃあ、また明日』

『はーい』

 デートだ。俺は明日人生初のデートをする。話さなきゃならない内容はちょっと酷いけど、それは彼女のためには言った方がいいものだから、勇気を出して言おう。もしかしたらその後に、じゃあ遊んで行こうか、になるかも知れない。なったらいい。なったらいいな。なってくれ。

 自分でもにやけているのが分かる。最高の一日になるかも知れない。いや、きっとなる。

 俺は明日に備えて早く寝ることにした。

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