花と月とポロロッカ
真花
第1話
太い柱が食堂にあって、それは人差し指の爪くらいの白いタイルをビッシリと詰めて覆われていた。直径は一メートル半以上ある。この柱、邪魔だな、くらいにしか俺は思っていなかった。
地方から単身高校に通うために上京した、この寮にはそんな子息が男女合わせて五十人程住んでいる。男女はもちろん別棟なのだが、食堂と共有スペースでは顔を合わせる。新しい四月が来て、まだ花霞の後香に
東京に来たのは初めてではなかった。中学二年生のとき、叔父に案内して貰って東京見物をした。しかし、先導されて行った先の印象は薄く、思い出せるのは上野にあったストリップ劇場の看板だけだった。まあ、住めば都だ何とかなるだろう、と親父に送り出された時に「妊娠はさせるなよ」と小さく耳打ちされたことで、やはり都会は性に奔放に違いない、俺の胸は期待に膨らんだが、かと言ってそのような経験は皆無だったので、恐らく何も出来ないで普通に真面目に生きるのだろうと自分を定めてもいた。
入寮する日はそれぞれ違っても、始業式までには全員揃うので、その頃合いを見計って顔合わせがされた。
一年生は男子九名、女子七名。寮母である、ただし中年男性の、香山さんの仕切りで始まった会は異常にテンションの高い男子三人を中心に回った。後から考えればああ言う場面で存在感を出そうとしたらそう言う手段になるのは常套のように思うけれども、俺は、黙々と目の前のお菓子を
見れば同じように静かにしている女子も男子も少なからずいる。いきなりここで関係を付けなくても、時間とタイミングを持って友達になる人となればいいと思う。俺が今彼等のようなことをしたなら、決してそれは正しい俺ではないし、いずれそう言う形を維持することに苦悶を感じるようになる。だから、今、急ぐ必要はない。
ないのだが、居心地が悪い。
ワイワイしていない自分が場違いなような気がする。でもかと言って嘘でワイワイするのも間違いな気がする。
「じゃあ、自己紹介をしよう」
香山さんの号令は、開始十五分くらいでかかったと時計は言っているのだが、それまでの時間は数時間にも感じられた。
予想通り、引っ張っていた三人が最初に手を挙げる。
「俺は藤井大輔。フージー、って呼んでくれ。A高校。俺と友達になりたい人、みんな来てくれ、まとめて抱き締めちゃる」
「俺は北森和也。普通にカズヤって呼んで下さい。同じくA高校。アゲアゲで行きます」
「俺は多田太一郎。タダくん、って呼ばれてたのでそのままでいいっす。俺はB高校、男子校にうっかり入ってしまった」
三人三様笑いを取る。この場の支配者が笑いをとりに来たら、誰もが笑う。やっぱり力関係がもう生まれ始めているのかも知れない。まだ話してないけど、こいつらの下に見られるのは嫌だな。
その後は女子の声の大きな三人が順に自己紹介をして、後は右回りになった。俺の番。
「島崎龍太と言います。C高校です。よろしくお願いします」
みんな拍手をしてくれる。でも、笑いではない。俺は印象に残すことは何一つしていない。同じように印象に残らないような自己紹介が続き、一巡する。またフリートーク。俺は多分、合コンとかがあっても行かない方がいいのかも知れない。でもそんなの大学生にならないと、ないか。
オレンジジュースのおかわりを
ふと、前を見るとそこにさっきまで座っていなかった女子がジュースを飲んでいる。目立つ方には含まれない子。制服からすると同じ高校ではないよう。どうやら声の大きい子達が移動するのに押し出されてここに来たようだ。
向こうもこっちに気付いた。
にこ。
笑顔がスタンガン。後から見れば、可愛さに貫かれたのだと言えるけど、その瞬間はドキュンと胸が跳ねて動けなくなってしまった。
全く俺のことを知らない彼女が、名前も聞いたのに忘れてしまった彼女が、俺に対して微笑む理由は一つしかない。社交辞令だ。なのに、でも、だのに、俺は。
きっと錆び付いたブリキのぎこちなさで口角を釣った。
その子はふい、と横を向く。誰かに呼ばれたみたいだ。
俺はこの場にいる他の誰もがどうであっても、彼女の名前を知らなくてはならない。
上野のストリップのようなことよりも、彼女のことを知りたい。
オレンジジュースをおかわりして、チャンスを伺う。彼女に話しかけるチャンスだ。相変わらず大声で喋る男女。それに巻き込まれる人々。関係ない場所にいる俺。そして彼女。
でも、女子に話しかけるなんてしたことがない。いや、小学校のときとかその延長線上の中学校での、元々ある関係ではある。だけど、全く知らない女子に話しかけるなんて、ない。
彼女に声を掛けようと思ったら、心臓が早鐘になって、掌に汗がじとっと出る。
どうしよう。
変な奴だとか、彼女に気があるとか思われたらどうしよう。気持ち悪いって思われたらどうしよう。
彼女はまた一人に戻っている。それは認識出来るのだけど、彼女の顔の方を見られない。見詰めていると思われたらどうしよう。それで、さっきからチップスの袋をずっと見ている。どれだけチップス好きなんだよ。このままじゃ袋を詳細に覚えてしまいそうだ。耳にうるさい大声、チップスの袋、その向こうにある彼女。
じっと獲物を睨む蛇のような俺かと思ったけど違って、俺は蛇に睨まれた蛙だ。
動かないで、動けないでいるままで居たら、ガタンと音がして彼女が向こうに行ってしまった。それっきり戻って来なくって、俺は誰とも会話をしないままに会の終了を迎えた。
次の日は始業式。学校でもまた人間関係の始まりがあって、一日と言う長さのせいか何人かとは話すようになった。部活もまだ決まってないので、真っ直ぐ帰る。寄り道で遊ぶにしても、どう言う遊びが存在するのかすらよく分からない。だから寮には四時半には着いていて、一旦部屋に引っ込んだ。
夕食。昨日の夜からそうだったけど、男女共有の食堂で夕食は食べる。時間帯のせいなのかそこそこ混んでいて、でも騒がしくはない。小さなグループがそれぞれ会話をしていたりするくらいだ。トレイに食事を載せて、誰も使っていない唯一のテーブルに就く。白いご飯と味噌汁と、魚の焼いたもの、サラダ、副菜にほうれん草の胡麻和え。ごはんは大盛りだ。
遠くの方でテレビが流れていて、それをぼうっと見ながら食べる。
「ここ、いいですか?」
声に振り向くと、昨日の彼女だ。
「はい。もちろんです」
「あ、君は昨日いたから、一年生だよね」
「うん。君もそうだよね」
平静を装っている。ものすごく装っている。人生最高役者の俺、の筈。鼓動が高鳴っている。まだ彼女のこと何も知らないのに。
「ごめん、名前、もう一度聞いていい?」
「島崎。島崎龍太」
「じゃあ、リュータでいい?」
これは文化差なのか? それとも彼女がそう言う人なのか?
「い、いいよ」
「私は青峰野花。ノバナって呼んでね」
「分かった。……ノバナはどこの学校なの?」
「D女子だよ」
「そうなんだ」
それっ切り会話が止まる。彼女は全く意に介さずと言う風に食事を進めている。かと言って俺から何かを根掘り葉掘り聞くのは変な気がするし、もう少し親しくなってから色々な話をするべきだと思う。いや、でも親しくなりたい。でも何も上手い言葉が出ないから、黙々と食べる。テレビの音がここまでBGMになることは初めてだ。
「リュータは本読む?」
唐突にノバナが問うて来る。
「マンガ以外ってこと?」
「そう」
「一応読むけど、どっぷりって感じじゃないかな」
「そっか」
また会話が止まる。こう言うリズムの子なのだろうか。俺が気になっていると言うことに気付いて近付いて来たのだろうか。だとしたらもういい感じになれそう。彼女なんていたことないけど、もしかして、もしかするのかな。
肩までのストレートの髪が、彼女が首を回すと揺れる。テレビを一瞬見ようとしているのだろう、そう言う瞬間に揺れる。
「ごちそうさまでした。じゃあね、リュータ」
「うん」
一人残されて、食べ終えて、「ごちそうさまでした」と俺も言って、ちゃんと「ごちそうさま」が言える子なんだな、と自分の中の気持ちが少し成長したことを感じて、いや、それはリュータと呼ばれたからかも知れない、俺はトレイを下げる。下げたところにいるおばちゃんにも元気よく「ごちそうさまでした」と言ったら、しわしわの顔をくしゃっと笑ってくれた。
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