8-7 あなたのせいで我が侭になったから
そうして、今に至る。
「び……び、びっくり……した……!」
フィデリオに受け止められ、慕が最初に発した言葉はそれだった。
だって、本当に驚いたのだ。彼らが集まって慕の身体を持ち上げ、空を飛ぶだけでも十分驚いたのに、さらに上空からフィデリオに向かってリリースされるとは完全に予想外だったのだ。
ずっと会いたいと思っていた人物と出会えたが、慕の心臓は違った意味で早鐘を打っている。
もうちょっと格好つけて会いに行こうと思っていたのだが――クロトリたちが仕掛けてきた予想外の運搬方法に、慕のささやかな計画は綺麗に崩れ去った。
「それはこっちのセリフよ、もう……」
慕を受け止めた姿勢のまま、フィデリオが深い溜息混じりに呟いた。
彼からしても、元の世界に帰ってしまったと思っていた少女が自分の前に再び現れただけでなく、空から降ってきたのだから慕以上の驚きを感じたことだろう。
少々申し訳ない思いを感じながら、慕は気を取り直すために大きく深呼吸をし、苦笑を浮かべた。
「ご、ごめんなさいフィデリオさん……。まさか、クロトリさんたちがああいう方法に出るとは思ってなかったから……」
そういいながら、ちらりと空を見上げる。
慕とフィデリオの頭上、はるか上空では群れをなしたクロトリたちがぎゃあぎゃあと鳴き声をあげている。二人の頭上を旋回していたが、やがて群れをなしたまま、どこかへと飛び去っていった。
フィデリオに怒られる前に逃げていったようにも見え、思わず表情が緩みそうになる。
慕の視線をたどり、フィデリオもどんどん小さくなっていく彼らを見つめる。クロトリたちの姿が完全に見えなくなると再度視線を慕へ向け、小さな身体をぎゅうと抱きしめた。
「驚いたけど……無事でよかった。アタシ、間に合ったと思うけど大丈夫よね? 怪我してないわよね?」
優しく抱きしめたかと思えば、すぐに身体を離して心配そうな視線を慕へ向ける。
こちらを真っ直ぐ見つめてくる薄い青紫の瞳を前に、慕の中で改めて実感がわいてきた。
ああ、自分は本当に――この人の下に帰ってきたんだ。
慕ははたはたと数回瞬きをし、ゆるりと笑顔を浮かべる。
こちらへ向けられる瞳も、自身の身体を包み込む温度も、夢ではなく現実のもの。離れている間、何度も何度も繰り返し思い出していたものだ。
「大丈夫ですよ。フィデリオさんが受け止めてくれたおかげで、怪我一つありません」
笑顔を浮かべたまま答え、慕はフィデリオの胸に少しだけ頬を擦り寄せた。
普段なら恥ずかしくてなかなかできないが、久しぶりに会った今ならあまり恥ずかしさを感じずに行動へ移すことができた。
「ただいま、フィデリオさん」
真っ直ぐにフィデリオの目を見つめ、ずっと言いたかった一言を口にした。
フィデリオの目が大きく見開かれ、かと思えばぎゅっと少々苦しげにも見える表情で目を細める。
「……どうして、戻ってきちゃったのよ」
はつり。呟かれるような声量で落とされた一言が慕の鼓膜を震わせる。
再会の喜びと、どうして戻ってきてしまったのだという思い。二つの思いを滲ませた顔で、フィデリオは慕を見つめている。
静かに思考すること数分。慕は自身の中で言葉をまとめあげると、そっと彼の頬へ己の手をそえた。
「フィデリオさん。私ね、我が侭になっちゃったんです」
最初は故郷に帰りたかった。父と母と友人たちが待つ、自身が生まれ育った世界に帰りたかった。
だが、フィアーワンダーランドで過ごすうちに恋を知り、深い愛を覚え、それをただ一人に捧げたいと願うようになった。
いざ故郷に帰っても思い出すのは自身が愛した人のことばかりで、故郷に息苦しさを覚えるようになってしまった。
――最初は帰りたがっていたのに、いざ帰ったらこちらに戻ってきたがるなんて、なんて我が侭だ。
「故郷に帰っても思い出すのはフィデリオさんのことばかりで、どうしても息苦しくて、また会いたくて……だから、帰ってきたんです」
慕がフィデリオを見つめる目は、どこまでも甘い色が含まれている。
「私をこんなに我が侭になったのは、フィデリオさんのせいです」
我ながら卑怯な言い回しだとは思う。だが、慕がこんなにも我が侭になったのは、フィデリオ・フォリルシャーポと出会ったからなのだ。
数拍ほどの間があき、フィデリオがくしゃりと表情を歪める。
「――馬鹿な子ね」
冷たい言葉とは裏腹に、そういったフィデリオの表情は困ったような笑顔だった。
しょうがないと言いたげな、仕方のない子供へ向けるような苦笑。だが、慕へ向けられる目の奥には、隠しきれないはっきりとした愛情も宿っていた。
フィデリオが慕を抱え直し、頬にそえられた彼女の手に頬を擦り寄せる。
「知ってるでしょう? アタシは化け物よ。アタシの下にいても幸せにはなれない。故郷に戻るのがシタウにとっての幸せだと思うのに」
そう考えたからこそ、アタシはあんたの手を離したのに。
呟くような声量で紡がれた言葉に対し、慕はほんの少しだけ眉間にシワを寄せた。
「私の幸せは私が決めることですから。フィデリオさんが勝手に決めないでください」
ぽかんとした顔をしたフィデリオへ、慕はさらに言葉を続ける。
「私は、フィデリオさんと一緒にいれたらそれで幸せです。幸せになれないのだとしても、それでも結構」
浅く息を吐いて、気持ちを整えて、言葉を追加で重ねる。
「幸せになれないのなら、それはそれで。一緒に不幸になりましょう」
フィデリオが持つ薄い青紫の瞳が、数回ゆっくり瞬きする。
かと思えば、小さく吹き出し、思わずといったような様子でくすくすと笑った。
「全く……本当に仕方ない子ね、あんたは」
フィデリオの笑顔につられるように、慕も小さくくすくす笑う。
「それくらい本気なんですよ、私。ようやくわかってくれました?」
「ええ。よーくわかったわ、それこそ骨の髄まで染み渡るほどに」
ぎゅうと再びフィデリオに抱きしめられたあと、慕の身体がようやく地面に下ろされた。
ずっと感じていた浮遊感が消え、足の裏から森の土や草葉を踏みしめる感覚が伝わってくる。
軽く衣服の乱れを整えてから改めてフィデリオを見上げると、彼は慕を真っ直ぐに見下ろし、ゆるりと目を細めた。
慕は目一杯背伸びをし、フィデリオは膝を折り、どちらからともなく互いに顔を寄せる。
そして、久しぶりに互いの唇を触れ合わせ、顔を見合わせて笑った。
「本当、相変わらずひどい味がするわね。砂の味みたい」
「フィデリオさんがこの恋心を食べてくれなかったからですよ。私、両思いなのに一度失恋したようなものなんですから」
だけど、これでいい。
自分たちの間を繋ぐのは、砂のようなひどい味がする恋心でいい。
「けど、砂の味がするほうがフィデリオさんも私の恋心を食べたくならないだろうから、ちょうどいいでしょう?」
「……ええ、そうね」
大きな手が慕の手に重なり、指を絡め、優しく握る。
元の世界ではまず出会うことができない、美しき人外の青年はまいったとでも言いたげに表情を緩めた。
「きっと、アタシたちはそれでちょうどいいんだわ」
心喰族と人間。捕食者と被捕食者。
そんな関係の間に生まれた恋心なのだから、きっと、砂の味がするくらいでちょうどいい。
たとえ恋心を食べられてしまっても、慕はフィデリオにまた恋をするのだろうという不思議な自信もあるけれど。
世界という枠組みを超えて、再度出会った化け物と少女は互いに寄り添い合い、幸せそうに笑った。
傍目から見て、たとえ歪んでいたとしても。
湖心慕という少女にとって、苦い恋しか知らなかった少女にとって、これは確かな幸せの形なのだ。
私の恋心は砂の味がする 神無月もなか @monaka_kannaduki
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