第3話 - 終
翌日の昼時、僕はルーズナインにいた。相変わらず客は僕ら以外見当たらない。
目の前には、水崎さんと新川さんが並んで座っている。
「ホントにごめんなさい!」
新川さんが深々と下げる。これで何度目だろう。
「もういいですよ。過去のことをどうこう言っても仕方ないので」
こちらも愛想笑いで返す。本当は嫌味の一つも言っておきたいが、生産性もないし雰囲気も悪くなるだけなので、我慢する。
「美奈子、本人がいいって言ってんだから、もういいでしょ」
そういうことを、ただ話に乗っかってきただけの人間から言われるのが個人的には一番腹が立つ。泣きそうな顔の新川さんとは対照的に、水崎さんはとても機嫌がいいご様子だ。
それは、彼氏さんの浮気疑惑が一応晴れたからだろう。
昨日の夜、水崎さんに『トレーニングジムで彼氏さんを見かけたこと』を電話で報告した。
ちなみに、あの後僕は『やっぱり着替えを持ってくるのを忘れていた』という理由で強引に講習会への参加を断って逃げるように去った。
彼氏さんは身体を動かすこと自体あまり好きではない、と思っていたらしい水崎さんは、内容を聞いてやはり驚き、一方でそれならば最近の行動に説明がつくと納得しかけた。
しかし、『なぜそれを隠すのか』は当然生じる疑問であった。これは、仮にも男である僕の直感的な考えと、報告の直前に“彼氏さんと同じく最近筋トレを始めた友人”に聞いた答えが一致し、ある程度信ぴょう性のある理由が説明できた。
何のことはない。『露出が増え始める夏前に内緒で筋肉をつけて、気づかれた時にサラッとした受け答えをして彼女からチヤホヤされたい』という如何にも男子大学生の考えそうな理由である。佐藤の場合は『彼女』の前に『美人の』がついていたが。
そして、僕の説明に納得してくれた水崎さんは、約束通り一定程度働いた僕に対する見返りとして新川さんと会う機会を設定してくれたのだ。
「水崎さんが言っている通りです。それに誰だって、新川さんにだってこんなことになるなんて予想できなかったですよ」
僕は愛想笑いを浮かべて再度新川さんを慰める。
「それにしたって、私が原因で広まったデマなのに、もう私ではどうしようも…」
新川さんが先ほどから何度も頭を下げている大きな理由がこれである。
ネット上の噂は収まる気配が見えず、人を介さず僕に直接話しかけてくる人も現れ始めていた。集まる場所を大学近くの店から、この喫茶店に急遽変更させてもらったのも、人目を気にしたためである。一週間ぶりにネットを見たという新川さんはさぞ驚いたであろうが、噂の広がり具合は、すでに発信源たる新川さんでさえ鎮静化できるか怪しいレベルに達していた。
「とにかく、噂を否定する記事を書いてみてください。お願いします」
それでも、少しでも噂が収まる可能性があるのなら、やらない手はない。今度は僕の方から頭を下げる。
「あ、頭をあげてください。分かりました。すぐ書きます」
謝罪の相手からお願いされたらそう答えざるを得ないだろう。
「そうだよ。やってみないと分かんないよね」
他人事のような適当な発言にそろそろ耐えられなくなってきた。僕は水崎さんの方を向いて笑顔で一言
「水崎さん、暇なんだったら『まー君』さんに連絡して海にでも誘ったらどうですか?」
瞬間、表情が凍りつく水崎さん。どうやらきちんと効いたようだ。
「え、私、あの子のことそう呼んでた?」
「はい。無意識かもしれないですけど、何回か」
嘘である。本当は一回「まー」と言って途中でやめただけだ。それがあって彼氏さんの下の名前には『まさ』が含まれているのではないか、と予想はしていたが、実際『
軽口をたたいていた先ほどとは一変して無口になった水崎さんを放置し、改めて新川さんと向かい合う。
「あの、実はずっと聞きたかったことがあるんですが、いいですか?」
「え、答えられることなら答えますが」
新川さんに困惑の表情が浮かぶ。今さら何を聞くことがあるのか、ということだろう。
いえなに、もしかしたら最終手段に成り得るかもしれないことなんです。とは言わなかった。
その後の顛末を簡潔に述べると、噂は急速にしぼんでいった。
いや、新川さんの記事が抜群の影響力を発揮したわけでも、僕の最終手段がさく裂したわけでもない。
Clever Radish 本人がネット上で噂を公式に否定したのである。
六月末。新川さんと再会した日からさらに一週間程度が過ぎた。Clever Radish がSNSの公式アカウントで噂を否定したのは新川さんと会った日の翌日であり、盛り上がっていた人々はその日を境に、バカ騒ぎしているところを知らないオヤジに叱られた中学生よろしく、噂への興味を見る見るうちに失っていった。
今では、もう僕に話しかけてくる人間はいなくなっていた。
「ねえ。ラーメン食いに行こうよ」
いや、いた。佐藤である。今日は遅くまで授業が詰まりに詰まっている日であり、最後の授業が終わった今、時刻は19時を指していた。佐藤から晩飯の誘いとは、珍しい。しかし
「筋トレしてるのに、ラーメン食っていいのか?」
「カロリーは大事だよ」
全く持ってその通りだ。カロリーを軽んじる男子大学生はこの世にはおるまい。
佐藤が行きつけのラーメン屋に案内してくれるというので、佐藤について行く。大学を正門から出てまっすぐ駅まで歩くと、数多くの店が入っている駅ナカの飲食店街や、線路と直行するように駅から直接続く明々とした商店街には目もくれず、今度は薄暗い線路沿いの道を歩いていく。道沿いにしばらく歩くと、突如左手に『らーめん』と書かれた暖簾が現れた。
予想通り、佐藤はその前で止まって「ここだよ」とだけ言うと、そのまま暖簾をくぐり、その先の引き戸を開けて中に入っていく。僕も後を追って中に入る。
店内は狭く、席は入ってすぐのカウンター席しかない。カウンター席と後ろの壁との間も人一人が通れるかくらいの幅しかなかった。
店員は、カウンター内の厨房で作業をしている店主と思しきオッサン一人だけだった。まあ、これだけ狭いと従業員を雇っても動けないだろう。そして、客の方も僕らだけであった。
佐藤は慣れた様子で一番隅の席に座ると、「ラーメン一つ」と店主に注文した。僕も隣に腰かけ「同じやつで」と伝えると、オッサンから「あいよ」とだけ返事が返ってきた。
「空いててよかったな」
「いや、いつもこんな感じだよ」
おい。店主の前で言うな。事実だとしても。気まずいので「へえ」と適当に流す。しかし、ルーズナインといい、客がいない店はどうやって経営を回しているのだろう。
「それにしても、お前が飯に誘ってくるなんて珍しいな」
この一年で数回目くらいではないだろうか。
「まあ、ね。今日のラーメン代は俺が奢るよ」
「え、なんで?」
お前、そんなに気前のいい奴だったか。
「実は、大音に謝らなきゃいけないことがあるんだ」
ふむ。僕は口を閉じてその先を待った。が、中々出てこない。
しばらくの間、ザクザクと何かを切る音、ジャーと水を流す音、ぐつぐつと湯が煮える音、といった厨房からの料理の音だけが場に流れる。
「おい、謝らなきゃいけないことってなんだよ」
沈黙に耐えかねて、こちらから聞いてしまった。
「それは…」
一瞬口を開きかけたが、また黙ってしまう。言い始めたら責任をもって最後まで言ってほしい。僕は正面を向いて、軽口をたたくようにその言葉を口に出した。
「なんだよ、もしかして、新川さんに情報流したことか? それとも何か『私に間違われてたせいで、ご迷惑を』ってか? だとしたらどっちも気にするなよ」
「なんで知ってんの?」
横目に佐藤を見ると目を丸くしている。
『だとしたらどっちも気にするなよ』が発言の主旨であったのだが、今の佐藤は、先ほどまでの謝罪の気持ちより驚きが上回ってしまっているようだ。先に説明してしまおう。
「この前新川さんに会えたって言っただろ。その時に、お前から僕の顔写真やら空いてる時間やらを聞いたって教えてもらったんだよ」
新川さんに聞いたこととは、『誰から僕のことを聞いたんですか』であった。
そしてその答えは、『同じサークルの佐藤君だよ。佐藤君から大音君の話を聞いて、アレを思いついたの』であった。ちなみに新川さんと佐藤の所属するサークルは『ボードゲームサークル』らしい。
しかし、これはほとんど確認であり実際は聞かなくても見当がついていた。
僕には大学内に佐藤くらいしか友人と呼べる友人がいない。僕の名前と所属くらいなら他にも知っている人間はいるし、顔写真も隠れて撮ろうと思えばそれほど手間をかけずにとれる。
しかし、大学の授業は変則的で時間割の組み方も人によって多少自由度がある。僕に話しかけるタイミングを適切に教えられるくらいに、僕の時間割を知っている人間となると、おのずと絞られるだろう。
「いや、それは本当に申し訳ないと思っているんだけど、そっちじゃなく」
言葉通り申し訳なさそうに眉をひそめながら、口を挟まれた。
確かに、これは新川さんに聞けばさらっと教えてくれたことなので、佐藤としても元々隠し通そうとは思っていなかったのだろう。
「どうして、俺がClever Radish だって分かったの?」
しかし完全に好奇心が申し訳なさに打ち勝っているじゃないか。さっきまでのしおらしさはどこへいった。だが、そちらの方が僕としても話しやすいのでよしとしよう。
「別に確信があったわけじゃない。その可能性もあるかもしれないな、くらいだ。
それでも一つの要素としては、まず、お前が新川さんに僕の情報を流す理由がない。
新川さんは『佐藤君は特に理由言わなくても、聞いたら教えてくれた』なんて言っていたが、顔写真や時間割なんて悪用する方法がいくらでも個人情報を、用途も聞かずに教えるのは不自然だ」
佐藤が押し黙ってしまう。責めるような雰囲気になるのが嫌だったので、先ほどの様子の方がやりやすかったのだが、まあ仕方ない。話を続ける。
「実際にはそんなリスクなんて何も考えずに個人情報を教えてしまう場合もあるだろうが、もしリスクを承知の上で教えたとすると、新川さんの考えを知っていたにしろ、そうじゃないにしろ、そこにはその人物の何らかの意図があるはずだろう」
あえて悪意か善意かには言及しなかった。
「もう一つの要素としては、あー、これはお前に謝らなきゃいけないんだが、実は以前話した頼み事をしている最中に、偶然お前の下の名前を知ってしまったんだ」
「そうか」
それだけ言ってまた黙ってしまう佐藤を見て、自分の考えの正しさを再確認する。
佐藤の下の名前は、『音刻人』。あの時リストに書かれていたフリガナは ”びいと” であった。
ところで、『賢い大根ってなーんだ?』という、なぞなぞの答えは何だろうか?
一つの答えとして考えられるのは、”てんさい” である。別名、砂糖大根と呼ばれるが実際のところ大根とは別の種類らしい。そして、”てんさい” の別の呼び名は ”ビート”。
このように考えると、佐藤音刻人と Clever Radish は結び付くわけであるが、ここからすぐに『佐藤音刻人= Clever Radish』とはならない。それは、新川美奈子レベルである。
しかし、そういった人物が Clever Radish の利益となり得る噂を意図して流していたとしたらどうだろう。もしかすると、もしかするかもしれない。
そして、ここでいう Clever Radish の利益となり得る噂とは、自分の影武者を作り上げるような、『他の誰かがClever Radishである』という噂である。
言わずとも、僕の考えが伝わったのか、佐藤が弁明しはじめる。
「俺が新川さんに情報を流したことで大音が大変な目にあったことは、本当に申し訳なく思っているし、企みがあったことは本当だ。だけど」
そのタイミングで、「ラーメンお待ち」という掛け声ともに、僕らの目の前に二つのラーメンが現れた。なんと、間の悪い。
「だけど、こんなこと言っても信じてもらえないかもしれないけど、別に噂を大音に押し付けようだなんて思ってなかった。こんなことになるなんて予想してなかった」
佐藤は、置かれたラーメンにも手を付けず、必死に訴えかけた。
対して僕は「分かってるって」と言いながら、箸を手に取ってラーメンを食べ始める。
なんだか、深刻な雰囲気になっているが、先ほどから言っているように、僕は別にもう気にしちゃいないのだ。
「そもそも、どういう魂胆だったんだ?」
僕の軽い態度に困惑しながら、佐藤が答える。
「えっと、新川さんのやっているブログが俺のファンから結構人気があるのは前話したと思うけど、ほとんどデタラメな噂ばっかり流すから前から困ってたんだ」
俺のファン。
「この大学に所属してるんじゃないかっていうのも、あのブログ発信なんだけど、それ然り今回の『理工学部』っていう点然り、根拠は曖昧なのにそこそこ良いところを突いてくるから、いっそのこと大音に会わせて噂を否定してもらって、デタラメな情報を流さないようお灸をすえて、できれば過去の噂も否定してくれたいいなと…」
「やっぱりな。そうじゃないかと思ってたんだよ」
少なくとも、噂を広めることが目的ではないと思っていた。
そもそも噂がここまで広まったのは、僕がムダに推測をして新川さんがふて寝した結果であり、ふて寝することはおろか、ふて寝した結果こんなことになるなんて、誰も予想できなかったであろう
全てが、佐藤の大きな悪意によって仕組まれていたことではなく、ちょっとした企みが偶然によって大きな出来事に膨れ上がってしまったのではないかという予想は、僕の気持ちに大きな余裕を持たせていた。
「でも、迷惑をかけたことには変わらない」
佐藤はまだ箸に手を付けない。延びるだろうが。
「もう気にしてねえって。お前が公式に否定してくれたおかげで噂も収まったんだし」
実は、本当に佐藤がClever Radish ならそれを交渉材料に公式に噂を否定させようと思っていた。これが僕の考えていた最終手段であった。
しかし、そんなことをする前に、Clever Radish 本人として噂を否定するために動いてくれ、かつ責められることを覚悟で謝罪を直接伝えてきた時点で、佐藤が僕に対して悪意を持っていないことはよく分かり、僕の腹の虫は十分に収まっていたのだ。
「ラーメン延びるだろ。食えよ」
その言葉を聞いてようやく佐藤がラーメンに手を付け始める。
しかし、これだけ『気にしていない』を連呼しているのに、なぜか佐藤の表情は未だに硬い。
二人でラーメンをしばらく食べたのち、佐藤がつぶやいた。
「なんだよ。俺との会話がめんどくさくなったから、そんな軽い態度なのか」
僕の人間関係の基本方針のことを言っているのだろう。佐藤の考えていることが分かった気がする。
僕は少し考えて、こちらもつぶやくように返した。
「そんな面倒くさいことするか」
それを聞いて佐藤は先ほどよりも小さく、おそらく僕が聞き取ることは期待されていないのだろうと思われる声量で「そうか」と口にした。
その時、佐藤がどんな顔をしていたのかは、ラーメンを食っていたので分からない。
「そういや、お前自分のことを『無個性だー』とか言ってたけど、全然無個性じゃないよな」
気づくと、佐藤の口調はいつもの軽い調子に戻っていた。そんな佐藤に、僕も口元を緩めつつ、いつもの調子で言葉を返した。
「ほっとけ」
後日、弊大学かつ大人気アイドルグループに所属する安藤結花がグループからの卒業を表明。その直後、安藤結花の熱愛が発覚した。
その相手とは、なんとあのClever Radish である、との噂であった。
その噂に、Clever Radish の界隈は、あの時の比ではないほど荒れに荒れた。
安藤結花の過激なファンの中にはClever Radish本人を特定しようとしている連中もいるようだが、あの出来事以降さらに様々な噂が流れて(新川さんのブログからも)、噂が上書きされていっており、幸いあの噂が再燃して僕が被害を受けることもなさそうである。佐藤は大変そうだが。
ちなみに、噂の真偽は確かめてはいない。
しかし、そういえば、トレーニングジム関連で佐藤に電話したとき、佐藤は『美人の彼女』がいるなどと言っていた。
もしかしたら、佐藤が今まで放置していた噂たちを、あの時になって消したがっていた理由と関係があるのかもしれない。
いずれにせよ、あの時、公式に噂を否定する決断を下した佐藤に、僕は心から感謝した。
理工の大音 和歌山亮 @theta
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