第2話

「なあ、大音って実は有名人なの?」

 授業終わりの教室で、この一年で数回しか話したことがない知り合いに話しかけられた。

「いやあ、最近妙にいろんな人から話しかけられるんだけど、なんか関係ない有名人に間違われてるらしいんだよね」

 テンプレートのように口からすらすら出た台詞がなるべく愛想よく聞こえるよう、声と表情をつくる。

「なんだ。そっか。じゃあ友達にもそう言っとくわ」

 『じゃ』と、彼は笑顔のまま、教室を去っていった。

「人気者だなあ」

「うるさい」

 隣からの聞きなれた声に自然と声と表情が戻る。佐藤である。かまわず教室の出口に向けて歩き出しすと、佐藤もついてきたので、そのまま僕らは教室を揃って出た。

「それにしても、さっきので何回目?」

「十回目くらいか」

 新川さんからの呼び出しから一週間近くが過ぎた。あの日以来、僕を知っている人間が何らかしらのルートであの噂を聞いて僕に話しかけてくる、ということがポツポツと起こっていた。ただ、新川さんのように知らない人から直接、というのがまだないだけマシであろうか。この件数で済んでいるのも、僕に知り合いと呼べる知り合いが極端に少ないおかげなのかもしれない。

「それで、そろそろ収まると思うか」

「いやあ、まだ発展途上って感じだね」

 嫌に深刻そうな佐藤の表情に、意図せず渋い顔になる。『理工学部の大音という人物が実はClever Radishなのでは』という、根も葉もないとは言い切れない(大根だけに)厄介な噂が広まった理由には見当がついていた。

 スマートフォンで、あるサイトを確認する。このサイトを見るのは今日で二回目である。

「更新はなさそうだね」

 隣の佐藤も同じサイトを見ているようだ。そのサイトは、Clever Radish のファンであるという ”ニューリバー” なる人間のブログである。最終更新は六日前、つまり新川さんに会った日の15時58分で、タイトルは『ついに会えます!』。

 もう言うまでもないことだが、これは新川さんのブログで間違いないだろう。あの日、待ち合わせの直前までスマートフォン上で行っていた操作はブログの更新だったようだ。

その前日の更新をのぞくと、『Clever Radish本人を見つけたかも』という書き出しから始まり、さすがに直接『理工学部の大音という人物が実はClever Radishなのでは』とは書いていないものの、ご丁寧に『Clever Radish を二つに分けて考えて!』という、元々二単語のものを二つに分けろなどという役に立ちそうにない考え方のヒントが載せられている。ネット上で噂のソースをたどると、おそらくこのブログが源流のようだった。

「このブログ、ファンの間では結構有名らしいね」

「あんまり、有益な内容だとは思えないんだが」

 更新内容の半分は日常生活で起こった何気ないアレコレであり、時たまClever Radish のSNS等の発言・活動から本人の所属や特徴を予想している記事が見受けられるが、どれも信ぴょう性が高いとは思えない。

「まあ、多少根拠が甘くてもゴシップ感があった方が面白いんじゃないかな?」

 そういうものだろうか。しかし、今回に限っては捉えられ方が違うようだ。というのも、そのゴシップ感満載で頻繁に更新されていたブログが、最終更新の記事のコメント欄に筆者自らが突然『少し休みます』とコメントしたまま一週間近く更新されていない。そのかつてない事態が、『本当にClever Radish本人と会って何かあったのかも』と、逆に信ぴょう性を高めているらしい。

「早く否定する記事を書いてくれ」

 誰に言うでもなく、祈るような言葉が出る。

 『少し休みます』とコメントを残しているのだから、命の危機にさらされているというようなことはないはずだが、正直噂の当の本人としては一週間音沙汰がない理由などどうでもよく、とにかく一刻も早く噂を否定する内容を書いて欲しかった。

「本人に連絡したら? ほら、渡された紙に連絡先書いてあったでしょ」

「あの電話番号な。かけたけど出なかった。まああっちからしたら知らない番号だしな」

 直接新川さんを探すという手もあるが、文学部と言っても学科は多岐にわたる。新川さんを特定するのは、ちゃっかり佐藤を引き連れて二人で行ったとしても困難だろう。顔の広い佐藤も文学部の知り合いはいない。ということで、完全に待ちの状態になっていた。

 話しているうちに建物の外に出た。そこでサークルの集まりがあるという佐藤と別れる。逆に、何にも所属していない僕はそのまま帰るのがいつもであったのだが。

 佐藤と別れてすぐ、正門に向かって歩いている途中に声をかけられる。

「あ、君が大音君?」

 振り返ると知らない女性が立っていた。同じ黒髪ではあるがショートで裸眼、活発そうな雰囲気もこの前の人物との大きな違いだが、それにしてもいやな既視感である。

「いえ、違います」

 反射的に否定の言葉を口にしながら、頭の中では、ついに来てしまったか、とこの世の終わりのような気分になっていた。

「いやいや、君、大音君でしょ? 顔見たら分かるよ」

 なんと、すでに顔写真が出回っているらしい。絶望が深くなっていくのを感じながら、僕は必死の形相で訴えかける。

「あの、僕はClever Radish さんとは無関係なんですよ」

 そう口で言ってもすぐに『ああそうなんですね』とはならないだろうが。

「え、ああ、知ってるよ。ミナコに聞いたから」

「…え」

 ミナコとは、新川美奈子にいかわみなこのことか? それにClever Radishに用があるわけじゃないのか?

 新川さんが現れたときと同様に混乱を隠し切れない僕に、その女性はこう告げた。

「私は君に頼みたいことがあるの」



 僕は、大学構内に置かれたベンチで、かの女性と隣り合って座っていた。

「君に頼みたいことがあるの」

 水崎みずさきと名乗った女性は、先ほどと同様にそう話を切り出した。

「あの、その話の前に水崎さんに色々聞きたいことがあるんですが」

 僕としては水崎さんの頼み事なんぞよりもそちらの方が本命で付いてきたのだ。

「何?」

「新川さんとはお知り合いなんですか?」

「高校の同級生でね。美奈子って思い込み激しいタイプだから大変だったでしょ」

「はあ、まあ。それで僕のことも新川さんから聞いたと?」

「そう。写真とかも見せてもらってね」

 新川さんが写真を持っているというのは引っかかるが、ここまではまあ、予想できたことだ。本題はこの先である。

「新川さん、最近ブログを更新していないみたいですが、何かあったんですか?」

 表面上は彼女を心配しつつ、なんで噂を否定する記事書いてくれないんですかね、という恨みを含ませた言葉でもあったのだが、それ聞いて水崎さんが噴き出す。

「何かって、君のせいなんだけどね」

「えっと、どういうことですかね」

 無意識に語気が強くなってしまう。あの時、新川さんに何かした覚えはないし、あのブログで騒動に巻き込まれている身としては笑い事ではない。

 しかし、水崎さんはあまり気にならなかったのか、そのままの半笑いで話を続けた。

「いやーあの時はすごかったよー。ちょうど一週間前かな。急に美奈子から連絡が来てね、『香織かおり、今日は飲むぞー』って。そういう連絡が来るときは大体、美奈子が落ち込んだ時だから、よく分かんないけど慰めてやろうと私ん家でお酒飲みながら話聞いてみたら」

「盛大な人違いをしていたと」

 話が長くなりそうなので、先に言ってしまう。にしても話が見えない。

「いや、それに加えてその人違いの相手に、『自信があった自分の推測を簡単に読まれた挙句、さらりと論破された』のがショックだったらしくてね。もう荒れに荒れて」

「すみません。それと先ほどの話とどういう関係があるんですか」

 やはり、話が見えない。

「美奈子はこういうことがあったとき、その後も外の情報を断ってふて寝するんだよ」

「じゃあ、今も?」

「そう。でも明日でもう丸一週間かあ。こんなに続いたのは初めてだよ。『君のせい』ってのはそういうこと」

 水崎さんはやはり『変わった友人の面白い話』くらいの口ぶりで話を締めくくった。確かに僕が必要以上に新川さんの心を傷つけたせいで、今僕が困っているとも言えなくもないが、そのような皮肉の意図は特に感じられない。

「もしかしてなんですが、水崎さんはClever Radish のファンとかではなのですか」

「え、うん。そのクレバーなんとか?の話は美奈子からたまに聞かされるけど私は別にね」

 とすると、口ぶりの軽さから感じた通り、水崎さんは今の僕の状況を知らないらしい。

 僕は現状を水崎さんに説明した。

「なるほど。美奈子のブログにそんな影響力があったとはね。それは災難だったね」

 水崎さんは目を丸くしつつ、それでもやはり他人事のような、実際他人事なのだが、そのような反応を見せた。しかし、僕は別に同情が欲しかったわけではない。

「お願いなんですが、噂を否定するブログを書くように新川さんに取り次いでもらえませんか?」

 回りくどくなってしまったが、これこそが本題である。新川さんの友人に偶然出会えたのはまさに幸運であった。この機会を逃す手はない。

 水崎さんが顎に手を当てて考える姿勢をとった。友人に連絡を取ってくれるだけでいいのだ、何を考えることがあろうか。

「じゃあ、交換条件として私の頼み聞いてよ」

 ああ、そういえば、話しているうちに忘れてしまっていたが、水崎さんは僕に何やら頼み事があって声をかけてきたのであった。出会いは全く偶然などではない。

「簡単な頼み事なら全然やりますけど… そもそもなんで見ず知らずの僕に?」

 この事態が収拾するならば、ある程度のことはやる所存ではある。しかし、言われて思い出したが、これは話を聞いたとき最初にもった疑問でもあった。

「美奈子から話を聞いたときに、君は頭が回りそうっていうか、なんか探偵っぽいなと思ったの」

 『頭が回りそう』というのは褒められた気がして悪くないが

「探偵っぽい人が適している頼み事なんですか?」

 そう聞くと、何やら怪しい匂いがしてくる。これ以上大ごとに巻き込まれるのは勘弁だ。

「まあ、無理には頼まないけどね」

 水崎さんは質問には答えず澄ました顔で黙ってしまう。僕の顔から快く思っていないことを感じて交渉のために一度引いただけだ、と頭は言っている。が、しかし、この機会を逃すのは非常にまずい。

「…分かりました。引き受けます」

 その瞬間、真顔の水崎さんの体の向こう側で、水崎さんの右手が僕に隠すようにガッツポーズをとったのが、僕には見えていた。

「ちなみに水崎さんって新川さんと同じ文学部ですか?」

「いや、経済学部」

 経済学部では実践的な交渉術もカリキュラムに含まれるのだろうか。

「…それで、その頼み事というのは」

「簡単に言うと、彼氏の浮気調査」

「ええ…」

 予想外の頼み事だ。というか、それは現実の探偵がよく引き受ける類のものではないか。小説などに出てくる方の探偵を想像していた僕は生々しい依頼に気分が下がる。それに、

「それなら友人の方にでも頼めばいいじゃないですか」

 僕にとっては至極まっとうな意見に思えたのだが、目の前の水崎さんにとってはそうではなかったらしく、僕の愚かさを主張するように露骨にため息をついた。

「分かってないねえ。友達に頼んで変な噂とかされちゃったらたまんないでしょ。こういうのは全然関係ない人に頼むからいいんだよ」

「なるほど…」

 妙に説得力がある台詞と態度に押されて相槌を打つ。言われてみれば現実の探偵にそういう依頼が多いのもそういった理由なのか。

「それで、具体的に僕は何をすれば」

 やると言ってしまった以上、ちゃんと内容を把握してなるべく穏便に済ませたい。

「まずは、現状と私の意見を聞いてくれる?」

 そういって彼女は調査に必要な情報について話し始めた。そこから先、彼女の手際はとても良く、まるでこの作業が初めてではないかのようだった。少々恐怖を覚えた。

 まず、調査対象である彼氏は、教育学部に所属する大学二年生の佐藤という人物らしい。もちろん、理工学部の僕の友人とは別人である。彼は水崎さんも所属するバドミントンサークルに所属しており、紆余曲折あって今年の三月ごろから交際を始めたらしい。何があったかは本当に語られていないので知らない。

 疑いを持ち始めたのは、六月に入ってからだという。

「ウチの教育学部の二年生って結構時間あるんだよね。なのに、まー、あの子、急に付き合い悪くなっちゃって」

 それも『ちょっと用事が』とか『友達と約束が』など具体性のない断り方らしい。

 加えて、大学の授業がない、いわゆる全休の曜日に構内で見かけたり、朝見かけたときと夕方見かけたときで服装が変わっているなど、怪しい行動が多いのだとか。

話している内に

「やっぱり怪しいな。特に大学内で着替えてるのとか確実に怪しいな」

と嫌な熱が入り始めた水崎さんに対し、そんなに気になっていてしょっちゅう見かけるならその場で声をかけて聞けば、というのをオブラートに包んで伝えると、先ほどと同様に『分かっていない』と呆れられた。

「つまり、この彼氏さんの行動を調べて、不審な点があれば報告すればいいと」

 水崎さんからの説明が終わり、僕のスマートフォンの画面には先ほど水崎さんから送られてきた彼氏さんの顔写真が表示されている。爽やかなスポーツマン風の見た目だが、実際はあまり運動が得意ではないらしく、サークルの集まりにもあまり来ないらしい。

 それにしても、こうやって僕の写真も共有された可能性があると考えると腹立たしいことこの上ない。それを今は僕がしているわけだが。

「調べるのは一週間くらいでいいよ。君も調査してるのを感づかれてトラブルになるのは嫌だろうし。最悪何も分かんなくても美奈子には連絡してあげるからさ。あ、でも毎日報告はしてね」

 打ち合わせの最後に水崎さんはこう締めくくった。さらっと『サボる』という選択肢が潰されているこの言葉に対して、『ありがたいな』と感じている時点で交渉に負けたことがはっきりと自覚できた。



 次の日、やはり佐藤と学食で昼食をとりながら、昨日の出来事について話していた。さすがに『浮気調査を手伝う』と言うのは気が引けたので、具体的な依頼内容については『守秘義務』を行使してごまかした。

「いやいや、別に大音がその探し物?を手伝う必要なかったでしょ。その場で連絡してもらえばよかったじゃん」

 目の前の佐藤はきっぱりと言い切った。今になって考えれば、僕もそうなんじゃないかと感じてはいるが、その場にいなかった人間に言い切られると反論したくなるのが大音拓真という人間である。

「成り行き上、その方が丸く収まりそうだったんだよ」

 三割本音、七割強がりのような反論をさも十割本心であるかのように堂々と口にする。

 すると佐藤は露骨に大きなため息をついた。

「またそれかあ。そういうことした方がよっぽどめんどくさいと思うけど」

「ほっとけ」

 僕の中ではお前に会う前からの人間関係の基本方針なのだ。

 僕は面倒くさいことが嫌いだ。特に人間関係の面倒くささは他の比ではない。

 そもそも慣れないことに神経を使ってコミュニケーションをとること自体面倒くさいのに、それをしたところで僕のような無個性な者に返ってくる恩恵は些細なものである。

 こう言うと誤解されがちだが、僕は人間嫌いなわけではない。要は最小限の気の合う連中とよろしくやっていければそれで十分なのである。

 しかし、露骨にそのような態度をとると何故だか分からんが、知らない人間から必要以上に疎まれたり反発を食らうことがある。それもそれで面倒くさい。

 そこで、どうでもいい人間と接する時は外面に気を付けて、反発も衝突もなく過ごすことを目指すようにしているのだ。

 これが僕の基本方針であることは確かであり、この話は前にも佐藤にしていたが、しかし今回に限って言えば実際に強がり七割であるので、分が悪い。

「そういえば、佐藤お前あだ名ってあったか?」

 ぱっと頭に浮かんだことに話題を変える。

「ああ、うん、まああったって言えばあったけど」

 急に話題を変えたことを差し引いても、なんだか今度は佐藤の方が歯切れが悪い。

「まあ、嫌なら言わなくてもいいぞ」

 意図せず繊細なところに首を突っ込んでしまったのだとしたら、とても悪いことをしてしまった。

「いや、別に何かあったわけじゃないんだけど」

 暗い雰囲気になってしまうことを恐れてか、佐藤は笑いながら話を続ける。

「俺の下の名前、まあ、言ってしまえばキラキラネームってやつでさ」

「ああ」

 確かに、今まで佐藤の下の名前を知る機会はなかった。が、何となく話の続きは想像できる。

「バンドやってた親父がテンション上がってつけたらしい。まあ小さい頃はそれ関連でなんか言われたこともあったけど、今は割と自分の名前好きだから」

 そんなに暗くなんなよ。ということだろう。その後、僕も普段の調子で受け答えをした。

「こういう名前で良かったこともあったしね」

と、佐藤は付け足したが、結局その日、佐藤の口から佐藤の下の名前が伝えられることはなかった。



 その日最後の授業が終わり、今日も佐藤とともに教室を出る。実際、僕と佐藤が履修する授業は、必修その他含めほとんどカブっていた。

 新川さんのブログはというと、やはり一週間前から止まったままである。今日も数人から声をかけられたが、すべて『人違いだと思う/思います』で何とかやり過ごせた。早く収束してほしい。などと話している間に建物の外に出た。

「じゃあ、俺今日はトレーニングジムに行く日だから」

と言われ、建物の前で佐藤と別れると、佐藤は正門とは異なる方向に歩いて行った。ちょうど一週間前、新川さんに呼び出された日にも同じような台詞を聞いた気がする。

 僕は、離れていく佐藤の姿を少しの間見送り

「帰るか」

と一人つぶやいて、正門の方に歩き出した。

 いや、別に依頼を早々にサボろうとしているわけではない。

 水崎さんから得た彼氏さんの時間割を見るに、今日は全休の曜日であり、水崎さんは、彼氏さんがそういう平日に何をしているかということを、ほとんど知らなかった。

 よって、昨日の打ち合わせの段階で、今日を調査初日として情報を得ることは厳しいと判断され、調査は明日彼氏さんの放課後を尾行することを足掛かりにしてやっていくことになっていたのだ。

 しかし、佐藤が筋トレとは。僕は足早に歩いていく佐藤の後ろ姿を再度思い返す。

 佐藤の所属しているサークルの活動は実は詳しくは知らない。しかし、この一年で断片的に得た情報をまとめると、『同じ趣味を持つ人同士が集まって遊ぶ文科系サークル』といった感じで、おおよそ筋肉が必要になるとは思えなかった。それゆえ、佐藤が四月に筋トレを始めたときはずいぶん意外に思った。

 一方で、始めたきっかけの方は単純だ。四月から大学構内に新しくトレーニングジムができたのだ。学割によって一般的なトレーニングジムと比較すると格安でマシンなどが利用できるらしい。

 大学内ではこれを機に筋トレを始めた人も少なくないらしいが、僕がほとんど興味を持たなかった理由は明白で、いくら新しく格安で利用できる施設ができたところで、その筋肉を披露する機会もなく、相手もいなかったのである。

「あ」

 不意にある可能性を思いつく。あまり高い可能性ではなく、ただ条件を満たしているだけとも言えた。しかし、一方で今日は他にやれることもないのだ。その高くない可能性で一日でも早く問題が解決できるならば、確かめる価値はある。

 僕は足を止め、正門とは異なる方法に足を運び始めた。


 向かった先は、最近大学構内にできたというそのトレーニングジムであった。

 新しいだけあって一面ガラス張りの入口には一切曇りがなく、その先にある館内の受付と思しきカウンターが、入口の外、僕のいる位置からでもはっきり見える。受付カウンターの中には男女二人のスタッフが立っており、男の前には、なにがしかのリストが印刷された紙を挟んだバインダーと、銭湯でよく見る手首に付ける鍵のようなものが大量に乗ったトレイが置いてある。鍵らしきものには赤色と青色のものがあり、おそらく男女の更衣室のロッカーの鍵だろう。

 僕が思いついた可能性とは、『彼氏さんが筋トレを始めた』であった。

 これなら、全休の日にも大学に来る理由になるし、トレーニング終わりで服装を着替えても不思議ではない。そして、これらの行動が『怪しい理由』として挙げられているということは、少なくとも水崎さんは、彼氏さんが筋トレをしているとしても、それを知らないということで、彼氏さんがつれなくなった理由としての条件はそろっている。

 さて、とりあえず思いつきに従ってトレーニングジムまで来たが、ここからどうやってその思いつきが正しいか確認しようか。ここに来るまでは、入口前で張り込みでもして、片っ端から顔を確認しようかと思っていたが、それでは何時間かかるか分からないし、そもそも調査対象がこのジムに通っているにしても、今日来ない可能性だって大いにあるのだ。

 受付の人に聞いても、このご時世なので客の個人情報など教えてくれないだろう。

 とりあえず、人を待つふりをして入口の前で策を練っていると、一人の男子学生がガラスのドアを押して中に入っていった。もちろん調査対象の彼氏さんではない。

 その学生は館内に入り、受付カウンターの男性スタッフの方に近づいて行った。男性スタッフに何か、おそらく会員証のようなものを渡した後、鍵の山から一つ取り、それを見ながらバインダーに挟まれた紙に何かを書き込んでいる。その作業が終わると、取った鍵をやはり手首につけて奥へ消えていった。

 そうか。あのリストは誰がどの鍵を使ったかを記録するためのものだ。とすれば、あのリストには、取った鍵の番号かなにかとともに、名前などの個人情報が載っているはずである。

 少なくとも彼氏さんが今日入館していれば、あのリストにそれが載っているということだ。逆に今日まだ来ていなければ何も分からないのだが、ここで現れないかもしれない人間を何時間も待つよりかは何倍も費用対効果は高いだろう。

 よし、と自分に喝を入れ、ガラスのドアを押した。

 中に入った直後「こんにちは!」と受付のスタッフたちから勢いよく挨拶を浴びせられた。こちらからも軽く挨拶を返しつつ、男性スタッフの方に寄っていって話しかける。

「僕、この大学の学生なんですが、このトレーニングジム初めてなんです」

「そうなんですか! 最初は、このジムの規則やマシンの使い方などに関する講習会を受けていただきます。この講習会は無料で受講いただけます。一番近い会は16時からですね」

 この男性スタッフ、やけにうれしそうである。しかし、講習会は予想していなかった。

「なるほど。これらは何ですか?」

 目の前のバインダーと鍵の山を指し、若干強引に話題をそちらにもっていく。近くで見ると、やはり鍵には番号がついており、バインダーに挟まれた紙の方も、鍵番号とともに名前・電話番号・入館時間などを記録するリストのようだ。しかし、会話しながらでは、中々リストを凝視することはできない。

「ああ、そちらは更衣室のロッカーの鍵と、それをお貸しする時に書いていただくものですね。青色が男性更衣室、赤色が女性更衣室のものです。でも、講習会はそのままの格好でも受講いただけますよ」

「えっ、でも一応着替えも持ってきているので」

 書くときに盗み見るという計画が瓦解しかけ、とっさに嘘をついた。我ながらファインプレーである。

「分かりました。それでは、学生証を預からせていただきます」

 学生証を男性スタッフに預け、鍵の山から一つ青色のものを取る。なるべくもたもたとリストに書き込んでいる間に、下から順にリストを確認する。

 早速『佐藤』の名字が目に入って思わず不自然に体が固まってしまいそうになった。紙の下の名前を見ると『音刻人』と書いてあり、これだけではどう読むかは分からないがご丁寧にも上にフリガナもふってある。しかし、これは恐らく対象とは違う人物であろう。というか、これ、僕の友人の方の佐藤じゃないか? 勝手に下の名前を見てしまった罪悪感がすごい。

 しかし、その罪悪感は直ぐに他の感情に書き換えられる。挟まっている紙が一枚ではないことに気づいたのだ。一番上に書かれている人物の入館時間から考えて、この紙の下にも今日入館した人間の情報が続いていることは明らかであるが、さすがに紙をめくって確認するのは怪しすぎる。

 一枚目に書かれた佐藤は、先ほどの一人だけだ。ここまでか。まあ、今日は適当に理由を付けて帰ろう、と思い始めたとき、一人の男性が奥のスペースから現れ、女性スタッフに近づいて行った。

「お名前は?」と女性スタッフが聞くと、男はこう答えた。

「佐藤 正章まさあきです」

 突然の出来事に、自然に盗み見るという発想に至る前に、声のした方向を直視していた。

 視界には、昨日写真で見た人物が女性スタッフから学生証を受け取る姿が映っていた。

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