春
年が明けから栞は怒涛の忙しさだった。やっと3月の下旬に時間が空いたので野川公園に来た。
公園に着くまで、にわか雨が降っていたが栞が園内に入ると止み、すぐに太陽の日が差し込んだ。園内を見渡すと、一時的に避難していた花見客がこぞって戻ってきている。栞も元々一人で花見を楽しむ予定でブルーシートを持ってきていた。
満開の桜の木の元に座った。水筒の水を飲み、一息つくと栞はバッグから花柄の包みを取り出した。栞が作ったお弁当だ。蓋を開けるとお弁当独特の美味しそうな匂いがした。我ながら上手にできたと栞は思った。
箸を持ち、食べようとしたところで声をかけられた。見あげると見覚えのある顔があった。レンだ。しかもどういうわけかビニール傘をさしている。
「栞さん久しぶり」
「あっレン君!久しぶり」
「栞さんもお花見?」
「うん。一人だけど」
レンは家族と来たらしい。
「最近仕事は忙しいの?」
「まあね」
レンは栞のことにあまり興味が無さそうだったが、仕事について覚えてくれていて少し嬉しかった。
「でもつまらないから余計に辛い」
「ふーん」
「ところで、なんで傘なんかさしてるの?」
「桜の花びらが上にくっついてるでしょ」レンはそう言うと、栞の前に立った。そして右の手首を勢いよく左右に捻った。すると、傘に張り付いていたピンクの花びらが一斉に散開し、レンの周りをパラパラと落ちていった。
「きれいね」栞は思わず拍手した。こんな楽しみ方があったか。レンは傘を閉じ、栞の隣に座った。すると、レンは空を指さした。
「すごい速さで雲が動いてるよ」レンは楽しそうに言った。淀みなく雲の群れが流れている。
「本当だ。魚みたいね」栞が言った。
風が吹き、木々が揺れた。
「僕、この音好き。葉と葉がこすれ合う音」
その時栞は気付いた。この子は今を楽しんでいるのだ。栞はこんなに細かく世界を観察したことがなかった。栞も見習って神経を研ぎ澄ませた。
野川を優しく流れる水の音。水溜りに浮かぶ2枚の花びら。
すべての物が今しか感じることのできない貴重なもの。生き物だってそうだ。
夏に見たクマノミズキ。クリーム色だったのが秋になると薄紅色に色づく。
秋に見たヒガンバナ。赤く咲き誇っていたのが、秋の終わりには葉が伸びて夏には枯れる。
冬に見たイチョウの木々。金色の葉たちもいずれは落葉し、枯れ葉となる。
移ろいゆく季節でその時しか見せない顔がある。
栞はレンに礼を言った。レンは顔にはてなを浮かべたが、この子のおかげで大切なことに気づけた。
ネットの評価や人の言うことばかりを気にして、自分の身で感じたことに意識を向けていなかった。慣れたと思っていたのは単に目の前の小さな変化に目を向けず、それを楽しもうとしていなかったせいだ。
彼は今を楽しんでいる。将来どうなるかなんて関係ない。もしかしたら武蔵野の自然は十年後ないかもしれない。自分は落ちぶれているかもしれない。でもそれに目を向けるのはもったいない。目の前にはこんなに素晴らしい世界が広がっているのだから。
終わり
雨上がりに傘をさす シミュラークル @58jwsi59
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