先駆樹
戎一青(えびすかづを)
第1話 先駆樹(せんくじゅ)
おくだ病院裏の空き地は、三十年前までは息づく音が聞こえてくるほどにみごとな林と畑だった。今は、さまざまな草花たちがわがもの顔に思い思いの音を奏で風に揺れる風来坊たちの巣窟になっている。
露出した地面からおもむろに不揃いの土を手に取り、投げた。土はしばらく動いていなかった屈曲した匂いをばらまく。視線の先には、落とし物でも探すように必死にさまよう夫がいた。
「あなた。そろそろ時間ですよ。これ以上探してもここら辺には、白樺の木はありませんよ。戻りましょ」
「うるさい。たしかにあったんだ。数えきれんほど」
数羽の鳥たちが、その声に驚いたのか、大きな羽音を残し飛び立った。
すでに九十歳になる夫は認知症で、もう十八年、おくだ病院に入院していた。年齢相応に足腰の問題はあるものの、幸いにも身体的な病気はないため、日常の生活に不自由はなかった。
夫は、六十歳まで自然調査の仕事をしていた。武蔵野台地が主戦場。自宅に帰ってきて所沢の地酒ゆめごこちを飲みながら、私に武蔵野台地の自然について話をするのがお決まりの日課だった。とくに白樺の木がお気に入りで、夫の白樺話は今でも
白樺と言えば、北海道、長野などの寒い土地の樹木という印象があるが、武蔵野台地を作った先駆樹のひとつだったというのが夫の仮説で、いろいろな年代の地層から樹木の花粉や木の繊維を採取して台地の成り立ちを考えるのが研究テーマだった。どの地層かは忘れてしまったが、カバノキ属の花粉が見つかったその日のことは今でも忘れられない。夫は玄関で靴を脱ぐのも忘れ、家に入ってきて過剰な興奮をみせた。白樺が見つかったんだ、と。私は素人だから、その真偽や重要性はわからなかったが、夫の興奮した姿は、私の胸さえもわくわくさせた。蝉が鳴く暑い夏の日のことだった。
そんな懐かしい日々は、はるか昔のこととなり、今では、ただ白樺のこと、それだけを夫は覚えている。
梅雨入りした間もない、たしか、月曜日。いつも夫の下着を病院に届ける日。
自宅玄関の鍵を閉めかけたとき突然、電話が鳴った。あせって、すべり転びそうになった。
電話は、病院からだった。夫が行方不明になったとの知らせだった。大和公園、柳瀬川や武蔵線沿い、夫が立ち寄りそうな場所を片端に探した。土砂降りではなかったが降り続く雨に、心配で無意識に私の歩はあせる。何度も転んだ。しかし、見つけることができなかった。日は陰り、主治医からは夜の捜索は危ないため警察に任せることを告げられ、後ろ髪ひかれる思いで家路についた。2時間ほどソファーに座って待っていただろうか。夜九時ごろに連絡が入った。
「菊池歩さんのお宅ですか?私、武蔵警察大和交番の木田です。突然のお電話、すみません」
その声は、苦労した末の安堵を隠さなかった。
夫は、病院から四kmほど離れた住宅街のある家の庭へ不法に進入し、警察へ通報され、保護された。木田さんが駆けつけた時に夫は、目を見開き顔を赤らめて、
あった。あった。
と繰り返すだけで、何があったのか、なぜ庭へ入ったのか、皆目検討がつかずに、困り果てて、衣服を調べるとズボンに縫い付けられた布に名前、住所、そして電話番号が書いてあり、やっとここに辿り着いてくれた。
受話器をおくと、すぐに警察から連絡があったことを病院に告げ、タクシーで交番に向かった。無事であったことへの安堵とともになぜ、と理不尽さに思いをめぐらした。
パイプ椅子に座る夫の後ろ姿が見えた。反省よりも達成感を表現していた。背筋はのけ反っていた。木田さんに会釈して、夫の顔を見ると、その目からは涙が流れていた。湯気の立つ緑茶が少し欠けた湯飲みで置かれていたが、手をつけた形跡がなかった。
「遅くに申し訳ありません」
「仕事ですから」と一言だけ笑顔で答えてくれた。そして、夫が入った家の人がかなり怒っていることと、住所の書いたメモを差し出し、
「お手数ですが明日にでも直接、謝罪に行かれたほうが良いかと・・・」
と加えた。
「怪我はない?」と夫に声をかけると、しずかに夫は頷いた。交番を出るとすでに人気はなく、吐く息は少し白く変わった。夫の背中にそっと上着をかけた。
翌日の午後は、梅雨の合間か、久しぶりの青空にしばらく道端で立ち止まり、手をかざし仰ぎみた。カーディガンを羽織るだけで背中には汗が流れた。
おくだ駅から無作法な林を両脇に見ながら直線の道を十分程度歩くとそのお家はあった。
住宅街の一番奥。五十坪ほどの大きさだろうか。白い壁、茶色い屋根。特徴もない普通のお宅だった。なぜ、夫がこのお家に無断で入ってしまったのか、玄関でインターホンを鳴らし、家人が出てくるまで庭に目をやるとその理由がすぐにわかった。その姿は小さいが、れっきとした白樺が一本、目に止まった。
「ほんとに困るんですよね。認知症の高齢者を野放しにしてもらっては。迷惑しちゃうわ、ほんとに。危ない目にあわされでもしたら誰が責任取ってくれるのかしら・・・」
その釣り上がった目は、性格を物語り、生き方を容易に想像できた。最初は丁重に謝罪していたが、その執拗な言い草と無礼な物言いに我慢ができなくなった。
ゆっくりとした口調で無意識に言葉が出始めてしまった。
「あなたは知らないかもしれませんが、遥か昔、ここら辺は草野っ原だったの。こんな林になったのはつい最近のこと。人が暮らすために作った人工的な林だったの。でも、今と違うことがひとつだけあるわ。それは、自然と一緒に暮らそうと思って作ったってこと。今は何をするにも人間は人間のことだけを考えて作るわ。人間って勝手よね。だから、こんなに荒れてるの。お役御免になったらおしまい。昔の人は、虫、鳥、そして花も木も友として扱った。だから、虫や鳥は糞をして土に栄養を返し、害虫を取って作物の成長を助けたり。人間にさえ感謝した。木は落ち葉を落として、人はそれを畑の肥料にして、朽ちた木は、たきぎにしたりして。すべてが畏敬に満ちていたの。営みは人だけのものではなかった。そんな森林を作る最初の役目をしてくれる木が白樺なの。白樺は先駆樹と言って何もない土地に真っ先に緑をもたらし、自分の役目が終わるとすぐにその役目を次の生き物たちにお願いをして、自らが栄養になって死んでいくのよ。惜しげもなくね。あなたも少しは周囲を敬うべきよ」
言い終えると、何だかスッキリした。女の目は、丸く変形し、瞳孔が散大していくのがはっきりとわかった。あたかも私も夫同様、認知症とでも思ったのか、そそくさと菓子折りだけを持って、もういいです、と言って、家の中に入っていった。無意識に肩を一回上下させ、深く息を吐き、帰ろうと振り返ると、中学生ぐらいの女の子が何も言わずに立っていた。少し視線が合ったが、すぐに、
「ごめんなさい」
と言って立ち去ろうとすると、
「待って」
と呼び止められた。
走って庭に行き、何かをつかみ戻ってきて、
私にそれを握らせた。おそるおそる手のひらを開き、見ると、そこには白樺の実があった。
「それをおじいさんに」
黙っていると、
「おじいさん、うちの庭で、白樺だ、白樺だ、って繰り返し言っていて・・・。
そして、泣いてたんです。
私、学校で科学部に入っていて・・・。
先駆樹、知ってます。森を作る最初の植物のことですよね。
白樺。私が植えたんです。高原の白い貴公子。白樺。大好きなんです。
おじいさんにあげてください。おじいさんも白樺、好きみたいだから」
私はただ、うなづき、その実を握りしめて、深々とお辞儀をした。
その後も夫は、日課を止めることはなかった。でも、変わったこともひとつあった。上着のポケットに白樺の種を
夫は、もうあの白樺のことはすっかり忘れてしまっている。
私も、あの家に白樺を見に行くことはなかったが、すくすくと成長している、あの女の子と一緒に。互いを敬い、生きている。
そう、信じた。
その年の冬に病院裏の草野っ原に夫が大切にしていた白樺の種を地に宿した。
お願いね。ここをまた緑いっぱいにしてね。そして、次の草木にバトンタッチしてくださいね。夫からあの女の子のように。
そういって土を撫でた。夫を思い、愛おしく、いつまでも。
空を見上げると真っ白な雪がそっと降り始めていた。
「あなた、雪になって、風になって、雲になって、白樺をどうぞ、育ててあげてくださいね。此処に・・・埋めましたよ」
先駆樹 戎一青(えびすかづを) @kazuow_ebisu
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