第9話 甘酸っぱい林檎 ★
招かれた褥はラムランサンの香りに満ちていた。オリエンタルな甘い花の香りだった。ノーランマークは背中から包むようにラムランサンを抱きしめた。前に回された腕にラムランサンの手が置かれた。
「ロンバードが見たら気絶するんじゃ無いのか?もうすぐここに戻って来る」
「怖いのか?」
「そうだな。かなり怖いな」
いつも穏やかそうだが、怒らせたら悪魔に変身でもしそうなロンバードの笑顔が脳裏を掠め、肩を竦めて身震いして見せた。
「意気地なし。主人はロンバードじゃなくて私だ」
「それにこんな下賤の男が神の申し子にこんな事して許されるのか?」
「こんな事とは?」
ラムランサンはノーランマークの腕の中で反転して向き合うと、伸びやかな腕を相手の首に回し引き寄せた。
ノーランマークは差し出された華奢な首に唇を這わせ、厚みのある手が薄い背中を引き寄せた。鼻先が鎖骨を幾度もなぞると熱い吐息がラムランサンの唇から零れた。
「オレを誘っても断られるとは思わなかったのか?」
「お前が?」
ラムランサンは全く考えなかったと言う顔をした。そしてその手がノーランマークのTシャツの裾から忍び込み、脱がせるように素肌を這い上った。捲れた胸板に頬をすり寄せ、
「お前もそんなエロい顔出来るんだな」
「私を何だと思っている…っ…、」
ラムランサンの背筋を撫で下ろした指先がパレオの中に滑り込み、腰のディテールを辿るとラムランサンの身体がしなって声が上ずった。
「嫌な事があったら逃げればいい」
「ダメだ、たとえ逃げ出しても輝石が私を離さない」
ラムランサンの口から初めて『輝石』の二文字が語られた。ノーランマークは何も知らないフリで惚けた。
「輝石?」
「知ってるくせに。お前はそれを盗みに来たんだろう?」
彼は感の良い人間だとノーランマークは何処かで思っていた。恐らく己の目的も当初から分かっていたような気がした。
ラムランサンがはだけたノーランマークの胸板を、強請るようにいくつも啄んで来る。いつもの彼を知っているだけにこんな仕草一つにも燃えた。半端に脱がされていたTシャツを脱ぎ捨て、互いの何もかもを慌ただしく脱ぎ去った。
何の隔たりの無い素裸がしっとりと重なり合うと、ラムランサンの唇から悩ましげな溜息が漏れた。ノーランマークはラムランサンの耳元で熱く囁いた。
「そう。君の言う通り輝石を狙っていた。その筈だった。でもまさか神の申し子まで盗むことになるとはね」
ラムンサンの身体を乱暴にベッドに沈め、ひと回り以上違う彼の身体をノーランマークは組み敷いた。
こうして夜のしじまに二艘の小舟は滑り出した。小さな細波を掻い潜り、大きな波に翻弄され、ラムランサンは幾度も海へと放り出された。ラムランサンはまるで溺れた小魚のように酸素を求めて足掻いた。
「……っ、頼むから何もかも空っぽに…っ!」
ラムランサンの切迫した声がノーランマークを駆り立てた。
ノーランマークは男色家というわけでは無かった。かと言って完全なノーマルかと言えばそうでも無かった。その時々でカメレオンのように立場を使い分けて来た。しかし、どんなに熱い夜でも、どんなに目眩く時を過ごしていたとしても、いつも何処か冷めている自分がいる。
その奥に必ず何かの企みがあるからだ。今だって企みがないわけでは無い。あわよくば、輝石を奪ってこの島を脱出しよう、と言う腹積りは捨ててはいない。
なのにノーランマーク自身でも笑ってしまうほど、目の前の男に夢中になっていた。
ラムランサンのあらゆる場所に口付け、暴いてはならない秘密の花園を土足で踏み荒らした。その所業にラムランサンは余裕も無くし、普段の毅然とした自分をノーランマークの前でかなぐり捨てた。
慣れた風に見えたのに、抱いてみるとそうでもない。そのギャップにノーランマークは理性を狂わされていた。
どちらとも無く引き合う唇が、荒々しい呼吸ごと奪い合うように重なり合った。そして荒れ狂った波に揉まれ、砕け散り、二人は泡沫となって、真っ白な岸辺へと打ち上げられていた。
全ての音が止んだ。汗にまみれた肉体が二つ、寝乱れたシーツの上に転がっていた。
「……生きてるか?」
「……うん…生きてる」
さっきまで死人のように冷たかった手が暖かい汗に濡れていた。ラムランサンは自分が生きている実感を味わっていた。
「戻ってこなかったな、ロンバード」
最初あんなに気になっていた執事の事は、途中から頭から消えていた。幸運だったなとノーランマークは内心ホッとしていたが、ラムランサンが重い腕をもたげてサイドテーブルを指さした。そこにはきちんとソーサーに乗せられたティーカップが一つ置いてあった。それを見た瞬間、ノーランマークは心臓が口から飛び出しそうになった。心底ゾッとなって顔から血の気が失せるのが分かった。
「よく出来た執事だろう?」
「出来すぎて恐ろしいくらいだよ!いつ来たんだ?!」
「お前が中で暴れてる頃だ」
ノーランマークはさらに青ざめて頭を抱えた。人生で恥ずかしい事など山ほど経験した。今更何を晒した所で恥ずかしい事はなかったが、これは流石に落ち込んだ。
「喉が渇いた」
かすれ声のラムランサンは、まだ熱に潤んだような瞳が宙を彷徨い、事後の気怠さを甘く漂わせていた。
ノーランマークはカップに手を伸ばし、先にひと口口に含んだ。
アップルティーは既に冷たくなっていたが心地よく疲労した身体には染み入るようだった。悪戯にひと口含んでまだ仰向けに寝転がっているラムランサンの唇へとそれを注いだ。コクリと小さく喉が鳴る。
「林檎だ」
この夜二人が共に口に含んだのは、禁断の毒林檎だったかもしれない。けれどもそれは遠い日に味わった甘酸っぱい恋の味にとてもよく似ていた。そしてこんなにピュアな夜を迎えたのは、ノーランマークには初めての事のような気がしていた。
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