第8話 もう一つの顔

 ノーランマークは一日中働いてクタクタだった。昼間調べたメモを握ったままベッドにうつ伏せに倒れ、夢の入り口あたりまで来ていた。そんな時、夜のしじまを切り裂く様なラムランサンの長い悲鳴が城に響き渡った。


「うわああぁぁぁーっ!!違う!違う!違う!違うーっ!!失せろ!失せろーッ!!」


 ノーランマークは一気に目が覚めてベッドから跳ね起きた。


「今度は何だ。頼むからオレを寝かせてくれ」


 そう文句を言いながらもTシャツ姿で部屋の外に飛び出していた。叫び声が聞こえたのはタカランダ神を祀ると言う神殿の方からだった。

 普段から神殿には近づかない様に言われていたが、ノーランマークは輝石を探しにこっそり行ったことがあった。祈りを捧げる場所なら輝石が祀られていても不思議ではない。しかし石造りの神殿は、一部の隙間もないほど厳重に閉ざされた空間だった。どうやって入るのか、窓はおろか鍵穴すら見当たらない。そこに忍び込む事はノーランマークでさえも難しそうに思われた。そこは城で一番神聖な場所とされ、ラムランサンが神託を受ける時のみ、ただ一人入ることが許されている場所だった。

 

 ノーランマークが神殿に駆けつけると、泣き叫び暴れるラムランサンをロンバードが抱えて神殿から出てきた。石造りの廊下に燃える松明が苦悶するラムランサンの表情をオレンジ色に浮かび上がらせている。

 何時もは呑気な顔をしているロンバードもこれまで見たことのない険し表情をしていた。その尋常では無い空気に気圧されて、ノーランマークは声を掛けるどころか壁の陰に突っ立ったまま、身動き一つ出来なかった。

 二人は縺れながら石畳の廊下を進み、ラムランサンの居室へと入って行く。しばらくはラムランサンの泣きじゃくる声と、支離滅裂なうわ言が聞こえ、ロンバードが懸命にそれを宥める声が漏れていた。

 薄く開いた扉の隙間から部屋の明かりが石畳に伸びている。それに誘われるようにノーランマークは息を潜めて扉の隙間から中の様子を伺った。

 薄明かりの中、天蓋付きのベッドにラムランサンが横たえられ、ロンバードが傍で衣服を脱がせていた。


「さあ、もう落ち着かれましたか?ここは貴方の寝室ですよ?何も恐れなくて良いのです。この年寄りがお側に居ますから、安心してお眠りに」


 何時もよりも優しいトーンで宥めながら、横たわるラムランサンのむき出しの背中を、湯で絞たタオルで拭っている。ロンバードの手慣れた様子が、これは日常的に起こる事なのだと物語っていた。


「…ロンバード。…ロンバード。私は生きているか?手がっ、手が冷たい!氷をつかんでいるようだ…っ」


「大丈夫。貴方はちゃんと生きておいでですよ?」


 青ざめた唇を戦慄かせているラムンサンの手を、ロンバードはその震えが止まるま握り続けた。ようやくラムランサンの手がロンバードを解放すると、脱がせた衣服や濡れたタオルを纏め上げ、そっとロンバードはその傍から離れた。


「さあ、熱いお茶でもお持ちいたしましょう。すぐ戻って参りますからね」


 ロンバードがこちらへとやって来る気配に焦ったノーランマークは、咄嗟に部屋に潜り込み、衝立ついたての影に隠れてその場をやり過ごした。

 一人ベッドに残されたラムランサンを衝立越しに見ていると、さっきとは打って変わりピクリともしない。その様子が気にかかり、得意の忍足でベッドに近づいて、天蓋の影からこっそりとラムランサンの様子を伺った。

 薄明かりに影を濃くする顔は、疲れ切って見えたが白い背中が呼吸しているのが分かった。ノーランマークは取り敢えず胸を撫で下ろした。

 しかしその時、この部屋の何処かに輝石があるかもしれないと一瞬邪な考えが頭を過る。これは千載一遇のチャンスなのではないか?と。

 だがそろそろロンバードが戻って来る頃だと思い直し、このまま今夜は引き下がるしかないと踏みとどまった。

 静かに息を殺し一歩後ずさる。その時ふいにラムランサンのくぐもった声がした。


「もう行くのか?ノーランマーク」


 相手に完全にバレていた。

驚いた顔を晒して天蓋の影からノーランマークが姿を見せた。


「なんだ、分かっていたのか。流石神の申し子だな。何でもお見通しか?」


「煽ってもダメだ。今は打ち返す余力がない」


 そう言うと、ラムランサンは気怠げに枕に顔を埋めた。珍しく弱気を見せる相手にノーランマークは仏心が湧いた。


「何があった。大丈夫か?」


 暫く沈黙した後、ポツリとラムランサンが言った。


「………どんな道を選んだとしても、人は死ぬ」


 いったいどんな神託を受けたのか。それとも首相の兄殺しの一件が影を落としているのか。ノーランマークにラムランサンの心など計り知れない事だった。だが、神託が彼の精神を蝕んでいるのはノーランマークにも感じ取れた。


「そんなに苦しむのなら神託なんざやめちまえよ。そんなもん捨ててお前を生きろ」


 背中を向けていたラムランサンがやっとノーランマークの方を見た。その顔は庭で孔雀に餌をやっていた時の少し幼く、便りなさげなあの時と同じだった。


「来て…ここに来て」


 半身を起こしたラムランサンが、傍らの夜具を開いて共寝を誘って来た。聞き違いかと思い、どう言うことかとノーランマークは眼差しで聞き返した。いつもの揶揄いかと思った。

しかし何時もプライドの高い男から帰って来た答えはそうではなかった。


「今夜は一人で寝たくない」


 長い黒髪が肌や夜具に散っている。先程まで泣いていた瞳が濡れて紫に揺れてた。女のそれとは違う硬質な色香が匂い立っていた。

 誘蛾灯ゆうがとうに引き寄せられる羽虫のように、誘われるままノーランマークの片膝が、ギシリとベッドを軋ませた。ノーランマークの顔が雄のそれへと変わっていく。放たれた情欲の炎が彼の身体を支配し始めていた。


「それは…キスのその先があると思って良いのか?」

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