第2話 神とかなんとか
良くある話しだが、やはり要人と言うのは裏口からこっそり訪れるのが常らしい。
一台の黒塗りのベントレーが裏口にピタリとつけられている。英国王室御用達の車と同じステートリムジンだ。運転席からは、いかにもイギリス紳士と言う風情のロマンスグレーの男が降りてくる。無駄のないスマートな動きで後部座席を恭しく開け、ドアの脇に立って降りてくる人物を待った。
まず仕立ての良い靴が現れ、その人は静かに降り立った。手にはサファイアの嵌め込まれたステッキを持ち、頭からすっぽりと大きなフードのついた長いローブを纏っている。口元は黒いレースで覆われており、辛うじて見える瞳がやけに妖しく光って見える。それは黒曜石のようであり、時折紫色の小さな炎が揺らめくような、見つめられると吸い込まれていきそうな不思議な瞳だ。
迎えに出て来たホテルマンが、そんな神秘的な空気を纏った不思議な客へと視線をチラチラとやりながら、裏口からホテルの中へと誘なった。
彼の横にはピタリと英国紳士がついている。歳の頃は七十前後だろうか。背筋の伸びた長身は、黒いモーニングの上からでも鍛えていることが分かる。柔和な表情の奥で鋭い眼差しが周囲をうかがっているのが見て取れた。
「先ほどからアモン首相がお待ちかねです。このままお部屋にご案内いたします」
そう言うホテルマンの言葉に、紳士が主人に気遣わしげな視線を配る。
「ラムランサン様、少し休まれますか?」
「いや、良い。それからフルネームは好まぬと言っているだろう。ラムでいい」
「一応、公の場ですので」
「気遣い無用」
主従の短いやり取りの中に、長年仕えているらしい機微のような軽妙さが感じられる。ラムランサンと呼ばれた人物の声は伸びやかで美しく、まだごく若い男のようだった。
二人は客用のエレベーターではなく、粗末な裏方用のエレベーターに案内を受け、ホテルマンと共に二人の奇妙な客を乗せた箱は静かに上昇して行った。その様子を厨房のドアの影からこっそり覗き見ていた者がいた。
「ほんと、ホテルってとこはお決まりだね。たいがいお忍びのVIPは裏口から入ってくる。これで警備は本当に大丈夫なのか?」
ホテルのフロントマンの一本の電話で、三日月の公子が裏口からやってくるだろうと踏んだノーランマークは、一足先に裏口に近い厨房に身を隠していたのだ。
VIPがエレベーターに消えて行くと厨房のドアから外に出て、エレベーターが止まった階数を確認した。七階でエレベーターは止まっている。しかし客用のエレベーターには六階までしか無かったはずだった。察するに、そこにはホテルの隠し部屋があるはずだとノーランマークは考えていた。
すると、さっきのVIPはやはり三日月の君と言う事になるだろう。労せず目的の部屋を突き止めたとしたり顔のノーランマークだったが、こちらにやって来る従業員の話し声に、慌ててエレベーターのボタンを連打した。タイミングよくエレベーターのドアが開き、しめしめとばかりにそれへと飛び乗り己も七階へと吸われて行った。
七階のフロアは下の階とは異なり、あまり使われていないことが伺えた。清潔に保たれてはいたが全てが古めかしく、赤い絨毯がいかにも年代を感じさせた。
フロアは森閑としており、部屋数は三つ。ノーランマークはカーテンの影に身を隠し、どの部屋にクロワッサンの君がいるのか迷っていた。
ここまで来たのも幸運と言えば幸運だった。部屋が分かればこんな旧式のドアなど開けるのはノーランマークには造作もない。
様々と思案していると、またしても、幸運の女神が微笑んだ。茶を乗せていたカートを伴ってホテルマンが一人、真ん中のドアから出て来たのだ。恐らくクロワッサンの君はここにいる。確信を得たノーランマークは、ホテルマンがエレベーターに消えたのを確認し、カーテンの影から抜け出した。
身を屈めながら中央のドアへと忍び寄り、試しにドアに手を掛けて押し開こうとしたが開かない。今時のカード式とは違い、旧式の鍵なのが幸いだった。ポケットから小さなピンを取り出し、鍵穴に差し込んだ。鈍い音がしてドアは程なく開いた。ノーランマークは警戒しながら静かに中へ侵入した。
あの手強そうな英国紳士を警戒したが、幸いにも部屋に姿はなく、長いカーテンの隙間に音も立てずに潜り込んだ。
息を潜めながら見渡す部屋は高級ホテルにしては少し狭い部屋だった。カーテンは閉め切ってあり暗く、三本立ての蝋燭の明かりが揺らめくのみ。奥には続きの部屋と思われるドアが一つ。
体の大きな中年の男とラムランサンが紫色の卓布のかけられた小さな円卓を挟んで差し向かいに座っていた。
黒いローブを着たまま座っているラムランサンの掌には子供の拳ほどの緑の輝石が浮かんでいる。これが「神託の輝石」と言われている石なのかと、食い入るようにノーランマークはその石を見つめた。
半透明に光る石の中心に炎が小さく揺らめいている。それを見つめるラムランサンの瞳も、石の輝きと呼応しているように揺れていた。
その二つの炎は引き合う心音の律動に良く似ていた。彼の言葉を待っている向かいの男は恐らくアモン首相だ。さっきから滲む脂汗をしきりにハンカチで拭っていたが、ようやくラムランサンが口を開くと身を乗り出した。
「神は殺せと仰です。いずれ貴方の兄君は貴方の座を脅かし、貴方の国はそれによって長い戦乱を余儀なくされます。沢山血が流れ、国は疲弊し、近隣の国々によって制圧されるでしょう。そしていずれ貴方の国は地図から消える。アモン首相。後は貴方のお覚悟次第です」
アモン首相と呼ばれた男は顔色無く、忙しく手元の紅茶を啜った。カップを置いたソーサーがカチャカチャと小刻みに振動していた。
「それは本当に間違いのない事なのか?本当にタカランダの神は殺せと?」
「神は確かにそう申されました。貴方は既に答えをお持ちです。ですが、お迷いだからこそ、私に神託をご依頼されたのでしょう?私が貴方の背中を押して差し上げましょう。そうすれば兄殺しの重圧を私のせいにできる。貴方の心の重荷がそれで少しは軽くなるのでは?」
ラムランサンの穏やかな声は人を殺す殺さないの話をしているとは思えないほど落ち着いていた。対してアモン首相の落ち着きのなさが一層際立って見えた。
「分かった。この話はくれぐれもここだけに。もし漏れた時は」
「ご心配には及びません。タカランダの神かけて多言は致しませぬゆえ。営々と続いてきた闇の神託をどうぞお信じ下さいますよう」
アモン首相は急いで立ち上がると挨拶もそこそこに汗を拭き拭き部屋から退散して行った。
カーテンの影から息を詰めてその様子の一部始終を見ていたノーランマークは、重大な話を耳にしてなお、関心はそこでは無く、ラムランサンの掌で光る石にあった。
神とかなんとか?オレより胡散臭いではないか。若そうな小僧だが大胆不適切なペテン師だ。などと頭の中で考えを巡らせていた。
部屋にはラムランサン一人が残された。口元を覆うレースを外し、湯気を無くした手元の紅茶を口に含み、ラムランサンは長いため息をついた。
フードを外して立ち上がり、纏っていたローブを脱ぐと、そこには意外に華奢な体躯が現れた。蝋燭に照らされた顔は女性的だが整っていて、凛とした美しさがある。二十代前半の美青年だ。黒いシャツの胸元を寛げると、はだけて浮かび上がる白い肌が、深い谷間を形造る。後頭部の真ん中で結えられた漆黒の直毛が艶やかに長く揺れていた。全てが黒だった。髪も瞳も。服も、纏った空気すら漆黒の闇夜を思わせた。
そしてその縦にはだけた胸元の白い肌は、夜空に刺さった三日月のように美しく繊細で儚げだった。その容姿を見るにつけ、三日月の公子と呼ばれているのも頷けた。
ノーランマークは今度は輝石よりも、彼の方に魅せられていた。
その一瞬に油断が生まれた。
ヒュっ!っと風を切る音がノーランマークの耳先で唸った。
「!!」
何だろうと考える暇も無く、彼の足首に鞭が絡まり、そのまま容易くラムランサンの前に引き倒された。ノーランマークは図らずも床に転がり出た格好になった。
「何者だ。どこまで聞いた。お前の目的は何だ」
矢継ぎ早な質問がラムランサンから浴びせられ、足首に絡まる鞭が解けたと思いきや、二発、三発とノーランマークの背中や肩に容赦なく打ち据えられた。
「待った!待った!待ったー!」
ノーランマークは鋭い痛みにたまらずに悲鳴を上げ、やめてくれと片手をかざしてラムランサンに懇願していた。
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