第17話


 憎らしいほどいい天気だ。つい先日、仕える主人が命を狙われたなんて到底信じられないほどには。降り注ぐ日差しに目を細めながら、マリアは思った。

 迫りくる矢からウィリアムを庇った際に腕を痛めて、数日間の休暇をもらった。代わりにフレデリカの部屋付きからは外され、形だけはウィリアムのところへ戻ったがこの腕では何もできず、片手でできる細々とした仕事をしたり、城下の医師のもとへ通う日が続いている。ウィリアムにももう何日も会っていない。

 城の正面ではない、使用人らが使う門へ出る途中、茂みからにゅっと出てきた手に腕をつかまれた。驚きの声を上げる間もなく茂みの中へ引きずり込まれる。その突然の行為に驚きこそすれ、引きずり込んだ相手にマリアは今さら驚かない。

「殿下……!」

 そう、普段なら。

「護衛もつけずにこんなところにいては、いつまた危険な目に遭われるか――」

「本望だ」

 ぽつりと落とされた声に、思わずマリアは身を震わせた。

「本望だったんだ。兄上にしろ、兄上の手の者にしろ…… 兄上を推す者のやったことにしろ、それで兄上が救われるんなら、城に居られるようになるんなら……」

 マリアの手を握りこんでくる手は、熱い上に震えている。あたりまえだ。いくら背が伸びたってまだ成人もしていない子どもなのだ。自らの死を、あんなふうに身近に感じて怖くないわけがなかった。マリアは、少年の手をゆっくりと握りかえした。同時に、ウィリアムがでも、と口を開いた。

「誰かが…… こんなふうに俺の周りで誰かが傷つくんだなって、そう思ったら怖くなった」

 ウィリアムは震えながら言った。

 ああ、そうか。

 この方はこういう人だった。他人の痛みを当人より繊細に感じ取って、その何倍も苦しむ人。そういう彼だからずっと仕えていこうと思えた。

「殿下。もう二度と、ご自身の周りで誰も傷つかないことを望みますか」

 王子の幼い頃から仕えている侍従は真剣な顔で問うた。少年の手の震えはおさまっていない。

「でも兄上のことも俺は傷つけたくないんだ。俺のことなんか恨んであたりまえなのに、弟としてかわいがってくださる…… あんな優しい方ほかにいない。みんな…… みんな、俺をベインズの後継者としてしか見ない。兄上と、お前だけだ。俺を見てくれたのは」

 怒り? いや、哀しみだ。とうに諦めているのだとばかり思った。なんだか安心した。

「それも、ご自身の一部とは思えませんか。殿下が他のお立場でいらっしゃったら、アーサー殿下とももちろん私とも出会えていませんし、少なくとも私は他の誰でもないあなたにお仕えできてよかったと思っていますよ」

 それに、とマリアは正面からウィリアムの顔を見た。琥珀色の瞳に木漏れ日が差し込んで、きらきらとかがやいている。

「あなたはこれから、そのベインズの後継者として―― 亡き公爵から使命を受けた正当な後継者として、アーサー殿下の役に立つんです」

「…… 俺が、兄上の……」

 ウィリアムはマリアの言葉をなぞるようにつぶやいた。

「そうすれば、誰も傷つかない世の中に近づいていきますよ、きっと」

 マリアが告げると、ウィリアムはようやく顔を上げた。そのままゆっくりと、真上の青へ。

「兄上は、俺を受け入れてくれるかな」

「アーサー殿下は、ウィリアム殿下がお考えになるより殿下のことをお好きですよ」

 安心させるような声に、ウィリアムは笑い出した。

 そして、それからゆっくりと歩き出した。






「寝返る気か」

 暗闇の中、片方が言った。もう片方が「いいや」と穏やかに否定すると、室内に短くも重い溜め息が響いた。

「そういう意味にしか聞こえないんだが?」

「いや、でもなイライザ、よく考えてみろよ。アーサー殿下を推す人はけっこうたくさんいるんだし、旦那様の手の者とは限らないだろ」

「はっ」

 イライザは短く嗤い声を漏らした。

「あの男の下にいる間にずいぶんとおめでたい頭になったんだな。旦那様はお前がフレデリカ様に仕える前から着々と準備を進めてるぞ」

「……」

 ローレンは沈黙した。幼い頃、自身がまだ何も知らない少女だった頃を思い出していた。イライザの言う通り、公爵はフレデリカを王にするために邪魔な物を排除しているのだと思う。思っていた。だけど、何かがひっかかる。

 ―― “あの子を守るのを、手伝ってくれるね?”

 あのとき、公爵はたしかにそう言っていた。

 もし仮にそうだとして、エリオットをあのタイミングで始末したのはなぜだ? もっと子どもの頃の方が、よっぽど排除しやすかっただろうに。自分たちが護衛として育つのを待っていたのか?

「お前、自分が腐った貴族連中とめあわせられたらとは考えないのか」

「あー……」

 なかば呆れているかのようなイライザの問いにローレンは数秒思案した。

「まあべつに、それでベインズ派とデュマ派が仲良くするきっかけになればそれはそれでいいと思うし…… 私一人の結婚でそうなるとは思わないけど」

 おめでたいな、とイライザが返して、ふたりのあいだに沈黙が横たわった。ローレンが寝台のそばでゆらゆら揺れている燭台の火を見つめていると、イライザがぽつりと言った。

「私はいやだ」

「…… 殿下なら、悪いようにはしないよ」

 イライザは昔から貴族が嫌いだ。怯えとか、嫌悪とか言った方が近いのかもしれない。ローレンが項垂れた彼女の頭をかき回すと、思いのほか勢いのある拳が飛んできて安心した。

「お前が思ってるよりもずっと、両家の溝は深いんだ。ベインズは完全に自分たちを正義だと思ってるし、デュマは自分たちを被害者だと思ってる。たかだか片方の家の令嬢の側付きの結婚なんかで片付くような問題じゃ――」

 と、そこでイライザは何かに気付いたように言葉を止めた。不自然に言葉を途切れさせた彼女へ「どうした」とローレンがたずねるも、イライザは未だ混乱したように髪をかき乱した。

「どうして気がつかなかったんだろう」

「なんだよ急に」

「エリオット様だよ」

 イライザはこわばる指先でローレンの肩をつかんだ。

「フレデリカ様はエリオット様がお亡くなりになる前から城入りが決まってた。もうずっと幼い頃から、いやもしかしたら生まれた時から決まってたのかもしれない」

「だからそれがなんだって」

「だからっ――」

 困惑顔のローレンに、そして取り乱す自分自身に苛つきながらもイライザが次の言葉を発しようとしたその瞬間、城内がにわかに騒ぎ出した。

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