第16話
ローレンが戻ってきた。マリアは先日の園遊会で手を痛めたようで暇を取っている。あのあと、結局ベインズ公爵は助からなかった。アーサーは以前と変わらず、ともすればそれ以上に政務に精を出している。どうせそのうちいなくなるくせに、ご苦労なことだ。きっとベインズ公の遺書もウィリアムのもとに渡って近いうちにウィリアムが公爵位を継ぐことだろう。
「婚約者決まった?」
読書中のフレデリカのもとへ茶器が置かれる。
湯気を立てるそれを置いた人物へ問いかければ彼女は少し驚いたあと、気まずそうな表情を見せた。
「大丈夫だよ。イライザのことはいなくなっても嫌いになったりしないから」
初めから分かってたことだしね、と口にするフレデリカに、イライザは何も言えずにいた。
エリオットの訃報を知る以前は、ずっと彼女に仕えていくのだとイライザは漠然と思っていた。もちろん、フレデリカが王となってもそれは可能だ。彼女と、自分が望みさえすれば。ランスの名を使うことを、厭いさえしなければ。
イライザはふと、今朝方自分の所へ届いた贈り物を思い出す。一輪の真っ白い花に結わえられた恋文、すなわち求婚の手紙である。贈り主はケネス・ファレル。ファレル家の次男で、少し前までアーサーと同じ神殿学校にいた。ファレル伯爵はランス伯爵とはベインズ領を挟んで反対側に領地を持つ。家の歴史としてはほぼ同格で、以前縁談が持ち上がったがファレル伯を嫌うランス伯によって切り捨てられた。
『一目見た瞬間から、貴女の美しい横顔が忘れられません』
ファレル伯は温厚な性格と聞く。息子にわざわざこんな手紙を寄越させるような人間ではないはずだ。では、子息の独断? たしか、アーサーと同い年で、神殿学校に通っており仲も良いと聞いたことがある。アーサー王子と仲良くなるような人間が、何の考えもなく女性に求婚などするだろうか。そうでなくとも、成人したいっぱしの大人が、自分の家とランス家との関係を知らないわけでもあるまいに。
「イライザさん、結婚されるって本当ですか?」
フレデリカの洗濯物を運ぶ途中、一人の侍女がそう話しかけてきた。奥には複数の侍女が好奇の目でイライザを見ている。もうそんなに噂になっているのだろうか。その近くで自分を見るローレンを一瞥してイライザは口を開く。
「いいえ。想う相手がいますので」
途端、侍女たちの口から黄色い声が上がった。しかしその中でぼそりと「でも、そうも言ってられないわよね」と聞こえた声をイライザは聞き逃さなかった。
どさどさ、と中庭を挟んで反対側の廊下で何かが落ちるような音がした。あーあ、またやってるよ、とイライザの傍にいた侍女が呆れたように声を漏らした。見ると、最近ウィリアム付きになった若い侍従が洗濯物を床にぶちまけているのが見えた。シリルといったか。
「でもあの子も可哀想よね、ここに来たばっかりなのにアーサー殿下の次はウィリアム殿下って」
「確かに。可愛がられて飽きられたら今度はいびられてんだもんね」
侍女らが小声で言い合っていると、シリルの向かいから一人の衛士が歩いてきた。
「あ、あの人」
衛士に対してか、ローレンが漏らした。
「前に訓練場で会った。アランって言ったかな」
「話したの?」
驚いたように聞いてきた侍女に怯みつつローレンは「少しだけ」と答えた。
「珍しい。あの人女嫌いで有名なのに」
「でもローレンさんかっこいいし」
アランはシリルのぶちまけた洗濯物を拾うのを、シリルに幾度も謝られながら手伝った。最後にアランが籠を持ち上げてシリルに手渡す瞬間、手でも触れたのかシリルは頬を赤く染めた。
「おや?」
「怪しいわね」
侍女が口々に言う中ローレンは、シリルが去っていくアランにもう一度礼を言う姿を見る。ふと、アランがこちらを見た。切れ長の目が鋭くこちらを射抜いて、ローレンは慌てて目を逸らした。
彼、女嫌いなのよと従妹が言った。
「衛士の中では有名な話らしくて、お父様はそれを聞いて私の護衛にしたみたい」
コーデリアは母親と侍従らを連れて一時的に城へやってきた。家自体は石造りだったため無事だったが、家具はほとんどが駄目になった。
「次は私が狙われるのかしらね?」
「俺なら狙わないけどな」
狙う意味がない、とアーサーが言って、カップに口をつけた。
「あれだってわざわざ手にかけるより母方のスイフトを継ぐよう根回しする方がいい。スイフト郷には子どもがいないし」
そうなのだ。わざわざあんな人がたくさん集まる場を選んで狙うなんて、あまりにも不自然だ。もしかすると弓を射た人間には、なにか別の思惑がある……?
園遊会で挨拶を交わした男の顔を思い出す。フレデリカとはあまり似ていなかった。重ね合わせた手は少しかさついていてあたたかかった。父の手も、あんなふうなのだろうか。触ったことがないから分からない。
「今回のことで自分が疑われるとは思わないの」
「何のためにあいつが俺を慕うフリしてたと思ってるんだよ」
「…… あの子は」
コーデリアの言葉を遮るように、奥の部屋の扉が開いた。
「もういいのか」
自分を救ってくれたフレデリカと話がしたいと言って呼び出したのはベインズ夫人である。アーサーが振り返って尋ねるが無言で通り過ぎようとするので
「部屋まで送るよ」
と立ち上がって言うと、フレデリカはようやくアーサーの方を見た。
「ご心配なく。もうどこへも逃げません」
「そうじゃない、ただ俺が送りたいだけだ」
「どうせ出ていくくせに?」
「出ていかない。ずっと城にいる」
糾弾するかのように見つめてくる青い瞳に、アーサーはつい言った。
「君が望むなら王配になったっていい」
フレデリカは一瞬驚いたように目を瞠ったあと、アーサーを睨んだ。
「…… やっぱり私、あなたのこと嫌いだ」
低く呟いて、フレデリカは退室した。重たげに閉まる扉を呆然と見つめるアーサーの前でコーデリアが意地悪く笑っていた。
「いいわね、あの顔。今までのよりもずっと好きだわ」
「俺はお前のそういう所が嫌いだよ」
長い溜め息を吐いて椅子に体を預けるアーサーに、コーデリアは「褒め言葉ね」と再び笑って言った。
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