第15話
「伏せて!」
ローレンが叫ぶのと、マリアが咄嗟に主人を押し倒すのとが同時だった。矢は壁にあたって跳ね返り床に落ちた。続けてもう一本飛んでくるのを左手に持った盆で止めるが、木製だったのが災いして砕け、矢とともに地面に落ちた。
心臓が大きく鳴り響く。七年前、父が亡くなったあの日と同じ拍動。
膝まづくローレンの耳に衛士が騒々しく駆けつけるのが聞こえた。ウィリアムの安否を問う声と、矢の飛んだ場所を探る声。そのどれもが焦りや緊張の色を含んでいて今が平時でないことを教えている。
「―― ローレン」
馴染みの声が耳に届いてローレンははっと我に返った。旧家の令嬢風に着飾ったイライザは、戸惑いの中にも衛士然とした表情を含む眼差しでローレンの元へ来た。
「…… い」
イライザ、と口にしようとした瞬間、別方向から衛士が飛んできてアーサーに何事か告げた。同時にアーサーの顔がこわばる。
ローレンは嫌な予感がして立ち上がった。中庭に集まる貴族たちが城下を指して騒いでいる。アーロン神が機嫌よく照らす空の真下に、黒々とした煙が立ち上っている。
窓は開け放たれていた。しかし、夫人らのいた部屋と違って窓と樹の距離が離れている上に枝も細い。
「公爵」
寝台に腰掛け、側にある小さな円卓の上で何かを書いていた男性に声をかける。
「テレンス・ハクニール・ベインズ公爵ではないですか」
男は振り向かない。聞こえないのかあるいは無視されているのか、彼は羊皮紙に一心に何か書きつけている。
「火がすぐそこまでまわっています。早く……」
「私が口をつけるものには細心の注意を払っている」
おもむろに彼はそう話し出した。
「医師も使用人も先々代からベインズに仕える信頼できる者たちばかりだと思っている。が、この体がそうではないと物語っている。私はもう長くないだろう」
羊皮紙が丁寧に折りたたまれ封筒に入る。手元の蝋がどろりとそこに落ち、上からベインズの印でかたく閉じられる。公は立ち上がると封書を手にこちらへ近づいてきた。
「これをウィリアムに」
差し出された途端、ぞわりと背中に寒気が走った。
「本来なら直接あるいは信頼できる者に渡すべきだが、これも―― 運命だというなら、託すのもいいかもしれない」
託す? 託すだって?
誰に? 何に?
「許さない」
気付けば口にしていた。
「勝手に死ぬのは許さない。それも貴方が直接ウィリアムに手渡せばいい。私は受け取らない」
公爵は呆けたような顔でフレデリカを見た。
「私は貴方を助ける。―― 夫人によると廊下にも火がまわっているとのことで、正面入り口はもう駄目みたいで、他にどこか出入口があれば」
「……」
「公――!」
「使用人用の勝手口がある」
フレデリカが痺れを切らして声を上げるとともに公が言った。
「厨房側にある勝手口とは反対側だから火もおそらくまわっていない」
「わかりました」
すぐに行きます、とフレデリカは樹を軽々と降りていった。そういえばエリオットもよくあんな風に木登りをしていた。奔放で、脱走癖があって、そのくせ何をやらせても人並み以上にやってのける子どもだった。神に愛されなかったはずの自分から、神に愛されたエリオットが生まれたこと。それだけが。
立っているのは限界だった。壁に手をつき、なかばもたれるようになる。
「エリオット……」
なぜ。
なぜ死んだ。
謁見の間。
玉座の前で第一王子アーサーとその側近ハワードは長いこと睨み合っていた。
「いけません」
周囲がひりついた空気に包まれるなか、ハワードが口を開いた。
「ご自分の立場をお考えになってください。怪我をするだけですむならまだしも、お命を落とされでもしたら」
「そのお命を落とされでもしたら最も大変な存在がそこにいるんじゃないか」
「城の衛士も消火隊も向かいました。どうかお気を確かに」
このごろハワードはどこかおかしい。アーサーの地位に固執し、外聞や噂に敏感になっている。神殿にいたころはそんなことはなかった。ここに来て、フレデリカの存在を知ってからだ。まるで、アーサーに王配になってほしいと言わんばかりの。
「俺は…… 俺には、大事にされる立場なんか」
「殿下はこの国の未来を担うお立場です」
「ベインズ公爵があいつを後継者として指名してるのを知らないはずないだろう」
「知らないはずがない、ですか」
妄信、とでも言おうか。声量を一段低くして言うハワードは、そんなような瞳で主人を見つめていた。
「それはこちらの台詞です。あの方は詩作にうつつを抜かし政治に全く関心がない上に侍女と親密な仲に」
「そのくらい俺だって似たようなことやってる」
「あの方は本気ですよ」
もっと言えば心酔だ。
アーサーは目眩がして後ずさり、ふくらはぎのあたりに触れたそれにどきりとして振り向いた。いつの間にか、玉座が真後ろにあった。
違うんだ。
あの小さな少女に、平穏な居場所を与えてやりたかっただけ。自分の手でなにか与えてやることで、満たされたような気になりたかっただけなんだ。
「衛士ライナス・グレース、報告に上がりました」
謁見の間の入り口で大柄の衛士が告げた。すかさずハワードが先を促すと、衛士はベインズ邸の火事はうまく鎮火できたこと、公爵、夫人ともに無事であることを報告した。報告を終えた衛士の後ろから金髪の少女が姿を現すとともに周囲がざわついた。
見たところ大きな怪我はないが体じゅう煤にまみれている。それでもなお神々しさを感じるのは神の愛し子のなせる業か。
「部屋を出てはいけないと言っただろう」
意図に反して責めたてるような口調になりアーサーはつい口を押さえた。同時に正面に立つフレデリカがむっとしたように眉間にしわを寄せた。
「目の前で助けを求める人がいるのに見捨てろって?」
「他のやり方があったはずだ」
「火は厨房から出て一階はほとんど火の海だった。消火隊を待ってる暇なんか――」
「自分の立場を考えてくれって言ってるんだ」
フレデリカの表情が変わる。けれどアーサーも言葉を止めることはできなかった。
「君は寵愛者なんだぞ」
瞬間、フレデリカの顔から表情が消えた。なるほど、と冷えた眼差しと声がその場を包んだ。
「結局貴方も皆と同じってわけだ」
アーサーは唾を飲み込んだ。
「よく分かったよ。アーサー王子」
寵愛者は踵を返しその場を去った。そして、王子を振り返ることは二度となかった。
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