第13話
「え、そうなんですか」
園遊会のため、中庭へ料理を並べる作業に駆り出されていたローレンは、思わず声を上げた。意図せず大きな声が出たので、慌てて口元を押さえる。
「じゃあ今誰もいないんですか」
「いつも通り部屋の前に衛士はいますよ」
マリアは手際よくテーブルに料理を並べながら答えた。
「大丈夫ですよ。以前ならともかく、今あの方に何かしても誰にも利益はありませんから」
マリアは安心させるように微笑んでくるがローレンは安心できない。外敵の心配はむしろまったくと言っていいほどしていない。ローレンが心配しているのはその逆だ。
「……」
ローレンは急に不安になる。フレデリカの唐突な脱走癖はつい最近始まったことではない。普段は借りてきた猫のように大人しく聞き分けよく振る舞っているためか、いざそのときになると彼女はこちらの隙をついていとも簡単に逃げ出してしまうのだ。彼女とて本気で逃げ出そうとしているわけではないし、イライザもローレンも慣れているのでそうそう取り逃がしたりは―― たまにしか―― しないが、今そばにいるのは護衛について間もない衛士。
嫌な汗が背中ににじむローレンの後ろで、けたたましく陶器の割れる音がした。
「ごめんなさい!」
まだ幼さの残る少年のような声に周りからはまたかというような呆れた声が聞こえる。この少年は最近城入りしてアーサーに仕えていたがマリアと入れ替わりでウィリアム付きになった侍従だ。
数日前にも彼は別のところで茶器を一式駄目にした。といっても今回とは違って、その時はなぜだかウィリアムがひどく虫の居所が悪い様子で、茶器が割れたのもその弊害だった。
『私は殿下に嫌われているのでしょうか』
少年―― シリルは思いつめたような表情で言った。
『新しく入ったあなたに殿下も慣れていらっしゃらないだけよ。きちんとお仕えしていれば殿下もいつか心をお許しになるわ』
シリルへなだめるように答えて、マリアは彼が新しい主人の元へ戻るのを見守った。
『いつか、ね』
後ろからよく知った声が聞こえる。何年も仕えた王子の兄に仕えるこの男とは、それなりに言葉を交わすことも多い。
『一体いつになることやら』
ハワードはてきぱきと盆に茶器を置きながらこちらを見ずに言ってきた。
『なにが言いたいの』
『早く楽にしてやった方がいいんじゃないか』
マリアの睨みに男は怯みもせず、逆にテーブルをぐるりと回って接近してきた。間に人一人割り込めないほどの距離にマリアが思わず後ずさると、腕をつかまれる。
『君の殿下は近頃ずいぶんあの継承者と仲が良い』
それほど強い力ではないはずなのにどうしてか振りほどけない。ひそめられた声はひどく冷たく、氷のようで、マリアの首筋を冷たい汗が流れた。ずっと恐れていた。この男の、主人に対する異常な執念を。
『健気だと思わないか? 身分の低い母を持つ兄を慕って、自分が得られるはずのものを明け渡そうと不出来なふりをして。果ては侍従たちにも厄介がられるよう振る舞って』
聞いてはいけない。
『楽にしてやれ。誰にも見つからない大陸の片隅で二人静かに暮らせばいい。心配はいらない。準備ならすぐできる。何なら今だっていい。さあ』
「来れない?」
斜め前で発されたアーサーの声にマリアはふっと顔を上げた。従姉の言葉を聞いたアーサーは今まで―― 少なくとも城へやってきてからは見たことのない表情をしていた。
「昨晩から具合がよくなかったのだけど、今朝悪化して、とてもここまで来れる状態じゃないの。今はお医者様に診ていただいていて…… それだけでも伝えようと思って」
「公爵が来ないとなると……」
アーサーがここまであからさまに不安感をあらわにするのは初めてだ。側近のハワードが、人手が足りずに貴族の世話に駆り出されているせいで近くにいられないのも大きいのだろう。
コーデリアも不安げに胸元でぎゅっとこぶしを握りしめた。
「陛下のご様子は?」
「こっちもこの半月くらいで急に悪くなった。もう座るのも辛いようだと侍従長が」
「その侍従長は今何してるのよ」
「ハワードと城に来た者たちの世話をしてる」
アーサーはふうっと重く長く息を吐き出した。今さら中止になんてできない。自分の元へ挨拶にくるであろう貴族たちの相手を一手に引き受けなければならなくなった。誰も頼れないという不安に包まれる中、廊下の向こうから慌ただしく駆けてくる足音がする。
「マリアさん」
シリルが息を切らしながら、興奮のためか声高に言った。
「ウィリアム殿下が急に園遊会に出たくないと仰って……!」
よくとおる声が周囲にはっきりと響き渡る。マリアが宥めるがすでに遅く、シリルの言葉が聞こえたらしいどこかの貴族の夫人らがこちらを見ながらくすくすと笑った。
「…… 行ってやれ」
アーサーが額を押さえて言った。現状を説明するシリルと並んで弟の所へ向かうマリアを見るアーサーの横で、
「絶体絶命ね?」
コーデリアが口元だけで笑ってみせた。
園遊会の催される中庭へ踏み込むと、集まった貴族たちが一斉にアーサーとコーデリアを見た。不在の王に代わり挨拶を終えたアーサーを、権力が欲しい者、現状を維持したい者―― 様々な思いで周りを窺いながら見つめてくる。奇妙な沈黙を断ち切るように先陣を切って話しかけてきたのはデュマ公だった。
「このような場で失礼いたします、殿下。本来であればもっと早くこちらからご挨拶すべきだったのですが」
「いえ、公も近頃体調を崩しがちと聞いています。どうか無理せずご自愛ください」
そつのない返事にデュマ公はにこりと微笑み、話題を変えた。
「息子がずいぶん殿下に懐いているようだとイライザやローレンから聞きました。あれも同性の―― それも兄のように慕える相手ができて嬉しいのでしょう。これからも私ともどもお導きくだされば幸甚に存じます」
その場が途端にざわめいた。
アーサーはうるさく鳴り響く鼓動を悟られまいと必死に指先に力をこめる。
「もったいないお言葉です。若輩ゆえ足りない部分も多いかと思いますが、父や叔父に教えを乞いつつ努力いたしますので見守ってくだされば幸いです」
ああ、王子だ。
第一王子の完璧な笑顔に、イライザは思った。
「何ぼけっとしてる」
こっちへ来い、と自分を呼ぶランス伯に首を傾げる。
「殿下への挨拶は――」
「使用人の子どもにする挨拶などない」
じゃあ今自分が連れてるのは何だって言うんだ。イライザはランス伯への不快感を隠さず顔をしかめた。
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