第12話


 知らない屋敷のようだ、とイライザは思った。

 何年かぶりに訪れたランス邸は知らない使用人ばかりで、調度の趣味もすっかり変わってしまっていた。世間でいうところの実家であるはずなのに帰ってきた感覚がまるでない。

(それもそうか)

 イライザはランス伯爵が屋敷の使用人と関係を持った末にできた。母が亡くなってからは使用人同然かそれ以下の扱いを受けていたし、デュマ家の別邸で暮らすようになってからは一度も帰っていない。

 伯爵―― 父は息災のようだった。以前と変わらず、とは言えない。彼とはほとんど、いや全くと言っていいほど会ったことがないからだ。線が細く、釣り目で、狡猾そうな男だった。

「まさかデュマに息子がいたとはな」

 ランス伯は悔しそうに言った。

「いや、あの時おかしいとは思ったのだ。お前のようなのを使用人に加えたいなどと」

 部屋の中を歩き回りながらぶつぶつと呟いていた伯爵は、深いため息を時間をかけて吐くと執務机に手をついてイライザをにらみ上げた。

「レイが死んだぞ」

 何の予告もなく告げられたそれに、イライザは目を見開いた。レイは伯爵の嫡男である。

「どうして……」

「どうしてだと?」白々しい、と伯爵は鼻で笑った。「骨の髄まであの男の教えが染み込んでいるとみえる」

 それから机の上の手紙の束を取り上げるとイライザの方へ投げて寄越した。

「すべて見合いの申し込みだ。お前あてのな。どれもそこそこ名のある家だ。ファレルのような腑抜けた家は候補から外すがな」

「候補って」

「わからんのか。さっさと身を固めて後継ぎを産めと言ってるんだ」

 何を言ってるんだ、この男は。イライザは全身の毛が逆立つのを感じた。

「ヒューバート兄上がおられるではないですか」

「あれは駄目だ。民の生活だのなんだのと、腑抜けたことばかり言う」

 次兄を指して言えば、返ってきたのはやはり小馬鹿にするような笑い声だった。

「よく考えてみろ、力のある家の者と結婚すればお前も新しい継承者も後ろ盾が手に入るんだぞ。悪い話どころか、こんなにいい話はあるまい」




 ―― とにかく今度城で行われる園遊会には顔を出せ。いいな。

 要らないと投げ捨てておいて、自分の状況が悪くなれば利用するために簡単に引きずり戻す。あまりの身勝手な行動に怒りを覚えると同時に、きっぱりと断ることのできない自分に苛立つ。何がフレデリカにとって一番いいことなのか、また彼女が何を望むのかわからない。

「きついですか」

 鏡にうつるイライザのしかめ面に、コルセットを締めるのを手伝ってくれていたマリアが事務的な声で聞いた。大丈夫です、と答えて鏡を確認する。ランス伯から送られてきた衣装は昔からあるかたちの、良く言えば伝統的な、悪く言えば古臭いものだった。

「髪も結いますね」

「あ、自分で」

「慣れていますから」

 マリアはイライザを椅子に座らせて髪を梳かしはじめた。旧家の娘として生まれたはずなのに、自分は髪の結い方ひとつ知らない。あの家では令嬢らしい扱いを受けなかったし、フレデリカはなかば男のように育てられ、公の場に出たことは今まで一度もない。

「すみません。何から何まで」

「いいえ。父にも頼まれましたので」

「父?」

 鏡の向こうにむかってイライザが尋ねると、マリアは言っていませんでしたか、と手を動かしながら言った。

「侍従長のメイナードが私の父です」

 言った通りマリアは慣れた手つきでイライザの髪をまとめながら、間をもたすように話し始めた。

「私の一家はほとんど皆ベインズに仕えているんですよ。先々代…… ベインズ王家に代わってからは城に変わりましたが。母も、父と一緒になる前は先代カール王に仕えたと聞いています」

「それなら聞いたことがあります」

 カール王に仕えた優秀な侍女の話は城内では有名らしく何度か聞いた。

「常に先代に付き従って、貴族の生まれでない先代の良き理解者で、とても優秀だったと」

 もし男であったなら侍従長にすらなれたであろうと言われたが、結婚に続いてヘンリーの即位や先代の崩御もあって退職したらしい。その後はどこかの家で乳母をしたとも聞くが、妙な話だ、と思う。人の身の回りを世話するのは女が向いているなどと言い、実際城や貴族に仕える侍従も女の方が多いにも関わらず侍従長を任ぜられるのは決まって男だ。

 できましたよ、と言うマリアに礼を言い、イライザはマリアと二人で衣裳部屋を出た。




 王の私室はフレデリカに与えられた東側の部屋とは真反対の西側にある。アーサーはここへ来るときはいつも緊張する。いや、緊張なら城にいる間はずっとしている。

 部屋の入口に立つ衛士がアーサーに深くお辞儀をした。弟ウィリアムのように王子然とした態度を取るにはまだ足りない。もしかしたら一生できないのではとも思う。そもそもする必要はない。フレデリカが無事即位するところを見届けたら、どこか適当な領地に引っ込むつもりでいる。

『あれと会ったか』

 城に来たその日、王に会うなりそう聞かれた。会いましたが、と答えると、男は静かに笑いながら

『では、お前は私に何を望む』

と言った。悔しさで指先が震えた。あのとき、もう要らないと捨てたくせに。こんなにも簡単に手に入る。人の生き死にひとつで。この男の思いひとつで。

『彼女を守るすべを』

『王配になりたいと?』

 アーサーは黙った。おそらく彼女はそれを望んでいる。けれど―― けれど、そんなことが許されるだろうか、と思う。

 母は侍女だった。身分を理由にヘンリーの配偶となることは許されず、ついには城まで追い出され。城下の隅の小さな屋敷で、たった独りで亡くなった。

 それを、自分がこんなにも簡単に手にしていいはずがない。

『…… まあ、すぐ決めろとは言わんが。では何を持ってお前はあれを守る?』

 ―― ああ、反吐が出る。

『王子という立場を』

 アーサーの答えに、ヘンリーはまた微笑んだ。

『好きにしなさい』



「全てお前に任せるよ」

 ここに来てからもうほとんどお決まりとなった言葉を聞く。城に来た時はかろうじて椅子に座していた王は、今では力なく寝台に身を預けている。フレデリカの成人まで持たないかもしれない。

「ですが、今日の園遊会は国中のほとんどの貴族が……」

「兄上に任せておけ。名前くらいは頭に入っているだろう?」

 確かに入っている。名前だけでなく領地も特産物から夫人の名前、その子どもの名前までもしっかり頭に叩き込んである。聖書を暗記するよりもずっと楽だった。

 正直ショックだった。聖書を暗記するより、何時間も神に祈るより、つまらない聖歌を歌うより。政務について官僚たちに学んだり、貴族や彼らの持つ領地について調べ上げたりする方がよほど自分に合っていた。目的による違いも多分にあろうが、少し触れただけで多くを理解できまた理解したいと思う。神殿でただ祈るばかりだった貧しい人々の生活を、この手で変えることができる。

 その事実に、アーサーは今、みっともなく昂ぶっていた。


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