第11話


 ローレンもイライザも傍にいないというのはいつぶりだろう。

 城の最奥、東側の最上階に与えられた部屋からフレデリカは城下を見下ろした。市でも行われているのか荷馬車が行き交い、人もずいぶんとにぎわっている。

 なんとなく目的もなく人の往来を眺めていると、ふと部屋のドアが鳴らされた。イライザが実家に帰省している中、一人で傍に控えていたマリアが応対に向かった。アーサーのもとへ行ったローレンの代わりにここへ寄越されたマリアは、実によく働く。フレデリカが欲するものを、本人より先に気が付くのだ。王子の側付きというのはこれくらいじゃないと務まらないのかもしれない。

 来客はウィリアムだった。部屋の中に通されるなりウィリアムはフレデリカに本を数冊差し出してきた。

「兄上からだ。気晴らしになればと」

「わざわざ、ありがとうございます」

「確かに渡したからな」

 フレデリカが受け取るとウィリアムはすぐさま部屋を出ようとしたので慌てて止める。

「よろしければ、お茶を一杯飲んでいかれませんか」

 王子が思いがけない誘いに驚いている隙に、

「マリア、殿下のお好きなお茶とお菓子を」

と彼のかつての側付きに命じれば、ウィリアムは少し迷った末大人しく来客用の椅子に腰を下ろした。

「ありがとうございます、殿下」

 唐突に礼を言われて訝しげな表情を作るウィリアムにフレデリカは続ける。

「大切な侍従をお貸しくださって。彼女のおかげで私も私の供もとても助かっています」

「…… そうか」

「殿下のご厚意に感謝いたします」

 フレデリカが再び頭を下げる向かいでウィリアムが居心地悪そうに目を逸らした。二人の間に沈黙が訪れたのを見計らったように、マリアが二人の前へ静かに茶器を置く。ウィリアムが口をつけたのを確認してからフレデリカも茶器を取る。一口飲むとはちみつか何か入っているのかほんのりと甘かった。

「兄上と、随分打ち解けているようだが」

 脈絡なく尋ねられ、今度はフレデリカが首を傾げる。

「呼び方だとか…… その本だって、兄上はお前をかなり気に掛けておられる」

「殿下は――」

 言いかけ、フレデリカは言葉を止める。

「アーサーはお優しい方ですから。私ばかり気に掛けていらっしゃるということはないでしょう。呼び方も、できれば友人のようにとおっしゃるのでそうしているまでのことで」

 ウィリアム王子はフレデリカや亡くなった継承者と同い年と聞く。王配の実子でありながら、アーサーの名声がぐんぐんと高まっている今はまるで正反対といえる。年相応に我が儘で、気難しく、今まで何人もの侍従が辞めていった、というのはイライザが他の侍従たちから仕入れてきた話だ。叔父のベインズ公爵は彼を後継者にと考えているようだが、貴族の中にはアーサーを推す声も徐々に高まりつつあるらしい。この部屋からほとんど出られない自分には分からないが。

「私、ウィリアム殿下とはいい友人になれそうな気がしているんです」

 途端ウィリアムは未知の食べ物を口の中に無理やり詰め込まれたような顔をした。その顔があまりにおかしくてフレデリカはつい笑った。

「…… てっきり王子というのは皆、城に縛りつけられるものだとばかり思っていましたが、そうでない人もいるのですね。そうとは知らずに、私……」

 フレデリカは口籠って窓の外に視線をやった。そこにはフレデリカの瞳の色とは全く違う青が広がっている。

 エリオットも、もし生きて次期国王として城に入っていたなら、ここから同じ景色を見ただろうか。

「そういう意味では殿下と私は似ていますね。城を出たくとも出られない」

「…… 俺は、べつに」

「出ようと思えば出られる?」

 ウィリアムは、はじめて真っ直ぐフレデリカの瞳を見た。金糸のように細くきらめく髪の向こうに、父と同じ澄んだ青がある。継承者が手にしたクッキーの中心に力をこめると、ぱきんと割れて破片がテーブルの上に落ちた。

「でも出ない。私も貴方も、自分から出ようとはしない。ぶあつい仮面をかぶって、ただその時を待つだけ」

「…… 良い子の仮面か」

「ではそちらは悪い子の仮面ですね」

 この部屋に来てようやくウィリアムが笑った。

「不出来なのは本当だ。不思議なことに、不出来なふりをしてると本当に何もできなくなる―― 単に怠けただけだから、不思議でも何でもないか」

 椅子の背もたれに体を預けて、ウィリアムは身体を随分こわばらせていたことに気づいた。首や二の腕、腹、足からふっと力が抜けて体が軽くなったような感じがした。あまりの軽さにふわふわ浮いてどこまでも行ってしまえそうな気さえした。

「殿下――」

「ウィリアムでいい」

 ほとんど無意識に口にして、フレデリカのぽかんとした表情で自分が言ったことに気づく。

「あ…… いや、兄上が呼び捨てにされている場で俺が殿下と呼ばれたり敬語で接されたりするわけにはいかないだろう」

 取り繕うように言うとフレデリカはああ、と合点がいったような顔を見せた。

「たしかにそうですね。考えが至らず、申し訳ありません」

 フレデリカは謝罪したあと少し黙って、ややうつむきながら「じゃあ、えっと、ウィリアム」と呼んできた。それから躊躇うように口を開く。

「その…… たまには、ここに来て、こんなふうに会ってくれる?」

 神の愛し子はけして完璧ではないと、ウィリアムは思う。エリオットがそうであったように。父がそうであるように。

「時間があればな」

 素っ気なく返してやれば、少女が屈託のない笑顔を見せたので、ウィリアムもつい笑った。



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