第7話


 王位継承の証は男子にしかあらわれない。

 国民がみな口をそろえて言うなか、フレデリカは父からこう教わっている。

 建国王クリスティアンは女性であったと。

 クリスティアンだけではない。今まで数多くの女王がこの国に存在したはずだと、かつて父はこの湖に臨み言った。


 一方を険しい山々に囲まれ、もう一方を果てのない海に囲われた大陸の最東端にデュマ家の領地はある。

 現王ヘンリーの祖父、先々代リチャードが庶民の出であった先代カールを早々にベインズ家の養子として迎え入れたことで、ベインズ王家はもう五十年続いたことになる。この五十年で権勢はずいぶんと変化した。この国は隅から隅までベインズのものになろうとしている。かくいうデュマ領も、ベインズ家や傍系であるハクニール家の力によってかつてとはうってかわって狭く寂しいものへとなってしまった。


 フレデリカが六歳の頃である。

 大陸の隅にあるデュマ領の更に端、鬱蒼とした森を抜けると、アーロン神の加護を存分に受けてきらめく小さな湖がある。そのすぐそばに立つ小さな屋敷を、十二歳のローレンはぼんやりと見つめていた。まだ実感が湧かない。誰が治めているかもわからないさびれた町の、小汚い酒屋で、これまた小汚い養父に使われていたところを拾われた。代わりに父は一生生活に困らないほどの大金を手に入れた。

 機嫌の悪い父にぶたれることも、裸にされて家の外に締め出されることもない。清潔な衣類と、日に二度も出される、真っ白いパンと、具だくさんのスープと柔らかい肉。週に一度森の先にある街の小さな神殿で勉強をして、昔城にいたという男から三日に一度剣を習った。それ以外は部屋で勉強したり、湖のほとりで剣の練習をする日々が続いた。

 小さな屋敷の中では自分をここへつれてきた年老いた侍女を見かけるのみで、肝心の主人の姿は見ない。ただ、自分と同い年くらいの少女が屋敷の奥へ出入りしているのを頻繁に見かける。

「ねえ、ちょっと」

 屋敷に入ってから数週間と経ったある日、ついにローレンは痺れを切らして少女に話しかけた。

「あのさ、ここの主人って…… あっ私」

「ローレン。知ってるよ」

 ローレンが自己紹介しようとするより先に少女は言った。

「悪いんだけれど、私からは君に何も教えられない。勉強と剣を一刻も早く身につけるのをお勧めする」

 それが一番賢い。

 そう言うと彼女は背を向けてさっさと歩いて行ってしまった。


 ―― 賢いって、いったいどういうことなんだ。

 あの屋敷にはわからないことが多すぎる。小さいくせに、ほんの上澄みしか見えず、それさえもどこか濁っているようで気持ちが悪い。

 言いようのない不快感をかかえながら三日に一度通っている剣の師の待つ場所へ向かう途中、川辺に人だかりができているのを見つけた。その川は屋敷のそばにある湖から繋がっているもので、町の人間の主な水源となっている。

 人だかりの中には役人が何人かいて、そのさらに奥に何か横に長さのあるものが横たえられていた。むしろからわずかにのぞく顔を目にした途端、ローレンの背中から冷たい汗が噴き出す。いや、きっと見間違いだと思うが、記憶の中の男の顔と、今見たものとがぴったり合わさって、頭から離れない。あれは確かに父だった。

 剣の稽古の最中もそのことばかりが頭の中を占拠して少しも身に入らず注意を受けた。

「―― すみません」

「近頃詰め込みすぎたな。今日はここまでにしよう」

 顔に傷のある男だ。片腕が使い物にならないらしく、いつも片手のみで身の回りのことをこなしている。城を出たのはこれが原因なんだろうかと考えるローレンの前で男が再び口を開く。

「川で遺体が見つかったそうだな」

 心臓が大きく脈打った。可哀想に、と続ける男の次の言葉に背筋が凍る。

「夜道には気を付けるようあれだけ忠告したのにな」

 気付けば駆け出していた。

 ―― それが一番賢い。

 ―― あれだけ忠告したのにな。

 全身が心臓になったように、頭、喉、胸、腕、脚―― 全部が強く脈打つ。震える。倒れる。

 水溜まりに膝をついて、雨が降りだしていたことにようやく気づく。白く清潔だった服はぐっしょりと濡れて皮膚にひたりとはりついている。

 父はけして善人ではなかった。捨て子の自分を拾ったのも、子猫を拾うようなものだったのかもしれない。あるいはいずれどこかへ売るつもりだったのかもしれない。

 ざざ、と木々が怯えるようにざわめいた。

 気付いたときにはもう“それ”はそこに立っていた。

 金髪碧眼。そんなものを持つのは建国王クリスティアンと、彼に大いなる加護を与えた神のみ。背丈は膝まづいたローレンとさして変わらず、ほんの少しだけ向こうがこちらを見下ろしていた。

 雨の降る薄暗い森の中で現れたそれは今まで感じたことのないほどの輝きで、思わず迎えが来たのかと思うほどだった。

「あなたがローレン?」

 耳を打つ声は存外幼く、人間の少女のようなそれで、目の前の存在にはひどく不似合いに思えた。

 神の声というのはこういうものなのだろうか。

 頭に直接叩き込まれるような雨音のなか、愛らしい音色に耳を澄ましながらローレンは意識を手放した。



 体の後ろ半分に、慣れない柔らかさがある。ゆっくりと目蓋を持ち上げるとすぐ近くで大きく物音がして、ちいさな足音がせわしなく遠ざかっていった。

 ほどなくして先程よりは重厚な足音が聞こえ、ローレンは半身を起こした。

「ああ、いい。まだ寝ていなさい」

 その男は今まで見てきたどの人間とも違った。質の良さそうな服を身にまとい、洗練された身のこなしからある程度の身分の人物なのだと分かるが、どこか得体の知れないような雰囲気がある。男は寝台のそばの椅子に腰を下ろすとローレンに向かって手を差し伸べてきた。

「ロナウドだ。ロナウド・エイベル・デュマ。この子は娘のフレデリカ」

 ローレンが手を取ると、ロナウドはすっと目を細めた。微笑んだようにも思えるが、こちらの様子をうかがっているようにも見える。

「会いに来るのが遅くなってすまなかったね。この子のためにやらなければならないことがたくさんあって、つい先延ばしにしてしまった」

 ロナウドはローレンにひとこと謝ったあとフレデリカに部屋の外へ出るよう促した。フレデリカがローレンをちらちらと振り返りながら部屋を出ていくのを見送ってからローレンは口を開いた。

「初めにあの…… あの方を見たとき、神か、もしくはその遣いかと思いました」

「神の遣いか。あながち間違いじゃない」

 ロナウドは笑った。

「あの子が青い瞳を持っていることに、君はあまり驚いていないようだね」

 言われてローレンはようやく思い至る。青い瞳を持って産まれるのは王国が成って以来ずっと男のみだったと、そう言われている。

「…… そうですね。自分でも不思議ですが、すごく…… 腑に落ちた、というか、自然なことのように思います。自分がここに居ることも含めて」

「そうか」

 新たな主人は口の両端を持ち上げて頷いた。

「やはり私の目に狂いはなかった。―― 町のある神官に君の後見を頼んである。父親がいないと何かと不便だろうから」

「……」

「今日からは、ここが君の帰る家だ」

 ああ、やはり。

「あの子を守るのを、手伝ってくれるね?」

 返す答えは、ひとつしかなかった。



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