第3話
青い瞳の、老婆を見たことがある。
それはアーサーがうんと幼い頃、記憶すら曖昧で、いつどこであったことかさえ分からないが、そこにいたのは確かに青い瞳の女性であった。色のない部屋で、真っ白い髪の下にある澄んだ湖のような色をした瞳がよく映えて、まぶたの裏に焼き付いている。
『坊やの目は銀色なのね』
森の中で葉と葉が擦れあうような、耳に心地良い声だった。
『ほら、お日様の光が入ると綺麗な銀色に見えるわ。女神様とおんなじね』
老婆がくしゃりと微笑んで、元から皺だらけの顔がさらに皺だらけになった。アーサーの灰色の瞳を銀色だと、まして母神ニケスと同じだなんて言った人物は彼女だけだ。
瞳が青色以外の人間が王になることはなく、また瞳が青色の者が王以外になることはない。
けれど、女性が王として即位したことはただの一度もないのだと、大人たちは言う。本にもそう書いてある。
自分の記憶を信じるならば、どちらかが間違っているということだ。
この次に即位する王でちょうど百代目。そんなに都合よく青い瞳の、なおかつ男がここまで長い間定期的に生まれるものだろうか?
ごろごろと車輪が石畳を打つ音が思考の邪魔をする。いつの間にか城下に近づいていたらしい。城下町の入り口には人と馬車がやけにたくさん並んでいた。
「今日は市の日ですから」
窓から外を覗くと、向かいに座っていたハワードが言った。
「寄り道はしませんよ」
「まだ何も言ってない」
先手を打つように言ってきたハワードに言いつつ、父から送られてきた手紙の文面を思い出す。
『エリオットが亡くなった』
『もうひとりをお前に任せたい』
エリオットとは確か、次の国王となる予定だった者の名だ。父の兄であるテレンスの息子だが、アーサーは会ったことがない。正確には会わせてもらえなかった。エリオットの姉コーデリアとは同い年であるため神殿学校へ行く前まで二人でよく遊んだが、エリオットにだけは会うことは許されなかった。それに。
(―― もうひとりって何だ)
「殿下、ウィリアム殿下。いらっしゃいますか」
第二王子ウィリアム付きの侍従マリアの声が王城の中庭で響いては木々に吸い込まれていく。マリアが茂みや木の陰をひとつひとつ確認していると、視界の隅で茂みが音を鳴らした。マリアが振り返ると茂みの中から出てきた小さな手がマリアをそこへ引きずり込んだ。
そこはほとんど光の差し込まない、廊下からはちょうど死角になっている空間だった。
背の高い木の隙間からこぼれる細かな光がマリアの頬を刺した。だがそれは、覆い被さってくる男の体で遮られる。自身に迫る男の顔の下半分を、マリアは自らの手でふさいだ。
「そろそろ時間です、ウィリアム殿下」
「……」
「アーサー殿下ももうすぐいらっしゃいます」
マリアがきっぱりと告げると、ウィリアムは舌打ちして体を起こした。自分の体についた葉を軽く払って立ち上がった王子が差し伸べてきた手にマリアは自身のそれを素直に重ねた。なるべく主人に負担をかけないように立ち上がったマリアを見て、ウィリアムは眉根を寄せる。
「お前、また背が伸びたんじゃないか」
「もう伸びませんよ」
それに、とマリアは微笑んで続けた。
「殿下はこれからもっと大きくなられますよ」
ウィリアムは、もう三年は言われてるな、と自嘲気味に笑って中庭を後にした。
エリオットの葬儀はひそやかに行われた。
名のある貴族や、友人さえいない、参列者は身内だけのおよそ神の愛し子とは思えないような式だった。早朝、人目をはばかるように棺がひっそりと城の地下に運ばれていった。城の地下に並ぶ棺は皆、例外なく青い瞳の持ち主である。それだけが唯一、たった今運ばれた棺の中の人物がそうであると証明していた。
ウィリアムは遠くからそれをじっと見つめていた。その生を終えてなお、彼に課せられたものはなくなりはしないのだと思った。
エリオットは城が嫌いだった。貴族も、王も、両親も、自分を寵愛者たらしめているものすべて。大人たちの前で、神を愛しまた愛されている姿を見せながら、ウィリアムの前ではいつも王にならない術を探していた。数年前までは、いつか外に出たいとよく話していた。ウィリアム自身、城が嫌いではないが、ここにいてはマリアとこの先へ進めないことは分かり始めている。
東の空が明るくなってきた。
ウィリアムはしばらくぼうっとエリオットが運び込まれた地下へ続く暗闇を眺めていた。いずれは父もあそこへ入る。王族でない、普通の家族であったならと何度も思った。
「ウィリアム」
ぼんやりと彷徨っていた意識を引き戻すような声に顔を上げれば、いつの間にか父ヘンリーが隣に立っていた。
「疲れないか、立ちっぱなしで」
「いえ…… その」
父と話すのはいつぶりだろう。ヘンリーは最近何かと忙しそうで、同時に何かを急いているようでもあった。
「詩はまだ書いているのか」
唐突な話題に肩がはねた。以前叔父であるベインズ公にそんなくだらないことはやめろと叱られたのが耳に入ったのだろうか。見放されたくはない、とは思いながらも、それで父の意識が兄に向けば、とも思う。返答に迷っていると、痺れを切らしたのか父が先に口を開いた。
「いや、良い良い。好きなだけ――」
言葉の途中で侍従がやってきて、何事かヘンリーに耳打ちした。ヘンリーは額に手をやってそうか、と呆れを含んだため息をつき、侍従にいくつか指示をした。
「私は部屋に戻るが、まだここにいるつもりか」
「あ―― はい。もう少し」
「そうか。体は壊さぬようにな」
父は朝の冷えた空気にやや鼻を赤くしながら言って踵を返した。父を見送って再び地下へ続く道に視線を送ると、そこはもう重い扉がぴったりと閉じていた。
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