第2話
大陸の最北端にある王城から南西の方角に、大神殿と神殿学校はある。神殿学校には毎年何人もの良家の子息が行儀見習いとして入ってくる。ヘンリー王の第一子、アーサーもその一人である。
「どう思う」
「つってもなぁ、王子も十七だし」
「でも弟王子は馬すら乗れないって話だぜ」
「それでも母親の違いはでかいだろ、あの歴史と血を重んじるベインズ公爵家だし」
「でもなあ」
神殿学校の中庭で数人の生徒たちによって密かに交わされていた会話は、人影が差したことでぴたりと止んだ。
父親譲りの黒髪と、曇り空を思わせる落ち着いた灰色の瞳。会ったものは皆口をそろえて、瞳の色さえ違えば父ヘンリーに生き写しだと囁く。ただしそこには父のような威厳はなく、目が合えば爽やかに微笑み、人懐こく声をかけてくる。まさに好青年といった雰囲気を纏っていた。
「ケネス、意見交換会の原稿読んだよ」
アーサーが声をかけると、子爵子息のケネス・ファレルは口の端を持ち上げて言った。
「時間ないのに悪かったな」
「いや、面白かったよ。途中皮肉が効いてて俺は好きだよ」
「正直やりすぎかと思ったけど、どうせ石頭のジジイどもには分からないだろ」
「確かに」
王子がくしゃりと笑うと周りの空気が少しだけ和んだ。
「殿下、俺たち午後から街に出るんですけど、殿下も来ませんか」
ケネスの後ろから身を乗り出すようにして一人が尋ねてくる。
「弟に手紙の返事を書かなきゃならないんだ。残念だけど今日はやめとく。また誘ってくれ」
もちろんです、と微笑まれて、アーサーは中庭を去った。
アーサーが自室に戻ると、側仕えのハワードが書簡を持って待っていた。
「陛下からです」
書簡を受け取り椅子に腰かけて中を見る。文字は父の直筆だった。毎年送ってくる年末の便り以外で父が手紙を送ってきたことは今までなかった。一体何の用だろうかと考えつつ父の字を辿る。
「……」
「殿下? どう……」
「城に」
主人の顔色が変わったことに気づいたハワードが気遣う様子を見せる。握りしめられた手紙は今にも破れそうなほどしわがついていた。
「城に、戻ってこいと」
アーサーはしばらく文面を眺めていると突然手紙を縦に引き裂いた。続けて横に、また縦に―― 何度も繰り返し文字が読めなくなるまで細かく破き、最後に机に力任せに叩きつけた。そこまで一息におこなってアーサーは長く息を吐き、ハワードを振り返った。
「悪い、片付けてくれるか」
「―― はい」
ばらばらになった紙をハワードが片付けるのを横目で見ながら、アーサーは机の上のもう一通の手紙を手に取って寝台に寝転んだ。封を開けて中を見る。異母弟のウィリアムからだ。毎回丁寧な季節の挨拶からはじまり、自分の周りであったことや考えたことを綴ったあとこちらの様子を尋ね、最後はやはりお手本のような挨拶で終わっている。こちらがどんなに素っ気なく返事を書いても、また似たような手紙が次の月の同じ日にきっちり届く。アーサーが神殿学校に入った年から、何年も、ずっと。
「何か面白いことでも?」
思わず笑いをこぼすと、ハワードがそうたずねてきた。
「聞きたいか」
「お聞かせいただけるなら」
「じゃあ言わない」
「さようでございますか」
便箋には香が焚き染めてあるのかほんのりと甘い香りがした。時々、季節の花や珍しい花を押し花にして同封してくることもある。まるで恋人へのそれみたいに。
「毎月毎月、よく送ってくるもんだな」
「兄君の人徳かと」
「そりゃまた、どんな兄君か会ってみたいもんだ」
言いながら、アーサーは手紙を寝台横の引き出しに丁寧にしまった。そして再び寝台に横になるとハワードに「少し寝る」と言って目を閉じた。ではいつもの時間に起こします、と言ってくるハワードに、いたずらっぽく投げかける。
「久しぶりに一緒に寝るか?」
「お戯れを」
穏やかに返され、カーテンが閉まる。アーサーは眠気に抗わず静かに目を閉じた。
屋敷内の騒がしさに、コーデリアは読んでいた本を閉じた。昼から侍従たちが廊下を右へ左へ行ったり来たりしていたが、騒ぎはどんどん大きくなっている。中には侍従頭の声も混じっていて、どうも尋常でない様子だ。
「どうかしたの」
自室から廊下に出てたまたま近くにいたらしい侍従に尋ねる。侍従は慌てふためいた様子でそれが、と話し出す。
「エリオット様のお姿が見つからないのです。昼からかれこれ三時間ほど探しているのですが…… コーデリアお嬢様はご存知ないですか」
「さあ、知らないわ」
弟が屋敷から姿を消すことはよくある。勉強や稽古の最中に抜け出したり、もしくはその直前に姿を消したりする。たいていは数名の侍従が探し出してから小一時間もすれば見つかって連れ戻されている。日も暮れかけたこの時間になっても見つからないということは未だかつてない。
コーデリアは屋敷の反対側にあるエリオットの部屋に向かった。
以前、エリオットが見つからないといって侍従がさんざん探した末に、当の本人は自室で寝ていたということがある。侍従が探したはずの場所をコーデリアが訪れるとあっさり姿を現したことが今まで何度かあるし、侍従から隠れるためにコーデリアを利用することもある。
弟の部屋に入ったがしかし、姿はない。
「エリオット? ―― 私よ、コーデリア」
返事はない。
部屋を見回す。普段と別段変わったところはない。コーデリアの部屋と違うのは、刃物と火を扱う物の類がまるでないことくらいだ。刃物がないのは七歳のときに自分の眼をつこうとしたからで、ペン以外の尖ったものがないのもそのせいだ。火を扱うものの類で灯りさえも置いていないのは、十歳のときに自分の眼を蝋燭の火で焼こうとしたからだ。そのときの火傷の痕は今も残っている。
その日、コーデリアは夕食のあともエリオットの部屋で彼を待っていたが、弟が帰ってくることはなかった。
翌朝、険しい足音にコーデリアは目を覚ました。昨夜はエリオットの寝台で寝てしまったらしい。荒々しく部屋の扉が開く。コーデリアが体を起こして部屋に入ってきた人物を確認するより先に、激しく頬を張られた。旦那様、と侍従の誰かが叫んだ。
頬が熱い。口の中で血の味がする。ああまたか、と思った。
「お前はどれだけやれば気が済むんだ」
「何の話?」
「とぼけるな」
平静を装って尋ねると、今度は反対の頬を叩かれた。
「お前が日頃街でケネス・ファレルと会っているのを知らないとでも思ったか」
「話が見えないわ」
「隠しても無駄だ。あれが素行の良くない連中とつるんでいるのは知っている」
「それが何なの? 一からきちんと……」
話の外側だけを延々と話されているようで苛々してくる。説明を求めようとすると「コーデリア」と母が出てきて目の前に膝をついた。
「あなたの気持ちも分かるけれど、今はエリオットのことだけ教えてくれたらそれでいいのよ」
コーデリアの背筋をぞわりと寒気が駆け上がった。
懇願するような母の口ぶりからすると、まるでエリオットがまだ帰ってきていないようではないか。嫌な予感に言葉を探していると一人の侍従がまろぶように駆け込んできた。
―― エリオット様が。
それからのことはよく覚えていない。弟の寝台に腰掛けたまま、周りで飛び交う音をただ聞いていた。
しばらくして帰ってきた弟は全身真っ青だった。彼の体で唯一青いはずの瞳は閉じられ、開く気配がなかった。弟のそばでは母がひざまずいて泣いていた。
エリオット・オーツ・ベインズ、十四歳。王位継承者として城に入る一か月前のことだった。
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