第三楽章(16)

 その晩、アパートに帰った徹は、何の気なしにTVのスイッチを入れた。

 ちょうどニュース番組をやっていたので、着替えながら聞き耳をたてる。画面では、若い女性レポーターの現場中継の様子が映し出されていた。その重たげな口調から、何かよからぬニュースであることが伝わってくる。着替えを済ませた徹は、なんだろうと思って、TVの前にあぐらをかいた。

 それは、男子中学生が父親を包丁で殺害したというニュースだった。クラスでは成績もよく、学級委員をつとめる、ごく普通の生徒だったとレポーターは告げた。

 何か衝撃的な問題を起こすのは、いつも決まってこんなごく模範的な生徒たちなのだ。表面的には平穏に見えても、彼らの心の中には、とても自分ひとりでは処理し切れない苦悩が、渾沌と渦巻いているのだろう。それがふとしたきっかけで一気に爆発する。つい数日前にも、似たような事件が報じられたばかりだった。


(まったく、最近は殺伐としたニュースが多いな……)

 うんざりした面持ちで、徹はチャンネルを替えた。途中、いくつかの連続ドラマのありきたりのシーンに混じって、聴き覚えのある音楽が徹をとらえた。


(あれ? これは41番じゃないか)

 チャンネルをそこで止めると、ひとり暮らしの徹の部屋に41番がおごそかに流れ出した。つい数秒前まで物騒なニュースを報じていた同じ画面に、今はまったく違う荘厳なシーンが映っていることを不思議に思いながら、徹はそのまま寝転がってオーケストラの演奏風景を眺めた。

 このとき、徹の脳裏にふと先日の間宮の一言が浮かんだ。


「神話には親殺し、子殺し、近親相姦みてえな場面がやけに頻繁に出てくると思わねえか」


 ついさっきのニュースの残像のせいだろうか、目に映る画面の進行とは無関係に、徹の思考はさらにそちらに向かっていく。

 間宮の言う通り、神話の神々には殺戮や情事は付き物だった。親殺しといえば、ギリシャ神話では、ウラヌスは父親であるクロノスを鎌で切り殺したとされているし、類希な女好きのゼウスは、神々の家系図からもわかるように、自分の姉妹やいとこ、それに自分の孫にあたるアルクメネとまで関係を持ち、ヘラクレスを生ませてしまう。つまり、ヘラクレスはゼウスにとっては曾孫であり、また息子でもあるという妙なことになるのだ。

 軽快に進行する交響曲と、神々が繰り広げる酒池肉林のイメージとが、徹の頭の中で微妙に混じり合う。


 バックに流れる41番が第二楽章に入った、ちょうどそのときだった。徹の脳裏にいつかの夢のシーンが、突然蘇ったのだ。大きな物体に向かって、自ら突進していくあの場面だ。はっとなった徹は、すべての意識をそちらに集中した。徹にはこの夢の実体験の記憶があった。今度こそ、その正体を引っぱり出してやらなければ……。


 自分の意のままに事が進まないと荒れ狂うゼウス、彼に逆らう者などだれひとりとしていなかった。そんな荒くれ者、ゼウスは、太陽系最大の惑星、木星のイメージとぴったりと重なり合う。その周囲をめぐる小さな星々は、ゼウスの強大な引力に引き寄せられていく。いったんその手にかかると、抵抗するすべもない。いまでは無数の星屑が、小惑星帯として周回しているだけだが、火星と木星の間には、かつてもうひとつ惑星があったのではないかと言われている。その星屑の中のひとつにヘラがあった。神話では、ヘラはゼウスの正妻として知られている。とても嫉妬深い女神だ。 


 徹の意識は、いつしか主神ゼウスに引き寄せられる小さな星屑と同化していた。一段と加速して、木星という巨大な球体へと突き進み、ついには激しく衝突した。そして、表面の膜のような壁を突き抜けたかと思うと、さらにその内部へと潜り込んでいった。徹の頭の中で、天球で繰り広げられる壮大なドラマと、いつか機内で見た不可解な夢のシーンとが完全に重なり合った。徹の意識は、その最深部にある核へと突き進み、ついに最終ゴールへと到着した。

 やがて、自由な感覚は失われ、徹の意識は別の大きな力に支配されはじめた。心地よくもあり、息苦しくもあり、嬉しいようで悲しく、抗いたいが、運命として受け入れざるをえないような、そう、あのときと同じ相反する感覚が押し寄せてきた。その感情に揺さぶられながらも、徹は必死に夢の正体を掴もうとした。真実を見極めようとした。


 その執念がまさったのか、ついに徹は戦慄にも似たインスピレーションを得た。


(なんということだ……)


 徹にはそれが何だったのか、いまようやくわかった。過去の遠い記憶に実体験として残っていたもの、それは紛れもなく『受精』の記憶だったのだ!


 それを記憶と呼ぶには、あまりに特異ではあるが、精子というたったひとつの微小な細胞だった自分が、巨大な球体である卵子に向かって、一心不乱に突き進んだ記憶、それが木星に引き寄せられる彗星の宿命的な動きと同化し、鮮烈な記憶となって浮上したのだ。宇宙というマクロの世界で恒常的に繰り広げられる天体同士の衝突と、胎内というミクロの世界での神聖なる行為は、見事なまでの相似関係を織りなしていた。

 理由はわからないが、モーツァルトの41番には、生命誕生の原点である『受精』を思い起こさせる不思議な働きがあるのだ。おそらくだれもが気付けるものではないのだろう。ある一定の条件が満たされた場合にのみ、このメッセージが伝達されるのではないか。きっと望もこれに気付いたに違いない。そして、謎の自殺を遂げたのだ。


(でも、どうして……)


 徹には、望が死を選んだ理由がどうしても理解できなかった。41番を聴いて、仮に受精の記憶が蘇ったからといって、それでなぜ死ぬ必要があるのだろうか。その謎を解き明かすことこそが、望と共通の夢を見た徹に与えられたこれからの使命だった。

 そう決心したとき、画面の中の指揮者は激しく振り回していたタクトを降ろし、第四楽章が終わった。やがて、フェイドアウトした画面に『純正律による交響曲41番・ジュピター』とプログラム・タイトルが表示され番組は終了した。

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