第三楽章(15)
その日、山下隆一は街のレコード屋に立ち寄った。ときどき、こうしてふらりと入っては、目についたCDを2、3枚、買って帰るのが彼の習慣だった。クラシック・コーナーに足を踏み入れると、BGMにはワーグナーがかかっていた。代表作のローエングリーンだ。
ふと隆一は、この曲にまつわる有名な逸話を思い出した。若くしてバイエルンの国王となったルードヴィッヒ二世の話だ。
ワーグナーに心酔していたルードヴィッヒ二世は、この曲から啓示にも似た強烈なイメージを受け、夢のような城をいくつか建設したといわれている。ベルサイユ宮殿を模倣したヘーレンキムゼー城、ロココ調のリンダーホフ城、そして、白鳥城の異名で知られるノイシュバンシュタイン城だ。アルプ湖を見下ろす険しい岩山に建つノイシュバンシュタイン城の建設には、十七年もの歳月をかけた。だがその後、ルードヴィッヒ二世は、謎の入水自殺を図った、というものだ。
音に込められたメッセージは、人の心を動かす。ワーグナーの曲には、明らかにあるメッセージが込められていた。繊細なルードヴィッヒ二世は、それを感じ取り、中世騎士の夢幻の世界に憧れて、国家を財政難に追いやるほどの豪華な城の建設を強行した。そして、ついには自らの命も絶った。
ローエングリーンは、ちょうど第三幕の「早朝のシェルデ河畔」の部分にさしかかっていた。その柔らかな弦楽器の音色が、急に隆一の頭の中でぐるぐると回りはじめる。
隆一はモーツァルトのコーナーの前に立っていた。大抵の有名な指揮者や楽団のアルバムはすでに持っているので、新たに買うべきものはないのだが、その中の何でもない一枚のCDが、なぜか隆一の注意を引きつけた。ジャケットには「AMADEUS」と彼の俗称が記されている。突然、隆一の脳裏に、先日の摩耶子の言葉が蘇った。
(ジュピターが、望さんの死因と何か関係があるとは考えられないでしょうか?)
再度、ジャケットを凝視した隆一ははっとなった。
「なんてことだ……」
モーツァルトは、自らの名前の中に堂々とジュピターを抱え込んでいるではないか。モーツァルトの俗称、『アマデウス』、その前半分のアマは、ラテン語系のアモーレやアムールなどの言葉にもつながる「愛」を意味する。そして、後の半分のデウスは、ゼウスと同義で「神」を表す、つまりアマデウスとは、ギリシャ語で「神に愛されし者」という意味なのだ。
「となると、やっぱりザロモンは……」直感にも似た閃きが、このとき隆一に起こった。隆一はすぐさま店を出ると、通りの公衆電話の受話器をとった。
「摩耶子さん、わかったよ。君の言った通りだ!」
「どうしたんですか?」
唐突な電話の声に、摩耶子は驚いた。ちょうど夕方の新宿の雑踏を歩いているところだった。
「この間、摩耶子さんは、望の死因はジュピターと何か関係があるんじゃないかと言ってたね。そのとき、私はジュピターと命名したのはモーツァルト自身ではないから、それはあり得ないと答えたが……」
「ええ……」
「たった今気付いたんだが、モーツァルトが曲に込めたメッセージを、最初に受け取ったのが、実は他ならぬ評論家のザロモンだったんじゃないだろうか。そして、彼はメッセージに従って、41番にジュピターと命名したのではないだろうか」
隆一の会話に付いていけないのか、摩耶子の反応には妙な間が空いた。それを察した隆一は、呼吸を整えてから説明を加える。
「つまり、ザロモンがあの曲を聴いてジュピターと名付けたことこそが、メッセージを受け取ったという証拠なんだよ。そして、同様に望も41番から何らかのメッセージを受け取ったんだ」
「今、お外からですか?」電話の背後が騒がしいので摩耶子は聞いた。隆一が居場所を告げると、摩耶子は「そこならば、今から20分ほどでお伺いできますから」と言って、携帯電話を切った。
指定された喫茶店に入ると、隆一は待ち構えていたように摩耶子に手を振った。顔がいくぶん紅潮している。コンサートの夜、もう再び会うこともないと思ったが、こうして再び顔を合わせることとなった。隆一と摩耶子を結び付けているもの、それは望の死にまつわる謎だった。その真相を突き詰めたいという思いが、こうしてふたりを引き合わせている。
隆一は、ルードヴィッヒ二世の逸話を簡潔に話してから、摩耶子に持論を説きはじめた。
「モーツァルトは、自らの交響曲41番に何らかのメッセージを込めたんだ。それはモーツァルトにとっては、精神をすり減らす大仕事だったに違いない。以降、これ以上の作品は書けないと言って、交響曲の作曲は辞めてしまったくらいなのだから……」
「そう考えると、当時、だれからの依頼もなく曲を書いたわけも、生前に演奏されなかったことも納得できますね」
「そうなんだ」
「でも、モーツァルトは、はじめからメッセージを込めることを意図して41番を書いたのかしら?」
「さあ、それはどうかな。それを意図していたのかどうかは、モーツァルト自身がすでに過去の人となってしまっている以上なんともいえない。もしかしたら、モーツァルトは、ただ無意識に音を紡いだだけかもしれない。
そもそも交響曲が盛んになったのは、今から百年前くらい前の話なんだ。それまでシンフォニア、つまり現代でいう交響曲は、オペラがはじまる前に会場を静めるための余興のようなものだった。そんな当時の状況を考えても、41番はジャンルの概念を超越している。だからモーツァルト自身は、無意識に書いた可能性もあるだろう」隆一は眉間に皺を寄せて答える。
「それとも、モーツァルト自身、どこからか衝撃的なメッセージを受けたものの、とても自分の手には負えないので、そのまま交響曲に折り込んで、判断を未来に託したなんてことは考えられませんか?」
「うーん、それもあり得ると思う。モーツァルトは、41番を後世の人々に聴かれることを意識して書いたのかもしれない。未来のだれかがきっと解読してくれる、そう願って交響曲にそれを折り込んだのかもしれない。モーツァルトの曲には、確かに通常の概念をはるかに越えた何かに導かれているような部分があるんだ。彼の曲には、当時の楽器では実際に演奏のできない曲もあった。彼の死後、数十年が経過して、対応する楽器ができて初めて演奏されたという話もあるくらいだ」
「でもそのメッセージって、いったい何だったんでしょう? 望さんも本当にそれを受け取ったのかしら……」
「そうに違いない。望は何かを掴んだんだ」
隆一は自信ありげに言った。それは長年、父親として厳しく接してきたからこそ持てる確信だった。望からの最後の留守録メッセージを、摩耶子は聞いてすぐに消してしまったが、そこには悲愴感はなかった。それは不思議な印象として今も記憶に残っている。
「とにかく、詳細はどうあれ、ザロモンこそがメッセージの第一受信者だったんだ。そして41番にジュピターと名付けた。神話の神々は他にもたくさんいるのに、マーズでもエルメスでもなく、ジュピターにしたのは、ザロモンがそこに他ならぬ意味を感じ取ったからだろう。たまたま彼の職業が音楽評論家だったため、以後、ジュピターが通称として広まり、定着するようになった」
「でも、どうしてジュピターだったんでしょう?」
「それは……、おそらく、ジュピターが神の中の神だからかもしれない。そして、望はその神からのメッセージを受け取ったのだ」
「神からのメッセージ? 望さん、あなたはいったい何を聴いたの?」
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