第二楽章(7)
朝の香りをたっぷりと含んだ潮風が、摩耶子の鼻孔をくすぐる。
目覚めたベッドの中で、摩耶子は昨夜見た夢をぼんやりと思い返していた。やはり望に対する罪悪感が拭い切れないのだ。本当に面と向かって謝ることができたなら、どれほど気持ちが楽になることだろう。でも、それはあり得ないことだった。
部屋の外から談笑が聴こえてきた。急に現実に引き戻された摩耶子は、自分がギリシャに来ていたことを思い出した。そして、昨日からの出来事をひとつひとつ思い返しながら、わずか二十四時間が経過しただけで、まったく別の世界に身を置いていることを不思議に感じた。あのまま、クルーズ船の列に従っていたら、今頃どうなっていただろう? 摩耶子は新婚カップルのとろけた顔を思い出して身震いした。
外から一段と高い笑い声が聞こえてきた。もう徹も起きているようだ。摩耶子は手早く着替えを済ませて部屋を出た。
「おはよう、よく眠れたかい?」
すっきりとした表情の徹は、籐の椅子に座ってコーヒーをすすっている。
「ええ、もう朝までぐっすりだったわ」答えながら、今、ここでこうして朝を迎えていることを、摩耶子は気恥ずかしく思った。それを隠そうと、窓の外を眺めたりしていると「さあ、朝食の準備ができたよ」と奥からペトロスが呼ぶ。望の夢を見たことなど、もうすっかり忘れていた。
テーブルには、トーストにコーヒー、それに皿には密をたっぷりと含んだメロンが盛られていた。コーヒーは当然、グリークコーヒーだ。
「食事が済んだら、今日は島を案内するよ」トーストにアプリコットジャムをたっぷり塗りながら、ペトロスが陽気に微笑む。メロンを一切食べ終わる頃、摩耶子のコーヒーの上澄みもすっかりと沈んだ。
ペトロスの車で、島の中心街、ピタゴリオンへと向かう。
二日目になって、徹はペトロスの癖のある英語にも慣れてきた。互いにつたない英語だが、不思議と意思が通じあうようになっていた。
潮風にさらされているせいだろうか、ペトロスの車はあちこちが錆び付いていた。乗り込むと、車内はたばこの匂いが染み着いていた。ペトロスの運転はけっして乗り心地がいいとはいえなかったが、ギリシャではこれくらい普通なのだろう。カーブのたびに左右に振られる摩耶子を気にも留めず、乱暴にアクセルを踏み込んだ。
「ところで、この町で生まれた有名人がいるのを知ってるかい?」
「有名人?」
「そう、とっても有名な人だ。ピタゴリオンっていうこの町の名前も、実はそこからとったんだ」
「ピタゴリオン……って?」
「それって、もしかしてピタゴラスのこと?」
(ピタゴラスって、最近、どこかで聞いた名前だけど?)答えながら、摩耶子は記憶をたどる。
「そう、その通り!」
摩耶子が正解を出すと、ペトロスは喜んで振り返った。一瞬、ハンドルが振れ、ふたりが慌てる。
町のはずれに車を停めた。道路脇には賑わいができている。朝市だ。キュウリやピーマン、トマトなど、日本のものよりやや大きめの野菜が、ざるに山盛りになっている。木枠に並べられた採れたての魚も新鮮そのものだ。あちらこちらで、買い物かごを片手に大声を張り上げて語りあう主婦の姿が見られる。井戸端会議に国境はないようだ。
雑踏を抜けた三人は、やがて町の中心の広場に出た。地面にはきれいに石が敷き詰められている。ペトロスはその広場の一角に向かってすたすたと歩き出した。ふたりもあたふたとそのあとに着いていく。
「ほら、これが彼、ピタゴラスの記念碑さ。よく見てごらん」
ペトロスが示した大理石には、何やら細かい文字がたくさん刻まれている。
「へぇ、でも、よく見ろって言われたって、ギリシャ語じゃあな……」
ブツブツ言う徹の後ろから、摩耶子もそっとのぞき込んだ。
ペトロスは自慢げな笑みをたたえてふたりを見守る。確かに、昔、数学の時間に習ったような記号が羅列しているだけで、ふたりには意味などまったくわからない。
「あれ?」
突然、徹が声を上げる。
「どうしたの?」
「これ、何か変じゃないか?」
「変.……?」摩耶子には、徹の言っていることがわからなかった。
ふたりの様子を見て、「どうしたんだ?」と、ペトロスが割って入ってきた。
「何だかこの字は変な感じがするんだけど……」
「気付いたか?」
ペトロスは、摩耶子にも謎解きを勧める視線を向ける。一緒に考える摩耶子。
「そうか、わかったぞ」先に声をあげたのは徹だった。
「何か変だと思ったのは、そこだったんだ」
「何のこと?」摩耶子はまだ合点がいかない。
「マヤ、鏡を持ってるか?」ペトロスに尋ねられ、摩耶子はハンドバッグから小さいコンパクトを取り出して渡した。受け取ったペトロスは、摩耶子を記念碑に背を向けて立たせた。そして鏡を開くと、そこに記念碑に書かれた文字を写し出した。じっとのぞき込む摩耶子。
「ああ、やっとわかったわ」
鏡には数学記号として見覚えのあるギリシャ文字がちゃんと映っていた。
「鏡に映してちゃんと読めるってことは、つまり記念碑には裏返しに書かれているってことさ」大理石を指でなぞりながら、徹が言う。
「でも、どうして逆さまになってるの?」
「さあ、なんでなんだろう?」ふたりはペトロスに説明を求めた。
「当時、ピタゴラスの研究は、ある種の秘学とされていて、筆記が禁じられていた。そこで、生徒たちは苦肉の策で他人には読みづらいように、習ったことを逆さまに書くようになったんだ。この記念碑の文字はその名残さ。ピタゴラスは『万物は数なり』と言って、この世のあらゆるものは数によって表されると考えていた」
「万物は数……かぁ」
「なんだか難しそうね」
「そうそう、ピタゴラスは数学だけじゃなくって、天文学の研究者でもあるんだ」
思い出したように徹が言った。
「その通り!」
「それに、音楽の創始者でもあったんでしょ?」いつかの望とのスタジオでのやりとりの記憶が蘇った摩耶子が添えた。
「ふたりともよく知ってるね。……ピタゴラスは言った。天体の比が壮大な音楽を奏でてる、と。ピタゴラス教団の主神は、音楽の神アポロンなんだ。アポロンはゼウスの使いであり、またアポロンは太陽神とみなされ、ギリシャでは知性と文化の象徴ともなっているんだ」
「なんだか深いなぁ」しきりに感心する摩耶子。あの日、スタジオで調律について語ってくれた望の姿がふと脳裏に思い浮かぶ。
「ところで、この記念碑にはなんて書いてあるの?」
徹の問いかけに、ペトロスが頭の中で英語に変換するまでにしばしの間が空いた。やがて、急に真顔になって、ペトロスはその意味を語る。
「人間の魂は本来死ぬことはない。罪を犯した罰として肉体につながれている。輪廻転生の苦しみから魂を解放し、浄化するために学問がある。音楽、数学、天文学、それらの学問は、すべて同一の宇宙の理によって支配されている」
内容が難解なだけに、ペトロスはあえてゆっくりと語った。ふたりは頭の中でその言葉の意味を反芻する。
「ピタゴラスって、どうやら単なる数学者じゃなかったみたいだな」
古代の研究者を越え、どこか宗教家のようなイメージすら湧き上がった。ふたりのピタゴラスに対する印象はがらりと変わった。
車は次にヘラ神殿へと向かった。小高い丘の中腹にある遺跡だ。
「見ての通り、今じゃ石柱が一本残っているだけだけど、ここにはかつてヘラ神殿という壮大な神殿があったんだ」
徹には、ここが神殿跡だとはとても思えなかった。雑草の生えた広い土地に残っているのは、わずかに一本の石柱だけだった。
「ヘラは、ギリシャ神話ではゼウスの正妻だった。でも勝手気ままなゼウスは、ヘラだけでは満足せずに他にも女性をたくさんつくったんだ。ちょっと余談だが、ジューン・ブライドってのを知ってるか?」
「6月の花嫁のことかしら?」摩耶子が言うと、横で徹がうなずく。
「実はジューン・ブライドという言葉も、ヘラに由来しているんだ。ヘラはイタリア語ではユーノー、英語だとジューンになる。一般的には、6月に結婚すると幸せになるなんて話があるみたいだけど、ギリシャじゃヘラは嫉妬深い女の代名詞になってるんだ」
「へぇ、知らなかった。じゃあ6月に結婚するのは考えものなのね」
「まあね。……おっと、さっきからひとりでずっとしゃべりっぱなしだな。ギリシャ人はおせっかいな国民なんだ、許してくれ」
ふたりに気を利かせたつもりか、ペトロスは優しげに微笑むと「あっちで待ってるから」と言い残して車へと戻っていった。
ペトロスの話は、摩耶子の気持ちを随分と楽にさせた。壮大な歴史の話を聞いていると、まだ30年しか生きていない自分の存在など、とてもちっぽけなものに思えてくる。そして、隣には同じ話を一緒に聞いているトオルがいる。昨日出会ったばかりだけれど、異国の地で同じ時間を共有している。心地好い存在といっていい。このとき、摩耶子は急に自分の胸の痛みを、トオルにだけは話したいという衝動にかられた。
「女がひとり、行き当たりばったりで船に乗るなんて、変なヤツって思ってるんじゃない?」
突然の話題の転換に、徹は「えっ?」と言って固まった。もちろん興味がないと言えば嘘になる。何かわけがあるからこそ、ひとり旅にも出たのだろうし、アテもなく船にも乗ったのだろう。だが、徹は自分から聞くことはためらわれていた。それを摩耶子から切り出されたので、徹は驚いた。
「カッコよく言えば、感傷旅行なの」
「どうしたんだよ、急に。別に無理に話さなくたっていいんだよ。名前以外は聞かずにおこうってのが、はじめの約束だから」
言葉とは裏腹に、徹の興味は膨らんでいく。気遣いのある対応に、摩耶子は返って聞いてほしくなる。
「いえ、話させて、そうでないと……」
(そうでないとどうだというのだ? トオルに自分を知ってもらいたい……、私、そう思ってる。どうして? もしかしたら、トオルのこと……)
「ならば聞かせてもらいましょうか」妙な間を埋めるように徹が言う。
「あそこに座らない?」
摩耶子が指差す方向には、遺跡の残骸が転がっていた。この石もかつては荘厳な神殿の一部で、数百年に渡って祭事を支えていたに違いない。だが、大きさといい、高さといい、今では座るにはちょうどよかった。
「親しい友人が亡くなったの……」と、摩耶子は、仕事上での知り合いとした上で、望との関係について話しはじめた。約束通り、あえて素性が知れるような事柄には触れずに話した。最後に少しためらってから、今回の旅の、つまり感傷旅行の発端が望の自殺にあったことについても話した。意外な話の展開に、徹は一瞬、呆気にとられた。
「誘われていたコンサートに行けなくて、その晩、謝りの電話をしたら、もう事故の後だったの。彼の部屋には、ちょうど一緒に聴くはずだったモーツァルトの曲がかかっていたわ。交響曲の第41番が……」
徹はその彼と摩耶子の関係を憶測した。ただの友達のような口振りだが、摩耶子は彼に好意を抱いていたのではないだろうか。でなければ、感傷旅行の必要などないだろう。
「もしかして、それで自分を責めてるってわけ?」
「だって、私が約束を守ってさえいれば……」
関係がどうあれ、その一件が摩耶子の心に重くのしかかっていることだけは事実だった。このとき、徹はそれを少しでも自分が軽減してやれたらと思った。
「原因は君じゃないよ」
「えっ?」
「きっと、何か他にわけがあったのさ」
「どうしてそんなことがわかるの?」
根拠などない、でもそんなに人は簡単に死ねるものではないと咄嗟に思っただけだ。それに、否定してやることが、今の自分の役割のように思えた。
「モーツァルトさ、きっとそのコンサートがあまりに素晴らしくて、彼の才能に嫉妬したんだよ」
あまりうまい説明とはいえないが、そんな言葉が口を突いて出た。
「ありがとう」
摩耶子には、徹が一生懸命に励ましてくれているということが伝わった。
(出会ったばかりの人に、こんな話をするほうが、どうかしいてるのだ。話したくなったから話した、ただそれだけ……。それによって、少しでも心の痛みが癒えるかもしれないと思ったのなら、それは私の身勝手な期待……。でもトオルは、その期待に一生懸命に応えようとしてくれている。優しい人……)
「彼にどんな理由があったのかはわからないけど、もう過ぎちゃったことだろ。時間は元には戻らないんだ。こんなこと言ったら、気を悪くするかもしれないけど、そのことで、今の自分を、そしてこれから先の貴重な時間を無駄にすることはないと思うよ」
「でも、私が約束を破ったばっかりに……」
「だから、そうとも限らないじゃないか。それにそんな君の姿を見たら、果たして彼はどう思うだろう?」
(私を苦しめたくて、望さんは死を選んだの? それは違う。性格的にはおとなしくて不器用なところはあったけれど、望さんはそんなことはしない。絶対にそんな人じゃない)
「今の自分を大切に生きなきゃ……」
摩耶子にそう言いながらも、徹はどこか実感が湧かなかった。
(なぜだろう? 「今の自分を大切に」、その言葉を、今一番理解しなくてはならないのは、きっと自分自身なのだ。自分こそ今を生きていない。これまで現実に目を背けて生きてきたのは自分じゃないか。それなのに、他人に偉そうなことを言える立場だろうか?)
その感情をかき消すためにも、次の言葉を重ねる。
「結局、人間には今しかないんだよな。どう逆立ちしたって、過去には戻れないし、明日はいつまでたっても明日なんだから。今を大切に生きるしかないんだ……」
「ありがとう、……でも……」
(でもなんだというのだ。トオルの言う通り、私は今という唯一の時間を無駄にしている。時間がたてば、いつかはこの重苦しさから解放されるのだろう。でもいつになったら? 今を変えなきゃ、今から変えなきゃ、明日だって何も変わりはしない。それはわかってる、充分にわかっている……)
「ちょっと、勝手なことばかり言い過ぎたみたいだね、……ごめん」
摩耶子に言葉を浴びせながら、徹は自分自身に言い聞かせていた。自らの生き方を叱責していた。それでついつい語気が強まった。でも、彼女がそばにいてくれたら強くなれる、そんな気がした。互いの弱い部分を支え合って生きていけたら……、と。
(もしかしたら、俺はマヤのこと……)
摩耶子の告白を通じて、ふたりの距離は急速に縮まった。
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