第二楽章(6)
ペトロスの家は、港から十分ほど歩いた高台にあった。眼下には青々としたエーゲ海が見渡せる。
けっして大きくはないが、彼と両親の家族三人が住むには充分なスペースだ。玄関先にはブーゲンビリアがアーチをつくっている。その脇で、老夫婦は日向ぼっこをしている。なんと平和に満ちた光景だろう。
リビングに案内されたふたりは、早速、歓迎のウゾを供された。香草の香りがツーンと鼻をつく。ちょっと癖のある味に、摩耶子は口をつけるなり顔をしかめた。それを見たペトロスの両親は「無理しなさんな」とでも言いたげに微笑んだ。そんな柔和な笑顔に気持ちが癒される。今ごろ、朝のクルーズの連中はどうしているだろう? 自分がいないのにようやく気付いて慌てているかもしれない。いや、そんなことはない。島でおいてけぼりになっても知りませんよ、と言われていたではないか。どうせ明日にはツアーを離団することになっていたのだ。だれも心配などしないだろう。そう考え及んで、ほっとした摩耶子の心に、寂しさが後を追って込み上げてきた。
(ああ、今の私にはいなくなっても気にしてくれる人もいないのかぁ……)
こうしてみんなで過ごしていると、時間のたつのも忘れてしまう。だが、時計の針はとうに十二時を回っていた。ギリシャには、まだシエスタの習慣が残っているので、午睡をしたペトロスはまだまだ元気だ。
「今日は疲れただろう、そろそろ休むかい?」
ペトロスは微笑むと、摩耶子を寝室へと案内してくれた。
可愛らしい部屋だった。その部屋に入るなり、そこがかつて若い女性に使われていたことが、摩耶子にはわかった。丁寧にメイクされたベッドの脇にある窓からは、夜の海が見渡せる。月の光が海面にゆらゆらと反射している。
白い壁にかけられた一枚の写真が、摩耶子の興味を引きつけた。若い女性が微笑んでいる。目もとのくぼみ加減にペトロスと共通したものがあった。
「あら、これは娘さんかしら?」
「ノー、妹さ」
「妹さん? でも随分若いわ」
摩耶子が驚いたのも無理はなかった。なぜなら、その写真の女性は、ペトロスとはちょうど親子ほど離れてみえたからだ。だがよく見ると、その写真はかなり古いものだった。
「アフロディーテ……、彼女が十九歳のときの写真さ」
「今は彼女はどこに?」
一瞬、重い間を置いてから「パラディソス……」とペトロスは答えた。
「パラ……ディ……ソス?」摩耶子はどこかの地名かと思って聞き返す。
「パラディソス、英語だとヘブンさ。彼女は死んだんだ」
ペトロスは指で天をさし示しながら言った。頭の中でやや遅れて「ヘヴン」が「天国」という単語と結びついて、摩耶子はドキッとする。にこやかだったペトロスの表情にふっと翳がさした。
返す言葉に窮している摩耶子に、ペトロスは「それが妹の人生さ。残された俺たち家族は、ただそれを悲しみとして受けとめることしかできない」とぼそりとつぶやいた。
「アイム・ソーリー……」
立ち入ってはいけない部分に触れてしまったのだろうか。
「カリ・ニヒタ、……グッド・ナイト」
「グッド・ナイト」
ペトロスは精いっぱい、繕いの笑みを残してドアを閉めた。
やがて、ラジオから流れるブズキの民族音楽に合わせて、ペトロスが口ずさむのが聴こえてきた。どことなく日本の演歌に似た哀愁を帯びたメロディーだ。時差ボケと歓迎のウゾが効いたのか、急に睡魔が襲ってきた。写真立ての中の妹の笑顔がどんどん遠ざかる。感傷旅行だっていうのに、こんなことになっていいのかな……。心の隅にわずかながら後ろめたさを感じつつ、摩耶子は眠りに落ちていった。
----------どこか遠くから音楽が聴こえてくる。魅惑的な弦楽器の音色、その音のする方向から、だれかが私を呼んでいる。「早くこっちにおいでよ」と。
「だれ?」視界がぼやけてよく見えない。「何も怖がることはないから、さあ早く……」と、その声は誘う。聞いたことのあるような、ないような声。
「望さん?」ようやく摩耶子はその声の主に思い当った。
「摩耶子……、こっちへ来て」
「ごめんなさい、望さん。私、あなたを傷つけてしまったわね。なんて言ったらいいのか……」
摩耶子は盛んに謝った。自分が取り返しのつかないことをしたという強い自覚があった。それでひたすら謝った。
「でも、どうして? 望さん、生きていたの?」
「ぼくは死んでなんかいないんだ。摩耶子を残してぼくが死ぬことはない」
「そうなの、よかった」安堵に身体が温かくなるのを感じる。
「だから、安心してぼくの近くにおいでよ」
だが、必死に前に進もうとしても、摩耶子の身体は重く動けなかった。
「だめ、行けないわ。身体が、身体が動かない……」
「どうして?」媚びるような望の思いが伝わってくる。
音楽がぴたりと止んだのはそのときだった。と、同時に望の姿もすっと消えた。
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