第二楽章(8)
家に戻ると、今や遅しとペトロスがふたりを待ちかまえていた。
いつの間に着替えたのか、目の覚めるようなブルーのシャツを着ている。その色使いが、徹にギリシャの国旗を連想させた。
「これから船で沖へ出てみないか」とペトロスは誘う。
小さいながらも、ペトロスは自家用の小舟を持っているのだ。海に沈む夕日を見ずして、エーゲ海は語れない、地球にこんなところがあったなんて驚くぞ、と派手なジェスチャーをつけてペトロスは語った。摩耶子は「クルーズなんて素敵じゃない!」と手放しにはしゃいだ。
ペトロスの粋な提案に、ふたりはとるものもとりあえず着いていった。それは、いささか煮詰まったふたりの空気に風を通すにはちょうどよかった。
港には数十隻の船が停泊していた。船体は小さいが、そのどれもが赤や青や黄色などの原色に塗装され、ふたりの目を楽しませてくれる。こんなところからも仕事にも遊びにも、同等の価値を置いたギリシャ人の人生観がうかがえる。
ペトロスの船は、その中でもひときわ目立った。ターコイズ・ブルーとピンクをバランスよくあしらった小型船は、摩耶子の期待を上回ったようで、手を叩いて喜んでいる。「アフロディーテ」という文字が船体に書かれていることに、このとき、ふたりは気付かなかった。
ペトロスに招かれるままに、早速、ふたりは乗り込んだ。操舵室の中にあるやや狭めのシートに摩耶子を座らせてから、徹は何か手伝えることはないかと、ペトロスに身振りで示したが、彼は首を横に振ると慣れた動作でロープを解き、船を操りはじめた。船はすぐに沖へと向かった。
「あら、かわいらしい」
摩耶子の目を奪ったのは、操舵席の脇にかけてにあった、古めかしい方位磁石だった。それに気付いたペトロスは「こいつができたおかげで、もう今じゃそいつは歴史だよ」と、ひとめで新品とわかるナビゲーション・システムを示す。摩耶子は、そのアンティークな磁石を手にとってしばらく見つめていた。磁石の表面のガラスには、航海の歴史が幾筋もの傷となって刻み込まれていた。
進むごとに見え隠れする、大小様々な島影が水平線を分断している。かろうじて留まっている太陽が、海面を燃えるようなオレンジ色に染め上げ、その炎が波間に細かく揺らいでいる。夕陽と海という組み合わせは、なぜこんなにも人を感傷的にさせるのだろう。時々刻々と変化し続ける大自然の芸術に浸りながら、徹は摩耶子に視線を向けた。船縁に座り、長い髪を潮風に吹かれるままに任せている摩耶子、その横顔を夕陽がほんのり赤く染めている。彼女の頬は、徹に熟れた果実を連想させた。
「気持ちがいいわ」
「本当、彼の言った通りだ。この世のものとは思えない」
やがてペトロスはエンジンを止め、代わりに真っ白な帆を張った。機械音が止んだエーゲ海は、静寂のベールに包まれた。海面に映る夕陽は、波間でいくつにも分かれ、実態のない魂のように淡い光を放っては明滅を繰り返す。時折、船首に当たる水がちゃぷちゃぷと音を立てる。目を閉じると、徹にはそれが子供の頃によく聞いた懐かしい子守歌のように響いた。
徹の生まれた島では、漁の最盛期には女手さえ必要なときがあった。母は生まれたばかりの徹と良次をおぶって、父の船に乗った。漁を終え、港に戻る際に、両親の談笑とエンジン音に混じって、ときどき水をかき分ける音が聞こえた。それら数種の音は渾然一体として、幼い徹の記憶の底にしっかりと焼き付いている。そして、同じ記憶で結ばれているもうひとりの人間の面影が、ごく自然に徹の脳裏に蘇った。
(良次……)
もう二度と語り合うこともない弟のはにかんだ笑顔が鮮明に蘇る。
(マヤに話してみよう)
昼間、マヤに偉そうなことを言ってから、自分の状況を話さずにいることに、徹は少なからず負い目を感じていた。また、それを打ち明けることによって、マヤと対等になれるような気がしたし、自分のことを知って欲しいという思いもあった。
「今度は俺の番だよね」
決心するより先に言葉が口をついて出た。
「えっ、何のこと?」
「身の上話を聞いてくれるかい?」
摩耶子は、黙ってうなずいた。
「俺も感傷旅行なのかもしれない」
摩耶子は黙ったまま、徹を見つめる。その優しげな視線が徹を安心させた。
「双児の弟が、死んじまったんだ」
一瞬、えっと驚いた表情を見せた摩耶子は「事故か何か?」と、おそるおそる問う。
「いや、不治の病に冒されてたんだ。白血病って、聞いたことあるだろ?」
徹は事情を話した。生まれつき不発弾を抱えていた良次のこと、そして良次が漁師だったこと……。
「あなたも……漁師なの?」そう聞いてから、素性に触れるのはルール違反だったことに摩耶子は気付いた。
「……ああ、俺も漁師だ。ヤツとはずっと一緒に同じ船に乗ってた」
「そうなの……」
「ちっぽけな島から出たこともない、根っからの漁師さ。出ようなんて思ったこともなかった。だって、その島には何ひとつ不足しているものなんてなかったから」
言葉には無意識に力が込もっていた。なぜそう言いきったのか、自分でもわからなかった。島の漁師として短い一生を終えた良次の人生を肯定してやりたかったからか、それとも、浅薄な都会生活に憧れ、引きつけられた自分への戒めなのか。いずれにしても、摩耶子に対して、根っからの漁師だなどと嘘をついたことに変わりはない。
「羨ましいな、そんな仲のいい弟さんがいたなんて」
徹の瞳には、弟への深い愛情が溢れていた。摩耶子は無意識にそれを自分の家族と比較していた。
そんなふたりのやりとりを優しい目で見守っていたペトロスは、やがて何を思ったのか、革のバッグをごそごそと探りはじめた。そして、中から年季の入った一眼レフを取り出すと、摩耶子に向けて構えた。シャッターを押そうとした指が一瞬止まった。天を仰いだペトロスは、「アフロディーテ……」と小さくつぶやいた。それから、気を取り直したようにファインダーを覗き、慎重に焦点を合わせてからシャッターを切った。ペトロスの動作に気付いた摩耶子は、素直に笑顔を向ける。さらに数回シャッターを切ってから、ペトロスはカメラをそっと傍らに置いた。その瞳から、キラリと光るものが流れ落ちた。それを見届けるかのように、夕陽は水平線に消え、代わって闇が広がっていった。
「あっ、一番星!」摩耶子が叫ぶ。
「金星だね」反射的に徹が答えると、摩耶子は「詳しいのね」と不思議そうな顔を向ける。
「海の上にいると、水か空しか見るものがないからね」
満天の星空を見つめていると、何千年にも渡って星々を眺め、観察し、軌道を追った過去の人々と、心が結ばれたような気持ちになるから不思議だ。
そのとき、すっと一筋の光が流れた。
「あっ、今度は流れ星! お願いごとをしなくちゃ。あぁん、でもこれじゃ早すぎて、願いをかける間がないわ」
天を仰いでいると、流れ星は数十秒ごとに見つけられる。いつも機械操作でこれを作り出していた徹は、思わず「まるでプラネタリウムみたいだ……」とつぶやいた。
「でも地球に落ちた流れ星はどうなっちゃうんだろ? 下にいる人たちは危なくないのかしら?」
夜空を見上げたままの格好で、摩耶子が聞く。
「宇宙空間には……、いや、大空には、目に見えないくらい小さいチリみたいなものがいっぱいあるらしいんだ。これがときどき、地球の大気にものすごい早さでぶつかってきて、空気との摩擦で燃えるのが流れ星の正体なんだって。でもほんの数秒で燃え尽きちゃうから、地上に落ちる心配はまずないんだって」
「へえ、詳しいのね」
「まあね。海にいると、他に見るものがないから……」
摩耶子は心底感心した様子で何度もうなずいた。調子に乗った徹は、少し話題を広げて語りだした。
「でも星同士が実際にぶつかったこともあるみたいだよ」
「本当?」
「ほら、よく言うだろ? 水金地火木土天海冥って。でもよく見ると、火星と木星の間には小惑星帯ってのがあって、それがかつてはひとつの星だったんじゃないかっていう話があるんだ」
「星同士がぶつかったのね?」
「もともとあった大きい惑星に、小さい彗星が当たっただけかもしれない」
「たった、それだけで?」
「直径数キロの小さい彗星でも、衝突するスピードによっては、ひとつの星を粉々にしてしまうこともあるんだ。この広い宇宙の中では、それがあり得ないほどに低い確率でしか起きないようなことでも、ぶつかるときはぶつかっちゃうのさ」
「二つの星がぶつかる、そのあり得ないほどの確率ってどれくらいなのかしら?」
「何千万、いや何億分の一……、もしかしたら、それよりもっと少ないかもしれない」
「ふうん、そんなに……。でも私にはよくわからないわ」摩耶子の疑問が、徹のデータに割り込んできた。
「だって、ぶつかるか、ぶつからないか。確率は二つにひとつなんじゃないのかしら?」
「えっ……」
摩耶子の独自の発想に、徹は虚を突かれた。宇宙空間に漂う星全体を見渡して考えれば、確率的にはあり得ないと言っていいくらいに低いものになる。でも、たったひとつの星を主体にして考えれば、確かに摩耶子の言う通り、ぶつかるか、ぶつからないかの二分の一という方が、的を得ているのかもしれない。
こうして海の上で、波に揺られながら夜空を眺めていると、自分という一点を中心に世界が、いや、宇宙が回っているような不思議な感覚に陥ってくる。実感としては、地動説より天動説のほうがはるかに近い。悲しいことに、人間は人間として生きている限り、客観的に宇宙を眺めることなどできないのだ。
このとき、ふと徹はこの確率が、自分と摩耶子にも働いているのではないかと感じた。
(あり得ないほどに低い確率でしか起きないようなことでも、ぶつかるときはぶつかっちゃうのさ……)
いみじくも自分の言葉通りに、徹は摩耶子と出会った。これはもはや天文学的なレベルの問題ではない。出会うか、出会わないか、確率は二つにひとつだ。
「でも、私たちに今届いている光って、本当は何年も前にピカッて光ったんでしょ?」
「何年どころか、何十年、何百年前のものもあるかもしれない。俺たちが生まれる前に燃え尽きて、でもその光が今になってようやく届いているなんてことだってあるかも……」
「そうなの……」摩耶子が悲しげな視線を向ける。
無数に存在する銀河の中で、たまたま太陽を中心として巡る星に生まれた。地球という名の星に棲む無数の生命、そのひとつが自分という存在だ。とてつもなく大きい宇宙から見れば、取るに足らない塵のような存在だ。だが、宇宙がどんなに壮大なものであろうと、自分がその一要素であることに変わりはない。どんなに小さくとも、自分は宇宙を成り立たせている不可決な存在なのだ。
「大切なのは、その一瞬の光を今こうして俺たちが受け取っているってことなんじゃないかな。俺たちふたりがこうして眺めてなければ、星の光なんて何の意味もないじゃないか」
「そうよね」
摩耶子にまた笑みが戻った。
「あっ、また流れ星!」
それは天頂から水平線にまで続く、一際長い流れ星だった。このとき、徹はわずかな願いをかけた。そして、摩耶子の肩にそっと手を置いた。甘い髪の香りがよりいっそう濃くなる。摩耶子も心なしか徹に身を寄せ、宇宙に漂う二つの点は、このときひとつに溶け合った。
「あそこに山影が見えるだろ」しばらく黙ってふたりを見守っていたペトロスが、ある方向を指して言った。稜線はすでに漆黒の闇に溶けこんでいて、星のない部分が空と山との境界線だとかろうじてわかる。
「実はあの山には、古くからの言い伝えがあるんだ」
「言い伝え?」
「なんだか、恐いわ」意味ありげなペトロスの声の調子に、闇を見つめた摩耶子は思わず膝を抱え込む。構わず、ペトロスは話を続ける。
「あの山の中にはトンネルが通じている。それはとても長く、とても狭く、そしてとても暗いトンネルだ。そのトンネルの両側から男女が別々に入って、それぞれが無事に反対側から抜け出て来られれば、その男女は将来固く結ばれるという……。ただし……」ペトロスは一旦言葉を区切った。
「それにはいくつかのルールがある」
「ルール?」
「そう、……けっして引き返してはいけない。また、けっして声をあげてもいけない」
「声も出しちゃいけないの?」
「だめだ」
「どうして?」
「昼間でも光も届かない、音もない、真っ暗闇の中で、愛する人を身近に感じながらも、互いを確認できない。そんな状況にふたりが耐えられるかどうかが試されるんだ。愛する人を信じること、そして同時に相手を思う自分の気持ちを信じること。自分ひとりが耐えても、片方が声を上げたり、引き返したりすれば、それで終わりだ。どちらか片方でもルールを守れなければ、ふたりが結ばれることはない」
「厳しいルールね……」
「確かに。だが、やってみる価値はあるよ」
ペトロスは重みのある言い方で言った。
「マヤ、行ってみよう。明日、そのトンネルにふたりで入ってみようよ」
「えっ? うん……」
本気とも冗談ともつかない言い方をする徹に、反射的に同意してしまった摩耶子は、自分に何か止めようもない運命的な波が押し寄せているのを感じていた。それから港に到着するまでに、ふたりはいくつ流れ星を見ただろう。しかし、言い伝えを聞かされてからというもの、ふたりともじっと沈黙したままだった。
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