第二楽章(1)Allegro Passione〜はつらつとした、熱情的に

Allegro Passione〜はつらつとした、熱情的に


【音楽は人類にとって究極の謎であり、音楽の謎が明かされれば、人類進化の謎の多くも解かれる(クロード・レヴィストロース / 文化人類学者)】



 散々迷った末に、摩耶子は望の葬儀に参列した。

 望の死の原因が自分にあることはわかっていた。自分が顔を出したら、家族にどんな対応をされるのかも重々承知だった。でも、自分が憎まれることによって、彼らの悲しみが少しでも軽減されるなら、同時に、それによって摩耶子の罪の意識が少しでも解消するならという身勝手な思いもあった。でも約束をすっぽかしたのは、けっして悪意があったからではない。そのことだけは、家族にもわかって欲しかった。たとえどんな対応をされても、望の冥福を祈ってやりたいという気持ちは真実なのだ。

 家族の、特に隆一の憎悪は予期していたより遥かに重く、摩耶子にずっしりとのしかかった。焼香をしていたとき、最前列に座る隆一と視線がぶつかった。その交錯の瞬間、凝縮した思いに耐えられず、摩耶子は思わず目を伏せた。

(あんたが息子を奪ったんだ。息子を返してくれ……)と視線は訴えていた。切実、かつ執拗なまでに……。だが、どうしたって、亡くなった命は返ってはこない。


 それから数ヶ月が経過したある週末、摩耶子は小原李沙子を訪ねた。

 事情を知っている李沙子が、気分転換に遊びにいらっしゃいと声をかけてくれたのだ。こんなとき、さばさばした男っぽい気性の彼女は、話し相手としては最高だった。

 李沙子は、十ヶ月になった赤ん坊を摩耶子に抱かせてくれた。幸せの証し、その重量は思いのほか軽かったが、摩耶子の腕の中で力強く手足をバタつかせた。自分と同じ七夕の日に生まれたこの子は、やがてどんな人生を歩んでいくのだろう。李沙子の娘だ、少なくとも私よりは幸せな道を歩むことだろう。

 たった十ヶ月だが、李沙子は子供の成長を記録した写真をたくさん見せてくれた。どれもきちんと整理されているのは、李沙子の夫が写真が趣味だからに違いない。


 やがて話題は、ごく自然に望の件に及んだ。時間がたとうとも、それは摩耶子の心の中に消えることのないしこりとして残っている。


「少し東京を離れてみたら? 気晴らしにどこかへいってらっしゃいよ」


 ワインをグラスに注ぎながら、さばさばした調子で言う李沙子。最近はダイオキシンの影響で母乳が危ないからと、粉ミルクをあげている。だからアルコールも気にしない。変に気遣われるよりも、こんなあっけらかんとした彼女の態度に返って気持ちは安らいだ。


「何かを忘れるには、新しく何かをはじめること、そうすれば嫌な思い出はどんどん過去へと押しやられていくわ。思い詰めててもしょうがないじゃない、ねっ、そうしなさいよ」


「李沙子、あなたはいつもそう簡単にいうけど……」


「どうしてあなたは、いつもそう難かしく考えるの?」


「でもどこかへ行くったって、どこへ行ったらいいのか……」


「行ってみたいところはないの?」


「行きたいところかぁ……」


 李沙子はまた別のアルバムを持ってきた。


「ここから選んでみたら?」


 李沙子の夫は、独身時代に世界中を回った経験があるらしい。もちろん、中には新婚旅行の際のものもあった。


「わあ、素敵! これどこかしら?」


 三冊目のアルバムまでいったところで、一枚の写真を指して摩耶子が声をあげた。


 青と白の世界……、本当に開放的、摩耶子はその写真の世界に自らを置いてみたいと直感的に思った。


「ギリシャよ、新婚旅行のときに撮ったの。エーゲ海に浮かぶ小さい島に足を伸ばしてみたんだけど、風景はまさにその写真そのものだったわ」


(ギリシャか……)


 以前から惹かれていた青い海と白壁の世界、何かいまの自分とは縁がありそうな予感がした。


「行ってみなさいよ。とにかく何もしないで過ごすには、ギリシャは最適のところよ。暑い日差しが、沈んだ気分も吹き飛ばしてくれるわ」そう言うと、李沙子はふたりのグラスにワインを注ぎ足した

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