第二楽章(2)
数週間後、摩耶子はギリシャへ向かう機内にいた。李沙子に紹介された旅行社で、すべて手配は整えてくれた。
機内は新婚カップルと熟年夫婦ばかりだった。ときどき黄色い声で騒いでいるのは、若い女の子のグループだ。しかし、こうして日本を離れていると、それだけで気持ちが紛れるのは確かだった。一マイル、また一マイルと日本から遠ざかるに連れて、気持ちは不思議と軽くなっていく。
やがて飛行機の小窓からコバルト・ブルーの海が見えてきた。
「青い海を眺めてれば、嫌なことなんか忘れちゃうわ」李沙子の言葉に反論こそしなかったが、望の一件を嫌なこととして処理してしまうことなど、とてもできそうもない。ただ思いがかたちを変えるだけ。今は行き場を探してウロウロしている思いも、心の片隅にいつか相応しい居場所を見つけてきっちりと収まるだろう。
飛行機は無事にアテネに到着した。ドアが開くなり、潮の香りを含んだ熱風が機内に吹き込んでくる。
ターンテーブルで荷物を受け取ると、摩耶子は迎えに来ているはずのガイドを捜した。それらしき日本人の中年女性を見つけて話しかけると、「はいはい、平野摩耶子さんね、えぇと……」と、リストと照合してから「はい、平野さん、ありましたよ。おひとり様ですね?」と言って摩耶子の名前をマーカーで塗った。真っ赤な口紅の女性は、事務的な作業を眺めていた摩耶子に、表で待機しているバスで待つようにと告げてから、次から次へと出てくる客に注意を向けた。
「どのバス?」
外へ出て迷っていると、摩耶子の荷物のタッグを見たのか、ひとりのドライバーが声をかけてきた。「あんたはこのバスだよ」と身振りで示している。
ドライバーに荷物を預け、バスに乗り込むと、先に乗って待っていた新婚カップルたちの視線が摩耶子を舐め回す。
(あなたのパートナーはどの人?)
新婦たちの視線が、執拗に絡み付いてくる。
(まさか、ひとり旅なの? かわいそうに。でも馬鹿みたい、こんなところにひとりで来て何が面白いの?)
やがてそれらは、哀れみから嘲笑へと変わる。そんな無言の圧力が摩耶子をバスの最後部座席へと追いやった。
バスは空港からすぐに市内観光へと向かう。機内でのいちゃいちゃから、やっと逃れられたかと思ったのも束の間、熱々ムードはバスの中でさらに濃縮された。先程のおばさんガイドが慣れた口調で説明をはじめるも、彼らはほとんど聞く耳を持たない。しかし、そんなことにももう慣れっこになっているのか、彼女も気にせずしゃべりまくる。ときどき挟まる時代遅れの妙な言葉遣いから、日本から離れて過ごす時間の長さが伝わってくる。
空港からアテネの町へ向かう途中、遺跡がちらほらと見えはじめた。ガイドはいちいちそれらの歴史的背景を説明するが、その声は摩耶子の耳を右から左へと通り抜けていく。
やがてバスはパルテノン神殿を見渡せる小高い丘に上った。頂上まで昇りつめると、そこにはそれまでの喧噪が嘘のように静寂が広がっていた。バスを下りた摩耶子は背筋を伸ばし、大きく深呼吸をした。乾いた風が、摩耶子の髪を優しく撫でる。
ひと組の新婚カップルが、摩耶子に近付いてきた。
「あのぅ、すいません。写真を撮ってもらえませんか」と新婦がはにかむ。
「えっ、はあ……」
カメラを受け取った摩耶子は、バックに神殿をとらえて「はい、チーズ」と言ってからシャッターを押した。
「どうもすみません」頭を下げながら、小柄で可愛らしい新婦がカメラを受け取りにきた。
「おひとりなんですか?」社交辞令のように話しかけてくる。
「ええ、まあ……」
「へぇ、女性のひとり旅なんてカッコいいですね」悪気もなく新婦は言う。新郎は遠くで微笑んでいる。
「仕事の合間にやっと少し時間がとれたものだから……」
精一杯の強がりだった。本当は彼らがただ羨ましかった。やや気まずい雰囲気を察知したのか、新婦は小さく会釈をしてから、新郎のもとに駆け寄っていった。やがて出発を知らせるクラクションが鳴った。
ここにいるだれもが、思い出を作るための旅を楽しんでいる。でも、たったひとり、摩耶子だけはその反対、忘れるための旅……。
(完全に忘れてしまうことなんてできるのかしら?)
忘れようと思えば思うほど、逆にその思いはしっかりと心に定着してしまいそうな気がする。
古代オリンピック競技場のトラックを笑顔で走る新郎がいる、両手を広げて彼を迎える新婦がいる。ふわふわした幸せに溺れるそんな無邪気なカップルたち、それをぼんやりとみつめる間の抜けた女、場違いな存在、それが私……。
ギリシャを絶賛する李沙子の気持ちはわかるが、すばらしいのは最愛の人が一緒にいるからだ。ひとりで来るのにこれほど相応しくない場所もない。カップルたちは、ガイドの説明など上の空でじゃれ合って写真を撮っている。結局、摩耶子はその場はガイドの話の聞き役代表として、相槌を打ち、彼らの身勝手をフォローすることとなった。
(私ったら、どこまでお人好しなんだろう?)
ようやく市内観光も終わり、ホテルへと入った。ガイドが順番に部屋の鍵を配る。受け取るなり、そそくさとエレベーターへと消えていくカップルたち。いつ渡されるのかと思って待っていたが、とうとう摩耶子が呼ばれることはなかった。不安げな顔にようやく気付いたのか、ガイドは「ああ、ごめんなさい、あなたのホテルはここじゃないのよ」と言って出口へと向かった。重たい荷物を引きずって、摩耶子は急いで後を追う。
数ブロック歩いて、摩耶子にあてがわれたのは、新婚の団体とは明らかに数ランク落ちるホテルだった。
「申し訳ないですけど、明日の朝はさっきのホテルのロビーに来て待ってて下さいね」
あなたのは安いツアーなのだから、サービスにも差があって当然なのよ、とでも言わんばかりに、ガイドは淡々と摩耶子に告げた。
空調設備のない部屋は、入るなりむっとした。堪え切れずに摩耶子が窓を開け放つと、排気ガスと町の喧噪が、待ってましたとばかりに流れ込んできた。長旅の疲れがでたのか、シャワーを浴びて緊張がほぐれると、摩耶子はそのままベッドに倒れ込んだ。
町の喧噪は深夜まで頭の奥に響いた。
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