第一楽章(13)
深夜近くになって、ようやく自宅に帰った摩耶子は、すぐさま留守番電話のメッセージ・スイッチを押した。電話には二つのメッセージが登録されていた。
ピーッ------------------------
「今夜は来てくれなかったね。……とてもいい演奏だったよ。一緒に聴きたかった」
やっぱり、私は望さんを失望させてしまった。留守録のバックには交響曲が響いている。聴き覚えのあるフレーズは、今日の題目の41番だ。やや沈黙があってから、メッセージは切れた。着信時間は22:15だった。
ピーッ------------------------
「摩耶子……、もうこれ以上、ぼくは待っていられないよ。じゃあ、また」
二つめのメッセージも望からだった。だが、摩耶子は先ほどのものとはどこか違う印象を受けた。何か思い詰めたような、それでいて不思議と暗さは感じられなかった。バックにはかすかに交響曲が響いている。何だろう? 41番かしら? 一瞬そう思ったが、どこかが違っている。聴いたことがあるような、ないような……。考えている間に、留守録はぷつりと切れた。「23時23分です」と、機械音声が告げる。着信時刻は一回目から一時間ほどたっている。摩耶子は、いつもの癖ですぐにメッセージを消去した。
時計に目をやると、午前零時を少し回ったところだった。二回目の電話からはまだ一時間とたっていない。摩耶子はすぐに電話をかけた。今すぐにでも謝りたかった。
呼出音が繰り返される。
「お願い、望さん、電話に出て!」
摩耶子の思いも空しく、やがて留守番メッセージへと続いた。でも、きっと部屋にいるに違いない。相手が摩耶子と知って出ようとしないのだ。それでも呼びかければ、応えてくれるかもしれない。そう思って、摩耶子はかまわず話した。
「望さん、今夜はごめんなさい。お願い、もし部屋にいるなら応えて……」そこまで言い終えたところで、乱暴に受話器が取り上げられた。
「もしもし、……摩耶子か?」
聞き覚えのある、しかし予期していなかった声。いったいだれの声……? 慌てながらも、摩耶子は急ピッチで記憶をたどる。
「摩耶子なのか?」再度、電話の声が問い質す。
「はい、そうですけど……、えっ、村尾さん? どうして……?」
咄嗟に返したものの、どうして村尾が、それもこんな時間に望の部屋の電話に答えるのか、摩耶子には理解できなかった。
「実は大変なことになったんだ。落ちついて聞いてくれ……」
何か異常な事態が起きているということは、村尾の声のトーンから充分過ぎるほどに伝わってくる。第一、村尾がそこにいること自体がおかしい。望さんに何かが起きているのだ。そして、間違いなく自分も何らかのかたちでそれに関わっている。問題はその事態の程度だった。摩耶子は判決を言い渡される罪人のような心境で、村尾の言葉を待った。
「望さんが……、望さんが死んじまったんだ」
「えっ、何ですって……?」
摩耶子は声が詰まった。一瞬、村尾が悪い冗談を言っているのか、または自分が夢を見ているのか、そのどちらかに違いないと疑った。
「どうやらマンションのベランダから飛び降りたらしいんだ」
「どっ、どうして……」
(飛び降り)という文字が週刊誌の見出しのように、摩耶子の頭をかすめていく。
「まだ詳しくはわからない。俺もついさっき、マンションの一階にある喫茶店のマスターから連絡を受けて駆けつけてきたんだ。でもおそらくこの状況からすると、自殺ってことになるんだろう」
自殺……。
そう、じきにその言葉に行き着くことは、本能的に察知していたが、実際に村尾の口からはっきりと言葉として聞いた途端、摩耶子の心はキリキリと締め付けられた。
「しかし、自殺だとしても、俺には原因がわからない」
(原因は私だわ、そうに違いない。私が約束をすっぽかしたばっかりに……。私が望さんを死に追いつめたんだわ。私は、私はなんと取り返しの付かないことをしてしまったのだろう)
摩耶子は自分を責めた。唇が無意識のうちに震える。全身から力がすーっと抜け、摩耶子はその場に崩れ落ちた。しかし、もはやすべてが遅かった。
遺書らしきものは見つからなかった。近所の住人から通報を受け、警察が部屋に踏み込んだとき、テーブルには飲みかけのウィスキーのグラスが残されており、ステレオは電源が入ったままだった。再生を終えたオープンリール・デッキが、そのままカラカラと回っていた。そのあたりから、警察は何かに思い悩んで、突発的に行動に移したのではないかと事務的な推察をした。
村尾が駆けつけたとき、ちょうど警察は空回りしたままのテープを調べているところだった。白い手袋をはめた捜査員は、まずは再生停止ボタンを押し、テープをリールから外した。面を確かめてから、くるっとひっくり返すと、慎重に再生側に装填し、再び再生ボタンを押した。音はすぐに出た。モーツァルトの交響曲第41番だった。
しばらくして、望の両親、山下隆一と和子が到着した。息子の変わり果てた姿に、隆一は取り乱している。冷静なのはむしろ和子の方だった。ふたりは留守電のメッセージを聴かされた。謝る摩耶子の声は、村尾の耳にも届いた。
運悪く摩耶子が姿を現したのは、その直後のことだった。隆一はものすごい形相で摩耶子を睨み付けた。その意味が、摩耶子の胸にぐさりと突き刺さる。
「望は、私たちの宝だった。それをよくもあんたは……」
隆一の厳しい表情は、子供の頃の記憶と変わっていなかった。その横で、和子はうつむいたまま黙っている。ひとり息子の心をもてあそんだひどい女に対して、隆一はさらに罵声を浴びせた。その重々しい言葉は、摩耶子をその場から追いやった。
表へ出た摩耶子は泣いた。ひとりの人間を死に追い詰めた責任を感じているからか、家族の心境を推し量っていたたまれなくなったからなのか、はたまた、死の原因に直接に自分が関わっている重圧から解放されたかったからなのか……。それらすべてと、他にも様々な思いが混在していた。
七夕の頃にレコーディングした新人歌手は、もう名前すらも聞かなくなった。彼らのサイクルは、目まぐるしく移り変わる。一度も陽の目を見ずに消えていく事実を知るたびに、そんな彼らの裏方として生きる自分たちの人生の一部も切り捨てられたようで空しさは増すのだった。
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