第一楽章(12)

 望の部屋は、都内のマンションの13階にあった。

 戻るなり、望は真っ先にラックから一枚のCDを抜き取ると、プレイヤーにセットし、再生ボタンを押した。CDはすぐに鳴り出した。ついさっき聴いたばかりのモーツァルトの交響曲第41番だ。

 人並外れた音感を持つ望は、この曲が先ほど見た奇妙な夢と何らかの関連があるのではないかと直感した。それを確認するために、再度、聴いてみようと思ったのだ。

 だが、曲がかかりはじめてすぐに望の表情は険しくなった。


「違う、これじゃない」


 そう言い捨てると、今度は棚から一枚のレコードを取り出した。ジョン・E・ガーディナーの指揮による八九年に演奏された、これも同じく41番だった。ターンテーブルに乗せ、慣れた手付きで針を落とす。そして、プレイヤー側のつまみを慎重に調整してから、「よし、これでいいだろう」とつぶやいた。孤独な部屋に、再び、41番が響き渡った。

 次に望は戸棚からウィスキーを持ち出した。グラスになみなみと注ぐと、ストレートで一気にあおった。元来、酒は強い方ではない。ソファに倒れ込むと、酔いはすぐに全身に回った。

 二杯目を空けた後、望はおもむろに受話器を取った。震える指でダイヤルを回し、相手が留守だとわかると、そのままメッセージを残してから受話器を置いた。


 部屋には41番が鳴り響いている。そのときだった。


「もっ、もしかすると、モーツァルトは……?」


 ぱっと目を見開いた望は思わず叫んだ。曲はちょうど第一楽章の終盤あたりにさしかかっていた。何を思ったのか、すぐに立ち上がり、今度は押入れの奥にしまってあったオープンリール・デッキを引っ張り出した。そして、デスクの上に置いてほこりを払い、レコード・プレイヤーと接続してから電源を入れ、空のテープを装填した。再び、レコード・プレーヤーに戻り、針を曲の頭に落とし直してから、デッキの録音スイッチを押した。そして、録音が終わるやいなや、テープを再生側にかけなおした。ソファに戻って、コップに残った三杯目のウィスキーを一気に飲み干すと、録音したてのテープはすぐに鳴り出した。望は目を閉じ、それに聴き入った。

 やがて、アルコールで半ば麻痺した望の頭の中で、ゆっくりと時間を越えて記憶の邂逅がはじまった。


 ----------望のすぐ横には、いつの間にか、父、隆一が立っていた。厳しい顔つきで、望を見下ろしている。望がまた同じ箇所でミスタッチをしたことが原因だった。ピアノの鍵盤の上で細い指が震える。「お父さん、ごめんなさい。もうダメです、これ以上は弾けません」望がいくら必死に謝っても、執拗な特訓は続けられた。

 皮肉にも、望の技術は父に対する恐怖心から磨かれていった。そして、父への劣等感が、さらにその技術を向上させた。だが、同時に父への反発心も潜在意識の中に少しずつ蓄積していった。「お父さん、もうぼくを自由にして……」幼い望は、心の中でそう何度も嘆願した。


 物心ついてから望がずっと求め続けていたもの、それは自由だった。だれからも指図をされずに過ごせる時間、他の子供たちと同じように泥だらけになって遊べる時間をひたすら欲していた。だが、ついにそれが叶うことはなかった。


 テープの進行に合わせて、望の記憶はさらに徘徊を続けた。真の自由を求めてさまよい出した。突然、目の前にトンネルのようなものが現れた。覗いてみると、中は真っ暗闇だった。おそるおそる足を踏み入れ、望は一歩、また一歩と前進する。遥か先の彼方に一点の光が現れた。その光は、進むに連れてどんどん大きく広がっていく。望はその光に向かって速度を上げた。ただひたすら進んでいった。いや、感覚的には戻るといったほうがむしろ適切だろう。だが、どこへ戻ろうとしているのかは、望にもわからなかった。

 ついにトンネルを抜けたと感じた瞬間、目映い光に包み込まれた。望の胸にかつて経験したこともないほどの解放感が広がった。これまで望を押さえ付けていた見えない圧力が、すっと抜け落ちた感覚だ。だが、いったい何から解放されたのか……。


 周囲には光が満ち溢れていた。それは『自由』という名の光だった。望は今まで探し求めていたものを、ようやくそこに見つけたのだ。そして、それを手を伸ばして掴もうとしたときだった。


「まっ、まさか、そんな……」


 望は、まったく予想だにしなかった別の世界を垣間見た。そこには生命の根源、いや宇宙の真理とでも言うべき、崇高で壮大な世界があった。そのとき、瞬時に望はある事実を悟った。


 それは、テープが回りはじめて15分ほどが経過した頃のことだった。望はゆっくりと目を開けた。よほど強い衝撃に打ちのめされたような、それでいて悲愴感のない、いや、むしろ満たされた表情をしている。

 ソファから起き上がると、再び受話器をとり、リダイヤルを押した。不在の相手に向けて二度目のメッセージを残すと、すっと立ち上がって、本棚へと向かった。適当に選んだ一冊の本に、ジャケットの内ポケットにしまってあった包みを挟んでから元に戻した。

 次にそのまま窓へと向かい、素足のままベランダに出た。冬の空気が、上気した望の顔に当る。「摩耶子、待っててくれよ……」そうつぶやいたかと思うと、望は迷うことなく手すりを乗り越えた。その数秒後、どすんと鈍い音がして、凍てついたアスファルトの上に、真紅の液体が広がっていった。


 家主の姿が消えた部屋の電話が鳴ったのは、その直後のことだった。留守を知らせるメッセージが終わるやいなや、伝言が入る。


「もしもし、望さん。摩耶子です。ごめんなさい、今夜は急に行けなくなってしまって。父が倒れたもので病院に行ってたの……せっかく誘ってくれたのに、本当にごめんなさい……。また明日にでも改めて連絡します、じゃあ……」


 電話が切れると同時に、赤いメッセージ・ランプが点滅をはじめた。開け放たれた窓越しには、一等星のシリウスが光々と輝いていた。

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