第一楽章(11)

 ときに人間は、いくら歳月を積み重ねても得られないような発想や、思い付かないようなアイディアを、ほんの一瞬で獲得してしまうことがある。それは、時間の長さとは関係がなく、むしろある特別な「一瞬」に恵まれるかどうかに関わっている。


 ステージに指揮者が現れると、ホールは水を打ったように静かになった。メンバーの表情が緊張でこわばる。どんなに経験を積んだプロでも、最初の発音には神経を使うという。その気持ちが望にはよく理解できた。


 望は再度、腕時計に目をやった。「13・FRI」、文字盤の中に小さく表示された日付を恨んだ。ついに摩耶子は現れなかった。いったんはじまってしまえば、途中入場ができないのがコンサートのルールだ。望は諦めきれない気持ちを押さえ、脱いだジャケットをそっと隣席に置いた。その内ポケットには、今夜、摩耶子へ贈るつもりで用意したものが入っていた。


 強烈な出だしから第一楽章ははじまった。弦楽器の透き通った高音、スキップするような調べを、管楽器の重低音がしっかりとサポートする。見事なまでの対位法を使ったアレグロで、数多の音たちは一本の糸へと編み込まれていく。壮麗な曲調は、まるで完成度を極めた神殿のようで、どこにも暗い音の連なりがない。ハ長調にはじまり、ハ長調で終わる明るさの円還は、だが、その先にある何かをあえて語らない謎に包まれているようでもあった。

 冴え渡る弦楽器の高音は、ときに神経を刺激し、眠気を誘う。このところの仕事の疲労がたまっていことも手伝ってか、望はいつしか浅い眠りに落ちた。


 演奏はスムースに第二楽章へと進行していった。優し気な弦楽器の音色に導かれ、夢の中の望の記憶は、『現実』という箍を外され、いつしか時を越えてフラフラとさまよいはじめた。


 ----------望は暗闇の中を突き進んでいた。理由もわからないまま、何かに向かってひたすら邁進していた。行く手の闇に現れた小さな点が、次第に広がっていき、やがては面となった。その面は、ついにはとてつもなく大きい球体となって、望の目の前いっぱいに立ちはだかった。そのまま球体に思いきり衝突した望は、壁を突き抜けてさらに内部へと突進を続けた。いったい何が起きているのか、望にはわからなかった。


 演奏は順調に第三楽章から第四楽章へと移った。出だしから力強いハ長調の基音、この曲の主題となる「ド-レ-ファ-ミ」が、執拗に繰り返され、全身に絡み付く。モルト・アレグロの大小の音の粒子が、遠い望の記憶を情け容赦なく刺激してくる。その中で、望は必死にもがき続けた。だが、抵抗も空しく、望は自由を奪われ、あたりは真の暗闇に包まれた……。

 そのとき、場内に拍手喝采が湧き起こり、望は現実へと引き戻された。


(今の夢はいったい何だったんだ……)


 ふと我に返ると、周囲に聞こえそうなほど、心臓の鼓動は高鳴っていた。しばし呆然としていた望だが、やがて力なく立ち上がると、会場を後にした。その顔は、まるで何かに取り憑かれたかようにこわばっていた。

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