第一楽章(5)

 それから季節は移り、師走も後半に入ったある寒い午後のこと、摩耶子は渋谷のスタジオに向かっていた。


「今録ってる新人歌手の歌にコーラスをかぶせたいと思ってるんだけど、ちょっと手伝ってくれないだろうか」と村尾から依頼を受けた。


 新人歌手のミキシング作業の際に、本人の声だけではあまりに線が細いので、さんざん悩んだ挙句、急遽、数曲だけコーラスをかぶせて対処することとなったらしい。TVと違って、視覚に訴えられない場合、本来の歌唱力が露呈する。ほとんどのパートはすでに録音済みだったため、村尾と望に、2、3人の音響スタッフが加わっただけでの作業となった。そのミキシングもそろそろ佳境に入っていた。

 指示された時刻より少々早めにスタジオに着くと、開け放たれたブースから優しげなピアノの音色が漏れていた。


「あれ、なんだったっけ、この曲?」


 メロディーに触れた途端、不意に幼い頃のいくつかの場面が摩耶子の脳裏をよぎる。旋律に導かれて、歩を進めていくと、音は四つあるブースのうちの一番奥から漏れていた。そこは今日のレコーディングで使うことになっているところだ。摩耶子はそっとドアの隙間から中を覗いた。

 そこには小柄な後ろ姿があった。山下望だ。望はスタジオの隅に置いてあるアコースティック・ピアノをひとり静かに弾いていた。

 デジタル楽器に押されて、最近はめっきり出番のなくなった、ほこりをかぶったアコースティック・ピアノが、望の手にかかると、まるでステインウェイ製のコンサート・ピアノように聴こえるから不思議だ。

 摩耶子は、ドアの陰に立ったまま、しばらく望の演奏に聴き入った。

 とても優しく穏やかな音色に、ピアノを習いはじめたばかりの幼い頃の情景が、次から次へと摩耶子に蘇ってきた。音には時間を超越させる力があるのか、まるでタイムマシンにでも乗せられたかのように、摩耶子の意識はするすると数十年の時間を越え、当時へと遡る。

 壁にもたれ、目を閉じると、懐かしい情景が走馬燈のようにめくるめく浮かんでくる。まだ手が小さく、運指もままならない頃のこと、摩耶子が必死に練習したのがこの曲だった。指が痛くて泣きながら弾いたこともあった。先生の厳しい指導、しかし、それにもまして厳格だったのは、付き添っていた摩耶子の母だった。特に同じミスを繰り返したときの母の表情は、険しく恐ろしかった。そのせいか、新しい曲を覚えるごとに、母への反発も一段と強まっていった。ふぅと摩耶子は溜息をついた。


 人の気配に感づいたのか、鍵盤を這っていた指の動きがぴたりと止まり、望が振り向いた。摩耶子の姿を認めてハッとしている望に、摩耶子は咄嗟に「ごめんなさい」と答えてから、続けて弾いてほしいと頼んだ。

 望は、スタジオ内に足を踏み入れた摩耶子にかすかな笑みを浮かべると、小さくうなずいて演奏を続けた。なんと優しい音色、温かいメロディー……。


「この曲、覚えてる?」弾きながら望は摩耶子に聞く。


「モーツァルトだよ。ハ長調のソナタ、K545番。ほら、子供の頃に一緒に弾いたじゃないか」


「ええ、覚えてるわ」


 忘れようとしても忘れられない。摩耶子が初めての発表会で弾いたのがこの曲だった。それを望が覚えていて、意図的に選んだのかどうかはわからなかったが、その調べに真剣な思いや恥ずかしさが入り交じった幼い当時の自分が蘇った。


「摩耶子も弾いてみるかい?」


「いえ、私は遠慮しておくわ。だって、もう何年も鍵盤になんか触れてないから……」


「大丈夫、ほら座ってごらん」


 望は、摩耶子を手招きすると、立ち上がって椅子を引いた。一緒に並ぶと、摩耶子の視線の方が少し上になる。踵の高いシューズを選んだことを、摩耶子は一瞬後悔した。


「じゃあ、ちょっとだけ……」


 半ば無理矢理に座らされた摩耶子は、少し考えてから、ニ長調のロンド一番を弾くことにした。やはりこれも幼い頃に習った曲だ。


「あれ? 何これ? 音が変じゃない?」


 弾きはじめてすぐに、音が外れているのに気付いた。最近はほとんど使われていないので、きっと一部の弦が伸びてしまったに違いない。


「音痴ね、このピアノったら」


 狂った音が妙におかしくて、摩耶子はわざと弾き続けながら、見るともなしに望を見た。すると望は「じゃあ、さっきの曲を弾いてごらん」と意味ありげに微笑む。一呼吸置いてから、ポジションを確認して、摩耶子は鍵盤に指を乗せた。ハ長調のソナタ、K545番……。時がたっても、この曲の指の動きは身体に染み付いている。


「あら、不思議? 今度はちゃんと聞こえるわ。いったいどうして?」


「さすが摩耶子、すぐに気付いたね」


「ねえ、どうしてなの?」


 狐につままれたような顔で尋ねる摩耶子に、望は真面目な顔つきで「実はね、ちょっと調律を変えてみたんだ」と答える。


「調律を?」


「そう、ハ長調の純正律にね」


「純正律……?」


「純正律って聞いたことない?」


「さあ?」


「音楽の祖、ピタゴラスが見つけた本当の音階さ」


「ピタゴラスって、あの数学で有名な人のこと?」


「うん、ピタゴラスっていうと、一般には『三平方の定理』なんかのほうが有名かもしれないけど、音楽のはじまりも実はピタゴラスだったんだ。調和のとれた音同士の比を研究していたピタゴラスは、それを元に今の音階の基礎を作ったのさ。彼がいなかったら、ピアノも、ギターも、いや、音楽そのものが、今とはまったく違うかたちになっていたかもしれない」


 音楽がまだ文化として確立されていなかった紀元前四世紀頃、鍛冶屋の鉄を打つ音を何気なく聴いていたピタゴラスは、その音程が打つ強さではなく、金槌の重さに左右されるということに気付いた。当時『万物は単純な比で構成され、宇宙は単純な比に支配されている』と考えていたピタゴラスは、音程そのものよりも、複数の音が織りなす比に注目し、羊の腸で作った弦に様々な重さの錘をぶら下げて、同時に弾いて出た音を比較し、その結果、人間が感覚的にもっとも心地よく感じるいくつかの和音の組み合わせを発見したのだ。一般にはあまり知られていないが、このピタゴラスの発見が、現在、だれもが当然のように使っている「ドレミファソラシド」の七つの音に、五つの半音を併せた十二音階の元となっている。


「でもね、純正律には問題もあって、これで調律したピアノは、転調には対応できないんだ。だから、さっき摩耶子が弾いた曲は、音が狂ったように聴こえたのさ」


 ニ長調とハ長調では、演奏の際に使用する鍵盤が異なる。このピアノは、ハ長調に合わせて調律されていたので、ニ長調のロンドを弾いたときには、音程がおかしかったのだ。


「そういうわけだったの。じゃあ、今のピアノが転調できるのはどうして?」


「今のはみんな平均律に調律されている。言ってみれば、平均律は何調でも弾けるようなオールマイティーな調律方法なんだ。でも便利にになった代わりに、厳密な意味でのハーモニーの純粋さは失われちゃってるんだけど……」


 皮肉なもので、完全さを極ようとすればするほど、逆にそこには不完全な要素が不可欠となってくる。


「だからこの調律で弾くと、ハ長調と、あとは同じ鍵盤を使うイ短調以外は音痴に聞こえちゃうんだ」


「望さんは聴覚が鋭いのね。私にはそこまで細かく聴き分けられないわ」


 事実、生まれたときから平均律で作られた音楽に浸り続け、それが唯一無二と思いこんでいる現代人の聴覚はすでに麻痺し、いまや純正和音を聴き分けられる人の数は減る一方だとか……。


「摩耶子、ところでモーツァルトの肖像画って見たことあるかい?」


「モーツァルト? さあ……、私にはヴェートーベン以外はみんな同じ顔に見えるけど……」


 小学校の音楽室の壁に貼られていた音楽家の肖像画を思い出しながら、でもどうして急に話がモーツァルトの肖像画に飛ぶのか、摩耶子は妙に思った。


「モーツァルトは、いつも自分の顔の右反面しか見せなかったって言われてる。それにいつも髪は長く伸ばしてたし……」


「どうして? 何か見られたくない理由でもあったの?」


「左の耳がいびつだったんだって」


「いびつって?」


「耳が曲がってたんだ。それに耳たぶも極端に小さかったらしい」


「そんな話、初めて聞いたわ」


「ちょっと、これを見てごらん」言うなり、望はおもむろに長い髪を指でかき上げた。露わになったその耳は、驚いたことに、今聞いたモーツァルトの耳の特徴とそっくりだった。子供の頃は気付かなかったし、再会してからは長髪に被われていて見たことがなかった。


「生まれたばかりの僕のこの耳を見た親父が、モーツァルトの生まれ変わりだと大騒ぎしたのも無理もないのかもしれない……」


 幼少の頃は、望自身、この名前を気に入っていた。モーツァルトがいったいだれなのか、またどんなに偉大な人物かを知る以前から、その名前には馴染んでいた。周囲からチヤホヤされていた当時は、モーツァルトとはきっと自分のことなのだろうと思い込んでいた。それが途中から一転して、心の負担としてのしかかり、家族、特に父親に対する重責へと変わっていった。


「モーツァルトと望さんって、なんだか語呂も似てるだろ? だけど、ぼくはけっしてモーツァルトの生まれ変わりなんかじゃないんだ」いくぶん自棄的に、望は言い放つ。


「でも今となっては、こうして音楽で飯が食えるのも、厳しかった親父のお陰ってことなんだけど……、それに……」


「それに……?」


「いや、何でもない」


(それに、音楽を続けていたお陰で摩耶子にも出会えた……)そう言いたいところを、望は言葉を飲んだ。その口ごもった話し方に、不意に摩耶子は七夕の晩の伝言メッセージを思い出させた。あの晩は不快に思ったが、時がたち、新たな年代にも慣れていた摩耶子は素直に言った。


「あれからずいぶん時間がたっちゃったけど……、ありがとう」


「何のこと?」


「私の誕生日……、覚えていてくれて」気が付いた望は、はっとなって頬を赤らめた。


「本当はちゃんと伝えたかったんだけど、あの晩は留守だったみたいだから……」と不在の理由を憶測しながら、望はまたしても語尾を濁す。


「ごめんなさい。あの日はちょっと……、用事があったものだから……」


 今度は反射的に答えた摩耶子が口ごもる。用事なんてなかった。何もなかった。だからこそ、早くスタジオを立ち去りたかった。変な強がり、そして、望に対する些細な嘘……。


「あのさあ、摩耶子、実は……」と、望が何かを言いかけたちょうどそのとき、村尾が他のメンバーと一緒にスタジオに入ってきた。


「おはよう。……あれ、早いね、ふたりとも」


「ピアノのお稽古かい?」と悪意のないちゃちゃを入れる。


「あら、本当、もうこんな時間になっちゃったわ」


「じゃあ、早速はじめようか」


 村尾の発声に各自が手際よく準備をはじめた。

 何か言いたげな望だったが、ふたりの会話はそこでいったん途切れた。望はアコースティック・ピアノの蓋をぱたんと閉め、やがてスタジオには、平均律にプログラミングされたデジタル楽器の音が充満していった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る