第一楽章(6)
ミキシングは無事に終了した。聞くに堪えなかった新人歌手の歌声も、村尾や望のアレンジと摩耶子のコーラスのお陰でかなりまともになった。それにしても、新人歌手を売り出すための曲の中で、その歌声を最小限に押さえ込むというのも変な話だ。
数日後、レコーディング作業も無事に終わったので、仲間内で打ち上げが開かれた。村尾の行きつけの道玄坂にある焼鳥屋で、酒宴は盛り上がった。
「ねえ、どうして望さんは、いつもあんなにアイデアが湧き出るの? ちょっと音を替えただけで、曲全体の雰囲気が急に洒落た感じになったわ」
ひと通り話題も出尽くしたところで、摩耶子は隣に座る赤ら顔の望に尋ねた。
「あれかい? あんなのニセモノだよ」
「ニセモノ?」
「そう、ただ無駄な音を付け足しただけさ」
摩耶子の期待に反して、望の返答は意外にあっさりとしていた。
「今の聴衆が求めてるものが、摩耶子には何だかわかるかい?」
拍子抜けした摩耶子を無視して望は続ける。
「無駄だよ」
「ムダ……?」
「そう、無駄なんだよ。みんな無駄をほしがっているんだ。そして、ひとつの無駄に飽きると、また次の無駄を求めるのさ。皮肉なことに、今の時代は無駄な要素を取り入れないと売れないんだ。それが時代の要請なんだから仕方ない。はじめから飽きられることを意図して作る、だから何ひとつ長続きはしない」
若干のアルコールが、いつもは物静かな望を饒舌にした。摩耶子はこんな望の姿をこれまでに見たことがなかった。
「そこへいくと、クラシックは廃れない。どうしてだかわかるかい? 答は明解。それは無駄な音がないからさ。たとえば、モーツァルト。彼の曲にはまったくと言っていいほど無駄がない。自分で弾いていてもそのことがよくわかるよ」
そういえば、以前に観た映画『アマデウス』のシーンでも、モーツァルトの完璧さにケチをつけようと、皇帝が「音が多すぎる」と批評すると「具体的にどの音のことをおっしゃっているのかご指摘下さい」と喰ってかかるシーンがあった。口ごもる皇帝に、さらにモーツァルトは「私は常に必要な分しか音を配してはいません」と訴えるのだ。天才モーツァルトには、無駄な音など何ひとつなかったのだ。それが二百年の時を越え、今もなお多くのファンの心をとらえている理由であり、証明なのではないだろうか。モーツァルトは、限られた時間の中にどれだけ音符を使うかという音の量ではなく、その中にどれほど濃密な瞬間を凝縮するかの音の質を重要視しているように思える。
「何もこれは音楽に限ったことじゃない、世の中には無駄なモノが溢れ返っているだろ。なのにそれがないと生きていけないようにだれもが錯覚してる。最初はその無駄が気にかかって売れたり、注目を浴びたりするけど、やがてはそれがハナについて飽きられる。でも、音楽に関して言えば、そこまで深く聴いてくれる聴衆が、どれだけ残っているのかも疑問だけど……」一息ついてから望は言葉を添えた。
「本当の個性なんて、ありゃしないんだ。大切なのは、歌より見てくれだから……」
「そうかしら?」
望の言葉は意外だった。それは違うと摩耶子は思った。アルコールが入っていなかったら、おそらく口には出さなかっただろうが、(歌より見てくれ)は自分に対して言われているような気がして、ついむっとなった。いつまでも裏方でしかない、自分に対する焦りもあった。
「聴いてくれる人がたとえ少なくても、私は自分の歌を大切にしたいわ」
考えるより先に言葉が出ていた。望と摩耶子、ふたりの音楽観の違い、それはわかっていた。でも黙ってはいられなかった。
「だって、だれかに気に入られるように、自分を作り変えていくなんておかしいじゃない」
「摩耶子……」
「だって、私は私だもん。私は私の声で私の歌を届けたいの。たとえ、それが売れなくったって、メジャーにはなれなくったって……。だって、私は私なんだもん」
言い放った自分の言葉が、余計に今の摩耶子の立場を実感させた。重苦しい何かが、胸にぐっと込み上げてくる。心配げに村尾がふたりを見る。
「今の仕事は、摩耶子には似合わない……」
「似合わないって、それどういうこと? 望さんまでが、私から歌をとり上げたいの? 違う道を歩めって言うの?」自分でも驚くほど感情的になりながら、サラリーマンに転身していった仲間たちの顔が浮かぶ。
「ごめん、そういう意味じゃなくって……」
「じゃあ、どういう意味なの? 私から歌を取り上げたら何も残らないのよ。何も残らないんだから……」
「そうじゃない。ぼくが言いたいのは、摩耶子が歌うべき歌は、新人歌手のバックなんかじゃないってことだよ」
「えっ……?」
「君の声は……、摩耶子の声は、今流行の騒がしい歌には向いていないんだ。そのことにぼくは前から気付いていた」
「でも、じゃあどうしたらいいっていうの? 今の私は歌を選べる立場にはないわ。与えられた歌を精一杯歌うだけ。それしかできないのよ」
堪えていた涙が一気に溢れ出てきた。悲しいから? いいえ、そうじゃない。あまりに自分で自分がじれったく、情けなくなったからだ。
「ぼくが……、ぼくが歌を作ってあげる……」
「えっ?」
「いつかきっと、ぼくが摩耶子の声に合う歌を作ってあげる」
「望さん……」
「摩耶子さえ嫌じゃなかったら……」
「そんな、嫌だなんて……」
摩耶子の表情から緊張が消え、望にもようやく微笑みが戻った。
「望さん、なんだか今夜は珍しくテンション高いじゃない」
「ちょっと飲み過ぎなんじゃないの」
村尾たちに諭された途端、望は我に返ったように口をつぐんだ。
帰りがけ、人気の少ない道玄坂を下っていると、望が近寄ってきた。
「摩耶子、なんだか今夜は言い過ぎちゃったみたいだな」
「ううん、そんなことない。私こそごめんなさい」
「……実は、この前から言おうと思ってたんだけど、今度コンサートに一緒に行かないか。モーツァルトのシンフォニー、41番。券が手に入ったんだ。2月13日の金曜日。日はよくないけど、覚えやすいだろ」
「ええ、ありがとう……」
望の切実な思いに押し切られたかたちで、摩耶子は承諾した。
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