第一楽章(4)

 帰宅した摩耶子が玄関のドアを開けると、部屋にはじっとりと重たい空気が充満していた。暗い部屋のベッドの脇で、留守電のランプが光っている。点滅の回数が二件のメッセージの着信を表示していた。メッセージボタンを押してから、急いで窓を開けて、空気を入れ替えた。


 ----------「もしもし、私、李沙子。ようやく生まれたの、2800グラムの女の子。満月は出産が楽だなんていうけど、そんなの嘘っぱち。まったくもう、海亀じゃないんだから……」


 ややかすれていたが、その声には女性としての仕事を成し遂げた喜びと充足感が含まれていた。


 小原李沙子……。

 学生時代の同級生。いつも強引で一方的。でも当たり前の幸せを、当たり前のようにつかみ取って生きている。なぜ他人はこうもうまくいくのだろう? ハネムーンで行ったヨーロッパの写真を見せられたのが、つい昨日のことのように思い起こされる。


 ----------「それから、今日は摩耶子の誕生日だったわね、おめでとう! 来年は是非一緒にお祝いしましょ!」


 今日という日を心から祝福している人たちがいる。今という瞬間が喜びに満ち溢れている人たちが……。そんな李沙子とは反対に、摩耶子は何かから逃れるように今日一日を過ごした。この違いはいったいどうして起きるんだろう。

 でもいったい何から逃れようっていうのだろう? 自分の心の持っていき場が見つからず、摩耶子はまたひとつ溜息をついた。


 ピーッと鳴って、メッセージは次に移った。

 一瞬、無言電話かと思うような間があってから、ぼそぼそと話す男の声。


 ----------「……あのぅ、俺……だけど……」


(だれ……?)


 ----------「……誕生日おめでとう、確か今日だったよね」

 声の主は山下望だった。


 摩耶子にとっては一番言われたくなかった言葉。それに思い出したくなかった数字。失礼だとは思うが、誕生日を覚えていてくれたことへの喜びよりも先に嫌悪感が込み上げてきた。

 望が自分に友人以上の感情を抱いているのではないかということを、摩耶子は薄々感じてはいた。だが、摩耶子はその気持ちを曖昧に遠ざけてきた。これまで極力、距離を保ってきた。


 小柄な望は、並ぶと摩耶子より背が低く、照れ症で話下手なところがあった。正直いって、望は摩耶子のタイプではなかった。だが、ひとりの音楽家としては尊敬していた。天才といってもいいほど、音楽的な感性は優れていて、一緒にいると学ぶことも多かった。


 望との出会いは幼少時代に遡る。幼い頃、ふたりは同じピアノ教室に通っていたことがあった。その地域では有名な厳しい教室だった。劣等生だった摩耶子とは反対に、当時から望は優秀だった。しばらくして摩耶子が引越してしまい、いったんは付き合いも途切れたが、ばったり再会したのが、それから十数年後のこと、摩耶子が短大生のとき、学園祭のステージで、ゲストに招いた新人歌手のバックバンドでキーボードを弾いていたのが望だった。

 おそるおそる摩耶子が声をかけると、「もしかして、摩耶ちゃん?」と、望もすぐに彼女の名前を思い出した。正統派のクラシックの道に進んでいないことを知られたからか、一瞬、望は気まずい表情をした。それが摩耶子にはやけに印象に残っている。

 新人歌手のバックとはいえ、プロとして演奏している望が、摩耶子にはとても大きく、輝かしく映った。

 その再会がきっかけで、摩耶子は音楽業界に関わりはじめた。望は度々レコーディングの場に摩耶子を呼んでくれた。そして、望の口利きで少しずつ仕事をもらえるようになった。だから、今の摩耶子があるのも、望のお陰といえばお陰なのだ。


 聞き終えたメッセージを消去してから、摩耶子はシャワーを浴びた。熱い湯を首筋に当てていると、疲れが一気に溢れ出てくる。その疲労感が、果たして精神的なものなのか、肉体的なものなのか摩耶子にはわからなかった。


「平野摩耶子、30歳か……」


 眠ってしまえば、日付も替わる。否が応でも30年目の人生ははじまってしまったのだ。

 そうして月のない夜は更けていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る