第一楽章(3)

「では、これで本日最終回の投影を終了いたします。どうもありがとうございました」


 解説を終えた和泉徹が照明を点すと、星を映し出していた天蓋は、元の無機質な白壁へと戻った。パラパラとまばらな拍手が鳴り、まるで何ごともなかったかのように、カップルたちは姿勢を正す。

 やや高くなった解説台から、徹は、投影途中で入ってきた女性客の席にちらりと目をやった。しかし、もうそこに彼女の姿はなかった。


 最後の客が退場するのを見送ってから、徹はCDやスライド、解説用原稿などの整理をしはじめた。これも最終投影の担当者の務めだ。


「やれやれ、今日も一日、無事に終わったか。ご苦労、ご苦労……」


 東側の入り口から、白髪混じりの髪をボリボリと掻きながら入ってきたのは間宮大輔だった。背は小柄だが、骨格はがっちりとしている。もうすでに吐息にはアルコール臭さが混じっている。

 間宮は手にした缶ビールをプッシュッと開けると、徹の目の前に差し出した。

 缶の口から白い泡が顔をのぞかせている。


「ほらほら、さっさと片づけちまえ。アフロディーテも早くお前に飲まれたがってんぞ」


 ビールのことを間宮はいつもこう呼んだ。ギリシャ神話に出てくる愛と美の女神アフロディーテは、海の泡から生まれたとされている。この女神は「アフロディーテが俺を呼んでいる」などと、しばしば間宮の飲酒の口実に登場するのだ。


「おい、ちょっとこれかけてくれねえか」


 ぶっきらぼうに言って、間宮はカセット・テープをぽんと放り投げた。テープには、間宮のお気に入りのジャズが十数曲収められていた。


「それと、もういっぺん、カールを回してくれ。今夜は俺たちふたりで星空のビアガーデンといこうじゃねえか」


 スタッフの間では、プラネタリウムはカールと呼ばれていた。これは製造元であるドイツのカール・ツアイス社から取ったものだ。


「どうしたんですか? 何かいいことでもあったんですか?」


「いや、別に。ただ今日は584日に一度の金星と地球の会合周期だから、それを祝うってのも悪くねえだろ?」


 突拍子もない口実に、徹はなんとなく納得させられたような気になった。


 大方整理を終えた徹は、テープの再生ボタンを押してから、缶ビールを持って、間宮から二つほど離れた席に腰を下ろした。

「いただきます」と言う徹に、間宮は「おう、お疲れ!」と無造作に缶を掲げる。

 作り物の、しかし、こうして眺めると本物と錯覚してしまう夜空を眺めながら、徹は一口ビールを口に含んだ。星を眺めていると不思議と心が静まってくる。心地よい疲労感が、アルコールとともに身体中に拡散していく。


 プラネタリウムのドームが星々で埋め尽くされると、たいてい観客は驚きの声を漏らす。その眺めがいかに不自然であるかをささやきあう。そんなとき、現代人と天体の関連がいかに希薄になってしまったかをつぶさに感じる。現代人にとって、もはや星空は別世界のものになっているのだ。

 古代社会においては、星空は地図であり、暦であり、時計であり、おそらく現代人が想像する以上のものであったに違いない。また、航海の際には、方角を知る目印でもあった。獣帯(ゾディアック)は、天の極や赤道、また、自らの位置を割り出すために、伝説上のヒーローやヒロイン、孤独な船乗りや羊飼いに馴染みのある動物や物にちなんで考え出された。彼らは天体の動きを観察していただけでなく、それが固有の周期をともなっていることにも気付いていたし、そこから未来に起きることを予測しようとさえしていた。



 和泉徹は東京の外れで生まれた。住所こそ東京都だが、定期船で六時間かかるその島は、新聞がくるのもいつも半日遅れ。そこだけが世界から取り残されているような気がした。学校でもいつも周囲は同じ顔ぶれで、だれもが互いの生い立ちを知っているような狭い土地だった。

 高校を卒業した後、東京の大学へ進んだ徹は、卒業後も島には帰らず、東京で就職した。小さい印刷会社だった。これでようやく牢獄のような島から抜け出せたというのが実感だった。


 しかし、時の経過とともに状況は変わっていった。

 都会には人が大勢いるのに、なぜだか孤独感、疎外感は増すばかりだった。久しぶりの帰郷で、徹は島の夜空を眺めた。こんなにも多くの星に見守られていたなんて、それまで気付かなかった。そのとき、今まで毛嫌いしていた島の生活や習慣が、妙に懐かしく感じられた。故郷の温かさが身にしみてわかった。

 都会に戻って、故郷を忍ぶのに格好の場所を徹は見つけた。それが会社の近くのプラネタリウムだった。島の夜空が恋しくなると、徹は気晴らしにそこへ行って、ぼんやりと模造の空を眺めた。天を眺めている限りは、都会にいることを忘れて、頭を空っぽにすることができた。残業のない日は、最終回の投影によく立ち寄った。


「あんた、よっぽど、星が好きなんだな」


 たまたま客が数人しか入っていなかった晩、そう声をかけてきたのが間宮大輔だった。ぶっきらぼうな口調が、孤独な徹の心の隙間に妙にすんなりと入り込んだ。


 やがて徹は会社は辞めた。上司との意見の衝突、原因は些細なことだった。

 しかし、島には戻る気にはなれなかった。いや、戻るわけにはいかなかった。


「今日はやけに早ぇじゃねえか、何かあったんかい?」と、失業して持て余した時間を潰すために入った午後のプラネタリウムで、再び間宮が声をかけてきた。間宮の飾らない笑顔は、都会生活に疲れた徹を大きく包み込んだ。徹は簡単に事情を話した。


「まあ、長い人生、いろいろあらあな。こいつでも飲んでのんびりしてってくれ」と、缶ビールを手渡してから、間宮は解説台に立った。


 その日、投影が終わってから間宮が近づいてきて言った。


「ところで、この先の仕事のアテはあんのか?」

 首を横に振る徹。


「どうすんだい?」


「少し気持ちが落ちついたら、また何か探しますよ」


「あんたがその気なら、すぐにでもできる仕事があるぜ」

 徹は、驚いて間宮の顔を見上げた。


「これだけ通ったんだ、もう俺たちの解説はおおかた覚えちまったろ?」



 徹の存在は、若い世代が不在のこの狭い職場に刺激を与えた。だが、依然として年功序列の風習は残っていて、徹はいつも最終回の投影を任された。つまり、解説員の話など聞かずにいちゃつくカップルのいる時間帯だ。彼らにとっては暗闇にこそ価値があるのだ。


 しかし、徹はけっしていとわなかった。それはカップルたちに混じって、自分と同じような立場の人間、つまり、たとえそれがわずかな時間であっても、都会生活に疲れ、心の休息を求めてやってくる連中がいることを知っていたからだ。

 星空にはそんな人間を根本的に癒す力があった。星の見えない狭い都会の空の下で、それがかなえられる唯一の場所、それがここ、プラネタリウムだった。


 徹には、良次という双児の弟がいた。わずか20分の違いで、徹が兄となった。以来、年も背格好も一緒なのに、良次は徹を「兄貴」と呼んだ。


 島を離れる兄の気持ちが、良次には理解できなかった。いくら都会の魅力を語ってみても、良次は「兄貴はすげえよ、俺なんか、島を出ようなんて思ったこともないんだ。親父と漁をして暮らすことしか頭に浮かばないよ」と、漁師という職業を宿命のように感じていて、それを疑いもしなかった。一方で、自分にはない独立心を持つ徹が、良次には自慢のタネだった。「俺には都会に暮らす優秀な兄貴がいるんだ」と、同世代の漁師仲間にいつも誇らしげに話していた。また徹が帰郷するたびに良次は言った。「親父とお袋のことは心配すんなよ。兄貴が都会で頑張ってると思うと、俺も力が湧いてくるんだ」と。


 だが、徹が心配なのは両親ではなかった。良次は知らなかった、自分の身体が爆弾を抱えていることを……。


『急性骨髄性白血病……』


 初めて父に病名を明かされたとき、徹は自分の耳を疑った。発症はしてはいないものの、いつどうなるかわからない状態だと医師から宣告された。この世に同時に生を受けたのに、なぜ良次だけがそんな不幸を背負ってしまったのか、徹は運命を恨んだ。


 そんな良次のことが、頭から離れたことはなかった。しかし、島には帰れなかった。こんな兄貴でも、誇りにしてくれていると思うと、島に戻って、良次をがっかりさせたくなかったからだ。良次のためにも、「都会で頑張ってる兄貴」を演じ続けなければならない。


 バックに流れる音楽が、『スターダスト』から『星に願いを』に替わった。ドラムとアコースティック・ベースが、小気味よいスィングのリズムを刻み、ピアノがそれと絡み合う。ラストをナット・キングコールの『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』で締めくくって、テープは終わった。


「ねえ、大さん」


 返事がないので、立ち上がってみると、間宮はいつの間にか眠っていた。


「ちぇっ、またか……」


 その目には、心なしか涙が溜まっているように見えた。ぼんやりとそんな寝顔を見ていると、「アフロディーテ……」と寝言が聴こえた。


「まったく、寝てても酒のことが頭から離れないんだから……」徹は間宮の手からビールの空き缶をそっと抜き取りながらつぶやいた。

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