爪切り恐怖症

きさらぎみやび

爪切り恐怖症

 彼女は爪切りが怖いのだそうだ。


 曰く、「自分の体の一部を自分で切るなんて、とてもできません」とのこと。大学のゼミ仲間での飲み会だった。居酒屋の座敷席。たまたま席が隣になったので、居酒屋の少し薄いカクテルを傾けながら自然とお互いのことを話していた。彼女とちゃんと話したのはその日が初めて。教室でもいつも男女限らず誰かに囲まれているような、屈託のない子だと思っていた。


「でも、髪の毛だって自分の体の一部じゃない?」


 疑問に思ったので聞いてみる。すると彼女はこう答えた。


「髪の毛は誰かに切ってもらうことが当たり前じゃないですか」


 それはそうかも。私はズボラなので前髪くらいなら自分でちょっと整えちゃったりするけど。


「でも髪と違って、爪って自分で切るのが当たり前みたいになってますよね?それっておかしいと思うんです」


 私は他人に切ってもらうことのほうが怖いけどなあ。害意がないとしても刃物を持っているわけだし。


「それだったら髪の毛だって同じじゃないですか。鋏をもって自分の後ろに立ってるんですよ」


 そう言われると、美容師さんが途端にホラー映画に出てくるお化けみたいに思えてくる。


「じゃあ美容室は行かないの?」

「美容室は行きますよ。でなきゃこんな髪型とてもできません」


 彼女の髪は毛先で緩くカールしたセミロングのブラウンヘア。

 大人びた印象とかわいさが同居している、女性の私から見ても素敵と思えるヘアスタイルだった。

 彼女はくるくると毛先を指に巻き付けている。そういうしぐさが男性を惹きつけるのかな。


「美容室は良くて、爪切りはダメなの?」

「そうです。小さいころからどうしてもダメなんです」


 ん?そういえば最初に気づかなければいけない疑問に私は行きついた。


「あれ、じゃあ爪を切るときってどうしてるの?」


「私はトイレ行きません」みたいな昔のアイドルじゃあるまいし、いくら見た目がアイドル並みにかわいいとはいえ、彼女も人間だ。

 髪の毛だって爪だってそのままにすれば際限なく伸びていく。切らなければどうしようもない。


「小さいときはお母さんに切ってもらっていました」

「わたしも小さいときはそうだったけど、大きくなってからはそうもいかなんじゃないの」

「でも高校生までは実家にいたので。お母さんが忙しいときは弟に切ってもらっていました」


 それは想像するとちょっと退廃的だなあ。

 弟くんもきっとかわいい子なんだろうけど、お姉ちゃんの爪を切るって思春期あたりの男の子にはいろいろと厳しいのでは。


 ベッドに座って足を差し出す彼女。もしかしたら湯上りかもしれない。すこし上気した体で深く腰掛けている。

 彼女のすらりと伸びた細い足をひざまいずいて手に取り、ゆっくりと指の先端に爪切りを近づける。

 肉を挟まないように慎重に爪切りを差し入れ、パチリ、と刃をかみ合わせる。彼女の一部が切断され、手元にぽろりと落ちてくる。

 どこかに飛んでいかないように、受け止めてひとつところにまとめておく。

 足の指を優しくつまみながらひとつひとつ丁寧に爪を切っていく。


「どうしたんですか、ぼんやりして」


 彼女が不思議そうにこちらを覗き込んでくる。酔ってわずかに赤くなった頬が魅力的だ。うるんだ瞳に吸い込まれそうになる。

 いけないいけない、想像が予想以上に膨らんでしまった。気付け代わりに手元のカクテルを一息で空にする。

 底のほうにアルコールが溜まっていたのか、一気に酔いが回ってきた。

 ふと気になって、彼女に聞いてみる。


「でも今はどうしてるの?一人暮らしなんだよね」

「はい。今は色んな人にお願いして切ってもらっています」


 すこしの沈黙を挟んで、彼女は私に告げた。


「ですから、私の爪を切ってもらえませんか…?」


 彼女の足に目をやる。まだ夜は寒い時期だというのに、彼女は靴下も履かず素足で床に座っていた。

 ぴんと伸ばされた足先に小さくてかわいい指が付いている。

 伸びかけた足の爪は、誰がやったのだろう、先端が奇麗に磨かれていた。


「そろそろ切らないといけないんです、お願いできますか…?」


 彼女がゆっくりと顔を近づけてくる。

 甘い吐息とともに吐き出される蠱惑的なその声に、私はごくりと唾を飲み込んだ。

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