第四話 腐敗の大樹二

「おお、メイファ。入れ」


 しわがれた声が響いた。

 だが言葉は続かない。

 ベッドから半身を起こしたレオは体を折り、激しく咳き込みながら肩を震わせた。苦し気にシーツを掴む腕は細く、冷たい病が静かに彼の肉体を蝕んでいる。ところが床には人工酒の瓶が転がり、ベッドの上には昨夜に女がいた形跡が残っていた。

 あれだけの衝撃にも拘わらず、レオはメイファが現れる直前まで眠り続けていたのである。目は濁り、放つ息にはまだ濃いアルコール臭が交じっている。気高く、精悍だった軍人の姿は見る影もない。

 何が彼を変えたのか。

 結果として特権階級を得てしまった人間の驕り、業。幻龍が存在する事により得られた力が、その身を崩す結果と成ったのは人間の持つ弱さの為か。

 暗澹たる気持ちを抱えながら、メイファは半裸のレオに歩み寄った。

「レオ。レオ将軍、不摂生が過ぎます。貴方の体に何かあれば幻龍の者共、延いては我ら紅蘭の民の身に多大な影響が及びます。どうか、もう少し御養生下さい」

 転がった瓶をテーブルに戻すと、メイファはレオの背中に手を寄せた。

「あ、ああ」

 メイファは自らの手から伝わる体温に、耐えがたい嫌悪感と血の記憶に胸が悲鳴を上げた。

 幻龍と言う希望に閉じ込められた日々の中で、目を閉じると忍び寄る暗い影に際悩まされているのである。

 私は、後悔しているのであろうか。

 脳裏に刻まれた無数の傷は鈍い痛みを突き付ける。その刃は月日が経つにつれ、メイファの奥底へと喰い込んで行く。

 数多の血。

 数多の死。

 それらはすべて、自由と呼ばれる人間の尊厳を取り戻す為に、自らの手を汚してでも切り開く必要があったからである。

 罪のない人間を、何人殺したであろうか。誰にも奪われる事が許されない未来を、どれだけ奪ってきたであろうか。

 女、子供。

 強き者。

 弱き者。

 区別はない。

 長きに渡る紅蘭の闇に終止符を打たんが為に、如何に非情であろうと、如何に残酷であろうと、あらゆる罪を引き受ける覚悟があった。

 その気持ちは今も変わらない。

 しかしながら、灰燼した世界の代償に手にしたものは、広大なる宇宙に漂流する腐敗した大木である。

 少しずつ少しずつ水が濁り、空気は汚れ、中に営む小さな生命が侵食されて行く。大いなる希望であったはずの大樹は太陽を失い、光なくして生命活動を終え様としている。

 残された者は幹に残る僅かな水で命をつなぎ、何時干上がるのかと見えない死の宣告に怯え、生きる気力すら失っていた。自由への炎は世界中へと飛び火し、数十億もの人間が巻き添えを受けた。

 燃え盛る劫火より抜け出した幻龍は、地上からの怒りにより、殆どの機能を停止したまま宇宙へ放り出される羽目と成った。

 これは神の力を見誤った罰か。

 紅蘭と言う超大国が持つ力は、すでに人間の手を離れつつあったのだ。放置すれば確実にリヴェリア合衆国、オウス連邦、世界を巻き込む戦火が避けられない時代へと突入する。成ればこそ、再び国を民衆の手に取り戻す必要がある。強大な力に対抗するには、自分達は余りに無力。追い詰められた弱者は、神に頼らざるを得なかった。

 決して、神の力を軽んじていた訳ではない。

 その力は強大過ぎた。

 文字通り、国がなくなるなど誰が想像出来ようか。神の領域へと踏み込んだ人類は怒りを買い、世界は贖罪の炎に飲み込まれた。祖国は滅亡する事で解放されてしまったのである。

 自分達は、何処で道を誤ったのか。遠く離れてしまった故郷は、メイファの心の中で冷たい雨氷に晒されていた。

 寂寥感と共に過去へ向けられていた彼女の視線はレオの顔を通り抜け、背後の空き瓶へと注がれる。テーブルの上にはアルコールの他に、様々な薬が転がっていた。

 資源の枯渇が問題視されている中で、単純な合成で作られる薬も足りずに苦しんでいる民がいる。レオの個人的な快楽の為に失われた薬で、どれだけの病人の苦痛を和らげられるであろうか。

 紅蘭の歴史にて、長きに渡る神礼家の呪いを解放した者が再び、神礼家と同じ道を歩み始めている。

〝貧しい民は、王朝時代の方が良かったと思っているだろうよ〟

 メイファの胸に、ライゾウの言葉が蘇る。

「将軍。幻龍が襲撃を受けました」

「なんだと」

 レオは驚愕に声を上げた。息苦しそうに喘ぎ、咳き込みながら頭痛の為に両手で頭を抱えた。

「レオ、落ち着いて。深呼吸を」

 メイファに促され、体を折りながらも胸に手を当てる。グラスを受け取り、水を飲み干すと長い息を吐いた。

「メイファ。襲撃とは、どういう事だ」

 憑き物が落ちた様に焦点が戻り始めたレオは、メイファの瞳を覗き込んだ。

「不明です。幻龍が亜空間から抜け、同時期に明らかな意思を持った存在が幻龍に衝突、侵入しました」

「何だと」

 レオの瞳に激しい光が走る。驚愕とも恐怖とも違う未知なる感情ではあるが、少なくともメイファに冷たい違和感を抱かせる光であった。病に身を崩し、覇気も誇りも失ったレオではあるが、未だその奥底に宿る暗い炎が舌舐めずりをしている。

 テーブル上の物を乱暴に払い落とすと、レオは置かれていた時計を掴むと日時を確認した。

「三年と半年」

 先程までの欲情の爛れが抜け落ち、目を剥きながら無言で時計を見詰める。不安や焦燥感とも取れる表情に、額には冷や汗が浮かんでいた。対極成る物がレオの中で渦巻き、噴き上がった感情が酩酊していた意識を呼び戻したのである。

「レオ」

 横顔から覗く濁った眼に、様々な色が見て取れる。

 怪訝そうなメイファをも無視し、時計を凝視していたレオが振り返る。そこには過去に見せた、使命を持った兵士としての顔があった。

「幻龍が亜空間から抜けた理由は何だ。被害状況を知りたい。事故ではなく、本当に襲撃なのか」

 メイファの肩を掴む。

 病人とは思えない力強さである。

「いえ、幻龍が光速潜航を解除した理由は現在調査中です。襲撃は一度のみ。シールドを突き破り、バンカーバスター類の兵器が幻龍の最後尾に衝突しました。ダメージコントロールに関しては現在、ゼロが対応中です」

「バンカーバスターだと」

 そう呟いた後、何かを言い掛けた口を閉じる。その変わり小さく舌打ちすると、膝に懸けられていた上着を羽織るとベッドから片足を下した。

「メイファ。危険だが、確認して来てくれ」

「そのつもりですが、レオ。襲撃なんて事が有り得るのでしょうか」

「武器庫を開けなくては成らないか。また大和の奴等に武器を渡すのは癪だが、そうも言っていられまい。兎に角だ、今は幻龍を守る事が最優先だ。それが如何なる脅威であってもだ。まったく忌々しい」

 レオはメイファに支えられながら立ち上がると自らの手の平を確認する。そこには、白く発光するナンバーが埋め込まれていた。

 部屋を出ようとするレオに、メイファが聞いた。

「将軍。何か、御存知なのでは有りませんか」

 レオは答えなかった。



 睨み合っている。

 電力が足りない暗い部屋は湿った影を落とし、そこへ渦巻く殺気により負の濃度が増していた。

 大柄なライゾウとゼロ。

 精神的にも物理的にも、彼らの立ち姿が部屋に影を落とす要因に成っている。その後ろに埋もれたユウキは、必死で自尊心を保つべく胸を張りながら直立不動をしていた。

 テーブルを挟み、独り椅子に座っているレオに、その後ろにメイファが付き添っている。敵対する大和と紅蘭の構図であった。

 意図せぬ状況ではあるが、無理からぬ現状でもある。頭では理解していても感情が納得しない。ついこの間まで、お互いに銃口を向け合っていたのだから。

 肘を付き、横柄な態度でいるレオの態度も然る事乍ら、殺気を隠さないライゾウの態度もまた然りである。

「まったく、使えないポンコツだな」

 均衡を破ったのはレオであった。

 幻龍の現在位置観測は以前より行われているが、亜空間から抜けた為に観測可能領域が拡張したのである。

 しかしながら、未だに現在位置を特定出来ないと言うゼロの報告に対してのレオからの評価であった。

「私は飽くまで、ホストコンピュータへ接続する能力を持っているに過ぎない。したがって貴方の発言は、自分の船である幻龍に対する評価と受け取って宜しいかな」

「そんな理屈は聞いていない。お前の仕事は、あらゆる手段を使って幻龍の現在位置を特定する事だ」

「では、レオ将軍。そう要求するのであれば、幻龍のコアブロックを解放して欲しい。あの区画には、幻龍のマザーシステムへ直接アクセス出来る環境がある筈だ。上手くすれば、停止している幻龍の機能を再起動出来るかもしれない。そうすれば現在位置の特定も可能に成るだろう」

「断る」

「理由をお聞かせ願いたい」

 レオとゼロの複眼が絡み合う。

「幻龍は現在、瀕死の状態だ。直接マザーシステムにアクセスし、取り返しのつかない事態に成る危険性がある限り許可出来ない」

「幻龍が管理しているライフライン最適化の数値は、日々低下している。このままでは、いずれ全員が死ぬだろう。であるなら、少しでも生き残れる道を選ぶ事が賢明なる指揮官の責務だ。怠慢な生活に、貴方はその鱗片すら失ってしまった様だ」

 レオが怒気を込めて立ち上がる前に、ユウキの声が差し込まれた。

「もう止めろよ」

 部屋に一瞬の沈黙が蘇り、この時レオは初めてユウキの存在に気が付いた様な顔をした。

「そんな話をしに来た訳じゃないだろう。どうして大人は何時もそうなのさ。ゼロが言った様に何かが幻龍に激突して、そのせいでライフラインの数値が落ちたのなら真っ先に、皆の為に原因を究明する事だろう。その相談をする為に、此処に集まったんじゃないか」

「ユウキの言う通りね」

 メイファの肯定に誰もが押し黙る。

 睨み合う大和と紅蘭の大人達は、口は閉じたが反省の気配はない。だが、少なくとも休戦の意思は見られた。

 不気味なゼロの複眼から視線を外したレオは、大柄な戦士の後ろで両手を握り絞めながら肩を怒らせている少年を見た。

 無遠慮な視線を向けた後、その目はメイファへ疑問を投げかけた。言葉にするのであれば「あのガキは誰だ」と言った所であろう。

 座っているレオに対して、微かに頭を下げるとメイファは耳元で紅蘭語で何かを囁いた。

 ゼロにもメイファの言葉が聞き取れていたが、何も言わなかった。可能であれば隠したい事実であるが、いずれは知られる事に成る。だからこそ、自分とライゾウが居るのである。

 一方、レオは微かに眉を上げると怪訝な目が冷ややかな色に変わり、小さく鼻で笑った。呆れ、失望した様な表情である。

 そんな無遠慮な視線に、ユウキは正面から睨み返した。少年の物怖じしない姿勢に、何やら目の奥で黒い物が渦巻ていたレオであるが、やがて大きな溜め息を吐いた。

「それで、衝突現場を確認しに行くのに何故火器が必要なんだ。異星人が突っ込んで来た訳でもあるまい。何かが襲って来るとでも言うのか」

 レオは幻龍の損傷部分を表示しているダメージパネルを指先で叩いた。損傷部分は、幻龍の中心から各方面へと広がっている。そこへ今回、最後尾に新たな赤い領域が追加された。

「それに関しての情報はない。だからこそ確かめに行くと言っている。また、現状から考えられる事は、幻龍に衝突した物体は隕石などではなく明らかな人工物だ。エクサロン・ビーム程の威力がないと貫通出来ない防御シールドを突破し、第七階層まで侵入している。これが、どれだけ異常な事かは説明不要だろう」

 ゼロは手を触れずにダメージパネルに表示されている幻龍の俯瞰図を回転させ、レオの前に示して見せた。この部屋を管理している端末にアクセスして見せたのである。

 レオは口元を歪めたが何も言わなかった。けれども、その視線はダメージパネルに向けられ、脳裏にて持ち得る情報による照合が行われている事が見て取れた。

 痺れを切らしたのか、ライゾウがゼロの後ろでタバコに火を着けながら口を開いた。

「火器は、自分の身を守る存在である事は良く理解している筈だ、将軍殿。別に丸腰で行っても良いが有事の際は、その女も死ぬぞ」

 ライゾウはタバコを咥えた顎でメイファを指した。ライゾウを捉えたメイファの視線は、彼と目が合う前に外された。

「監視役の為にも一緒に行かせるのだろう」

 ライゾウの言葉に、レオは舌打ちして溜息を吐く。

 歴戦の兵士として、幾つもの死線を潜り抜けた来たのはレオも同じである。彼が幻龍の置かれている状況を理解していない筈もない。

 つまり、只の嫌がらせである。

 レオ自身こんな茶番が時間の無駄である事は百も承知だが、それもそろそろ潮時であった。

「レベルβまでの武器は貸してやる。無駄に弾丸を消費するなよ。そして、すべての指揮はメイファに従ってもらう」

 大きく舌打ちすると脚を組み直し、顔の前で犬を追い払う様に手を振った。

「良かろう」

 吸い柄を飛ばそうとする手をユウキに押さえられ、舌打ちしながら部屋を出ようとしたライゾウが振り返る。

「残念ながら俺達は一蓮托生の身だ。情報の秘匿はお互いの為にならない。例え、それがどんな悪事であろうと生き残る為に必要な情報なら開示してもらいたいものだな。将軍殿」

 両者の視線が一瞬交わり、部屋の温度を下げた。レオは鼻で笑うと、再び手を振って大柄な獣を追い出した。

 ライゾウに続こうとしたユウキは、紅蘭のふたりに目を向けた。

 何かを期待した訳ではない。

 何かを否定したかった訳でもない。

 只、彼はもっとふたりの事を知りたかったのだ。

 しかしながら、レオはすべてに興味を失った様子でユウキの存在すら認知していない。メイファは自分に向けられたユウキの視線を感じてはいたが、伏し目がちの瞳に写る事はなかった。

 口を開き掛けたものの結局ユウキは何を言って良いか分からず、部屋を出て行ったライゾウ達を追いかけた。

「ライゾウ。あんな嫌味な言い方したら誰だってヘソを曲げるだろう。教えてくれる情報も教えてくれなくなる」

 肌寒い廊下を小走りに、ユウキは大柄な背中に苦情を突き付けた。

「ユウキの言う通りだ。北風と太陽と言う童話を知っているかライゾウ。一度読んでみたらどうだ」

 ユウキの言葉にゼロも続けたが、彼の口調は壁に綴られた文字を読んでいるかの様であった。

「うるせえ」

 そう答えたライゾウは、もう一度「うるせえ」と繰り返した。



 一心に祈っていた。

 鉄柱を寄せ集めて建てられた、辛うじて人型を保った像の足元で祈っていた。

 その像は、幻龍の広大なセンターターミナルエリアの最階下層にあるフロアに建てられていた。其処は僅かに生き残った紅蘭人が集まる生活基盤の場所でもあり、祈りの場所でもある。

 本来であれば何万人という人々の生活を支える情報処理場であり、独立した発電所が設置されている為に一応の電力を確保出来ていた。

 しかしながら潤沢な供給には程遠く、発電されてはいても送電するシステムが機能しておらず、彼等は自らの手で電力を引いて使用する生活を強いられていた。

 衝撃に吹き飛んだ外装から発電システムの中身が露出しており、薄暗いフロアに不気味な青い光を放っている。

 隣接に祭られた鉄の像はワイヤーに固定され磔にされている様でもあり、頭部と思われる部分に開けられた黒い双眸は無感情に人々を見下ろしていた。

 鉄の像は何も言わず、祈る人々の口からも何も聞こえない。陰鬱な重たい静寂だけが流れている。残された僅かな人々は膝を折り、逃げる事も、そして進む事も出来ない閉ざされた世界で頭を垂れていた。

 人類を救う箱舟として超技術により製造された幻龍の中にいてもなお、人々は〝イノリ〟に救いを求めているのである。

 今、人々が信じているものは英知を極めた科学技術ではなく、原始から人間だけが持つ事を許された奇跡であった。

 しかしながら、その奇跡すら瀕死である幻龍の行き先に委ねられているのである。大地の恩恵を受けられない人々は、奇跡の裏側に見え隠れする絶望を必死で押し殺していた。

「陰気臭えな」

 うんざりした様子で、ライゾウはマガジンに弾を込めていた。その手付きは洗練されている。

「何度も言っているけれど、どうしてライゾウは何時もそんなデリカシーのない事を平気で言うのさ。祈ると言う行為は大切な事なんだ。ライゾウだって大和人ならもっと」

 ライゾウは耳に指を突っ込むと、片手で胸のタバコを探し始めた。人を馬鹿にした態度にユウキが癇癪を起こしかけたとき、冷たい祈りの場に消え入りそうな声が響いた。

「メイ、メイ」

 メイファ率いる武装を整えた即席の調査隊一行に、遠巻きに不安気な視線を向けていた人々の中からひとりの老婆が力なく歩み寄って来た。

 色の饐えた衣服を纏っている姿が、彼等の置かれた生活状況を生々しく物語っている。

「叔母様。シャオ叔母様」

 姿を見せた人物に、メイファは膝を付きながら優しく老婆の手を取った。

「メイ。さっきの揺れは何だい。皆怯えて、子供も泣き止まないよ。それに、そんな武器を持って何処へ行くの。また戦うのかい」

「違うわ叔母様。幻龍が揺れた原因を調べに行くのよ」

 老婆はメイファの手を両手で包み込んだ。

「危険な場所かい。メイが行く事ないだろう、お前は女の子なのだから」

 メイファの唇が柔らかく緩む。

「もう女の子なんて歳では無くてよ」

「何を言っているの。お前は今も昔も変わらないよ。メイ、女は子を産み育てるのが仕事なのよ。だから、もう危ない事は止めて。皆メイの事を心配しているし、皆にはメイが必要なのよ」

 メイファは老婆を抱き絞めた。

「様子を見に行くだけよ。危険な事はないから、心配しないで叔母様」

 普段、自分達の前では見せないメイファの姿に、ユウキは見る事を許されない罪悪感を覚えていた。それは本来、メイファと限られた者達にしか与えられない神聖な領域の筈である。それにも関わらず、こうして公然の前で晒す痛みは測り知れない。そして、その垣根を破壊し蹂躙したのは自分達と言う皮肉である。

 あまり感情を見せないメイファであっても、ひとりの人間であるのだ、と当たり前の事実をユウキは再認識した。

 誰もが皆、血の通った人間である。

 少しの間ではあったが、その抱擁を解いた後に交わした眼差しには言葉以上の気持ちが込められていた。

 遠くから目を伏せたユウキの耳に、不愉快な声が捻じ込まれた。

「メイちゃんは、女の子だからなあ」

 振り返ると、ユーロンと呼ばれる青年が下品な笑いを漏らしていた。顔色が悪く、熱に浮かされた様な目をしていた。

 ユウキが嫌悪感に何かを言い掛ける前に、鈍い音と共にユーロンが体を折り曲げて冷えた床に倒れた。

「何、すんだよ」

 腹部を押さえながら、ユーロンが怒りを交えた苦悶に歪む顔をライゾウへと向けた。激しく口を動かしているが言葉は続かず、その代わりに涎が垂れている。

 ライゾウと言えば、何事も無かった様にタバコを求めて胸ポケットへ指を入れていた。

「この」

 立ち上がり、ライゾウへ掴み掛ろうとするユーロンの襟首を、ゼロが優雅な動きで引き止めた。

「余計な体力を使わない方が良い。これから、何が起きるか分からない所へ行くんだ。不測の事態に成ったら逃げられないぞ」

「うるせえ、ポンコツ」

 ゼロの手を払い退けると、ユーロンは唾を吐いた。

 ライゾウに飛び掛かるのを自制した様子ではあるが、それはゼロの理屈に納得した訳では無く、彼の持つ不気味な複眼の光に圧倒されたからである。

 更に言えば、ライゾウやゼロは地球での大戦を潜り抜け、幻龍で起きた抗争でも圧倒的な強さで紅蘭の兵士を震え上がらせた強者なのである。

 殴りあった所で、とても勝ち目がないのはユーロン自身も分かっている。それが尚更、彼を苛立たせる原因となっている。

 そもそもユーロンは兵士では無い。箱舟として幻龍が地球を離れる際に乗り込んで来た市民の一人である。

 大和、紅蘭共に、正規軍人は幻龍内での抗争により殆ど残っていない。それらの抗争には自国の志を継ぐ民間人の若者も参加していた為に、生き残った者は老人、病人、そして子供である。

 勿論、中にはユーロンの様に抗争に参加せずに安全地帯から弱者を殴って身を守って来た者もいる。だが、極限にまで縮小されてしまったコミュニティの中に置いて、そう言った者は同胞からも蔑まされ、孤立を余儀無くされていた。

 そんな折り彼なりの負い目も抱えつつも、今回の調査隊へ半ば差し出された形となった。裏を返せば、ユーロンの様な者でも、人手として引き連れなければ成らない程に追い込まれているのであった。

「どうした」

 老婆から身を離したメイファが戻って来た。

「何でもねえよ」

 ユーロンからライゾウへと目を向けたメイファは、小さく溜息を付くとライフルを構え直した。

「行きましょう」

 老婆に見せていた表情は消えていた。

 隊に指示を出すメイファに、ユウキは今の遣り取りが届かなかった事に感謝した。だが直ぐに、その横顔を見て聞こえ無かった振りをしただけだと気付いて悲しくなった。

 遣る瀬無い気持ちを覚え、行く先に不安を感じるとユウキはこれから運命を共にする仲間たちを見回した。

 奇妙な光景である。

 大和、紅蘭共に、正規軍人は幻龍内での抗争により殆ど残っていない。それらの抗争には自国の志を継ぐ民間人の若者も参加していた為に、生き残った者は老人、病人、そして子供である。

 以下の理由から、もはや母国すら存在しておらず、幻龍が一つの国家として機能しなければ人類の滅亡に直結する状況にて、お互いに望むと望まざるに拘わらず受け入れざるを得ない現実があった。

 そこで秩序を守る為に、幻龍のコアへアクセス権を持つ唯一の人物であるレオを筆頭に、双方を束ねる組織が再編成されたのである。煙が出ている爆薬を強引に詰め込んだ形ではあるが、爆発すればすべてが終わってしまう現実が暴発に歯止めをかけていた。

 武装はしているものの、明かに統率の取れていない稚拙な集団であった。顔色の悪い者、怪我をしている者、銃を手に当惑している者など、まともに動ける人間が見当たらない。

 これから向かう未知の恐怖に飲み込まれ、所在なげに黒い影となって右往左往している。調査隊と言えば聞こえは良いが、ただの寄せ集めである残酷な現実である。

 そんな中に異質な存在として紛れているゼロとライゾウの姿は、彼等にとって死神にも守り神にも見えた。

 歩み始めたユウキに、取り巻きの人々から様々な視線が向けられる。怒り、哀しみ、憎しみ。そして僅かばかりの慈悲。

 当たり前だ、と思った。

 ついこの間まで、自分達は戦争をしていたのだ。

 目の前で肉親を殺された者もいるであろう。その無益さを理解していながらも、人類が滅亡する瀬戸際まで血を流す事を止めなかった。

 数十億と言う死者を出し、地球を脱出した宇宙の片隅でも殺し合いを続けていたのである。

 これ以上の愚行が存在し得ようか。

 進み始めたユウキ達の所へ、先程の老婆が近づいた。

「大和の兵士さん」

 シャオと呼ばれた老婆はライゾウの腕を取った。

「お願い、メイを守って下さい。あの子は私の娘も同然。いいえ、私の娘なのよ。こんな事は好きでやっているのではないのよ。本当は優しくて、争いなんて嫌いな子なのよ」

「お前達には紅蘭の英雄かも知れないが、俺達からすれば多くの大和民を殺した許されざる者だ。そんなあいつを何故俺が守らなくては成らない」

 声を上げ様とするユウキをゼロが制止した。何故止める、と言う目にゼロは無言で首を振った。

「あんたが言った通り俺は大和の兵士だ。確かに休戦協定は結んだ。だが、今でも紅蘭の奴等は全員死んで欲しいと思っている。大和の兵士として、あの女を守ってやる義理もなければ理由もない。だが、最終的に俺達を動かすのは誇り高き大和人としての誇りだ。それ以上でも以下でもない」

 ライゾウは邪険にシャオの手を振り払い、マシンガンを担ぎ直すと背を向けた。

「おいライゾウ」

 独り歩を進めるライゾウに追い付こうと駆けだしたユウキは、微かに「有り難う」と言う老婆の声が聞こえた気がして首だけ振り向いた。

 その時には、すでに老婆は人垣に消えていた。

「ライゾウ何であんな事言うのさ、冷たいじゃないか。確かに俺達は敵同士だったかも知れないけど、メイファさんが直接引き金を引いた訳じゃないだろう。それに今はそんな事言ってないで、お互い協力しなきゃ明日にでも死ぬかも知れないのに」

「うるせえ」

 ライゾウはユウキに目もくれず、タバコの煙を吐き出した。

「ひと言〝分かった〟と言えば長々と大和人は何たるか、なんて言い訳をする必要もないだろうに。非効率だ」

 歩調を合わせたゼロがライゾウと並ぶ。

「うるせえ」

 大柄なふたりが持つ壁さながらの背中に、ユウキは何時までも唇を尖らせていた。



 数十名程の調査隊は、薄暗い幻龍の内部を進んでいた。

 現在の幻龍は、居住区とされている中央ターミナルエリア外では電力の供給が不安定の為、空調は淀んで冷え切っている。乾燥した空気に、口元をストールで覆ったユウキが咳き込んだ。

「大丈夫ですか」

 サイと呼ばれている線の細い男が声を掛けた。最後尾で殿を務めるユウキの薄い背中に、そっと手を当てた。

 サイは幻龍の中で数少ない貴重な医師であった。専門は内科であるらしいが、傷病者で溢れている幻龍内ではあらゆる治療を任されている。

 気弱で大人しい人物ではあるが医師としての使命には厚く、大和、紅蘭と区別なく接している。今回も、怪我人が出る可能性があるのなら付いて行くと、危険を承知で同行したのであった。

「有難うございます。先生」

 サイは疲れた笑顔を見せながら、胸を叩くユウキの顔を覗き込んだ。もう片方の手をユウキの頬へ当てると、親指を使って目を広げる。

 縁のない眼鏡から真摯な眼差しが覗く。

「ユウキ君、あまり顔色が良くないね。ちゃんと眠っているかい」

「あまり、眠れません。何か変な夢を見るんです」

「変な夢」

「はい。何と言うか」

 言い淀んだユウキは、前を歩く隊列へ目を向ける。サイは素早く察して歩を緩めると、列から少しだけ距離を取った。

 ゆっくり頷くと、サイは先を促した。

 そんな細やかな心遣いに医者としての志を感じつつ、ユウキは少しだけ頬を赤らめた。

「女の子の夢を見るんです」

「女の子の夢。知っている子かい。それとも、ユウキ君の好きな子の夢なのかい」

「いえ、知らない子です。会った事もありません」

 ユウキは目を反らし、少し小声になった。

「でも、いつも同じ子です。夢の中で、ずっと何かを言いたそうに訴えかけて来て。でも、声は聞こえなくて」

「ふむ」

 サイは顎に手を当てた。

「何時から、その夢を見る様になったのかな」

「幻龍に乗ってから。最初は、ぼんやりした何かだったのだけど、それが人の影になって、何時の間にか女の子の姿に。日に日に存在感が増して、目の前にいるような感じになって。何時も、思い詰めている顔で俺を名前を呼ぶんです」

「不思議な夢だね。何度も同じ夢を見るのなら、何かを暗示しているのかな。残念ながら、私はそっち系は専門ではなくてね」

 そう言うと、サイは少し申し訳なさそうな顔をした。

「今朝も、その夢を見ていて。今までは、その子の心の声が聞こえていたと言うか。でも今朝は、それがはっきりとした声になって聞こえた気がしたんです」

「何と言ったの」

 その声に、ユウキは額の髪を上げて見せた。

「おや、痣が出来ているね」

「その子が何かを言う前に、ベッドから弾き飛ばされて。大切な何かが聞こえた気がしたのに」

「それは気になるね。気になって眠れないけど、眠らないとその夢が見られない。でも、その夢を見ると気になってモヤモヤするか。複雑だね」

 苦笑するサイに揶揄われたと思ったのか、ユウキは眉をひそめた。

「ごめんごめん。それは災難だったね。軟膏でも塗ろうか、ユウキ君」

 サイの言葉に反応し、ユウキに人工的な声が向けられた。

「治療が必要ですか。ユウキ」

 穏やかな声色であった。サイの横を音もなく歩いていた存在が、ユウキに振り返ったのである。

 それは、小柄なユウキより少しだけ背が低く、平均的な女性の身長程である。

 柔らかい眼光を灯した白い人型の二足ドロイドは、シンプルでフラットなフォルムをしていた。外装は特殊シリコンで覆われ、触れると体温を持った人間の肌を感じさせた。

 腕の部分は淡いピンク色をしており、遠目には手袋をしている様にも見える。

「有り難う、ルー。大丈夫だよ」

「畏まりました。御用の際は、お申し付け下さい」

 ユウキの目が和らいだ。口元は隠れているが笑ったのである。

「先生がルーを造ったんですか」

 眠っている患者を起こさない様に、足裏が消音設計になっている。ユウキは、この看護ドロイドの設計者が持つ優しさに触れた気がした。

「まさか。ルーは大戦前に実験的に造られたんだ。私も詳しくは知らない。費用と性能の面で折り合いが付かなくて、あまり製造されなかったらしい。患者と子供からは人気だったから残念がられたみたいだね」

 サイの話が聞こえているのかいないのか、大人しく歩いているルーの横顔にユウキが聞いた。

「ルーは女の子なの」

 ルーは振り返り、ユウキの顔を見ると目が点滅した。人間で言えば、瞬きをした形であろう。数秒そのままでいたが結局、何も答えずに正面に向き直った。

「会話ロボットではないからね。必要以上の受け答えは制限されているんだ」

「何故です。たくさん喋れた方が楽しい気がするけど。技術的には難しくありませんよね」

「そうだね。でも、それは意図した事なんだ」

「敢えて制限をしていると」

「例えばユウキ君。幻龍の中では、もう見る事が出来ないけれど、猫や犬と言った動物が人と同じ様に喋ったらどう感じるかな」

「ネコや犬」

 言われてユウキは想像する。

「マンガみたいですね」

「お腹減った、遊ぼう、くらいなら良いけれど。もっと人間らしく、ユウキ君オデコどうしたの。ああ、寝ぼけてトイレの入口にぶつけたんでしょう。慌てん坊だなあ。何て言い出したらどう思うかな」

「ちょっと嫌かな。煩わしいかも」

「そう。余計な事を言うより、黙っていた方が人間は自分に都合の良い解釈をすると言われていてね。だからこそ、ルーは必要以上には喋らない。その変わり眠る必要がないから、夜中に目が覚めた時でも、手を握りながら傍で見守っていてくれる。言葉より仕草や行動で患者に安心を与えているんだ。その為に、わざわざ全身に通電させて体温を発生させている。つまり温もりだね。人間が何に安心を感じるか、と言う部分を抽出して設計されているんだ」

「弱っている時に、あれこれ喋られたら眠れないか。確かに、誰かさんは触ると冷たいし、理屈っぽくて威圧感もあるし、そんなのに看病されたら逆に具合悪くなりそう」

 ユウキは先頭を歩く大柄な背中に視線を向けると、サイは苦笑した。

「まあ、彼はロボットではないとの事だし。それに、大戦時に産み出された超技術の申し子だ。ルーとは次元の違う存在だよ。どちらが良い悪いではなく、それぞれには役割がある、と言う事かな」

「役割」

 ユウキは、ふと自分が持つ役割、存在理由とは何であろうか、そう自らに疑問を投げかけた。刹那、無限に広がる空間に、二本の光の柱が伸びるている光景が見えた。

 それが何であるか、何の光景なのか、何を暗示しているのか皆目見当も付かない。輪郭を持たない白昼夢の様でもあり、遠い記憶の様でもあった。だが、そんな夢うつつな世界に飛ばされたユウキの意識に、鮮明なる声が響いたのである。

〝ユウキ〟

 聴覚で感じた訳ではない。

 しかしユウキの中へと響き渡った声は、明確な意思と熱量を持って彼の体を震わせた。声帯の代わりに、ユウキを取り囲む空間が声を発したかに思えた。

 ゆっくりとした発音ではあったが、名を呼ぶ声は力強く、そして救いを求めていた。

 理由は分からない。

 ただ、感じたのである。

「誰」

 ユウキは叫び、慌ただしく周囲を見まわした。

 確認しようとする存在が見つからず、ユウキは見る場所を見失うと宙を凝視した。だが、そこには薄暗く、冷たい色をした幻龍の天井だけが広がっていた。

「どうしたんだい」

 サイが驚いた顔をした。

 話の途中で突然に叫び声を上げたら、誰でも驚くであろう。何処かへと跳んだユウキの意識が戻ると、我に返ったユウキは怪訝そうな視線を投げる皆へ両手を向けた。

「ご、ごめん。何でもないよ」

 慌てて取り繕うと顔を赤らめた。

「何だよ。ビビらすなよ」

 嫌な顔をしたユーロンが、ユウキの代わりに後ろにいたルーを蹴っ飛ばした。

「止めろよ。ルーは関係ないだろ」

「こいつの体は蹴った感触が人間に近いんだよ。蹴っても殴っても文句言わねえから面白いぜ。だが、悲鳴を上げないのが残念だな。このポンコツ」

 再び脚を上げる素振りを見せたユーロンに、ユウキがルーの前へと割って入る。

「止めろってば」

「ならお前のケツを出せ」

 見かねたサイが何か言い掛ける前に、ユーロンの体が再び冷たい通路へと転がり、頬が床を擦る音がした。

「何だよ」

 半身を起こしたユーロンだが、自分を蹴ったであろう相手がライゾウだと分かると視線を外して舌打ちをした。

「行くぞ」

 一方のライゾウは、タバコを咥えながらユーロンを見る事もなく言った。

 歩き始めた一行に遅れ、倒れたユーロンを見ていたユウキであったが、サイに促されると小走りで合流した。

 尻を押さえながら起き上がったユーロンは、悪態を付きながら何度も壁を蹴った。

「クソ、クソクソクソ、ふざけんな。どいつもこいつも人を馬鹿にしやがって。ムカつくぜ」

 後ろから聞こえる癇癪に、うんざりした顔でライゾウが溜息と同時に煙を吐き出した。

「あいつを黙らせろ。何で連れて来たんだよ」

「どんな粗忽者であろうと、一応の戦力と成るのなら使わずには居られないのが我々の現状だ。わざわざ説明する必要もないだろう。それに、武器を扱える者なら誰でも良いと言ったのは貴方だ」

 顔色一つ変える事のないメイファに、ライゾウの鼻から再び煙が噴き出された。

「知っているかライゾウ。その昔、地球には機関車と言う煙を出して走る列車が存在したらしい」

 ゼロの複眼が点滅していた。位置計算をしつつ歩くその声色は、至って真面目である。一瞬の間を置いて、冷たい表情であったメイファの口元が緩み、堪らず噴き出した。唇を噛みながら喉を鳴らすメイファの姿は、何時もより幼い。

 鈴音の様なメイファの笑い声に釣られ、周囲の者も思わず破顔した。だが和やかに緩みかけた空気も、無言で睨むライゾウの迫力に一瞬で凍結する。

「ムカつく」

 黙らせろと言わしめたユーロンと同じ悪態を付きながら、ライゾウは不味そうに吸殻を吹き捨てた。

 再びを歩を進める中、不機嫌に立ち上がったユーロンにしわがれた声が掛けられた。

「行こう、若いの」

 老人のウェンである。

「なんだジジイ」

 隊に参加している事は認知していたが、口を聞いた事もない。痩せ細ったウェンに、ユーロンは無遠慮な目を向けた。こんな老人に世話を焼かれ、自分にも相手にも腹が立ったのである。

「お前、何だよそれ」

 不機嫌な顔を隠しもしないユーロンが、ふとウェンが背負った火器とは別に、大事そうに抱えているバックパックに気が付いたのである。

「これかい。これは重火器用のバッテリーだよ」

「はあ。何すんだよ、そんな物」

 資源が枯渇寸前の幻龍では、あらゆるエネルギーが貴重品として扱われている。しかし、中には使用用途のない余分なエネルギーが放置されおり、この重火器用のバッテリーもその一つである。瞬間的に大量のエネルギーを開放する以外に使用出来ない為に、破棄されていた物である。

「爆弾の代わりにするんだよ。これでね、ドカンて」

 ウェンはポケットから通電装置を取り出した。

「何処から持って来たんだよ、そんな物。それに何でそんな事知ってるんだ。お前、料理人だったんだろう」

「料理人の前はね、これでも軍隊に居たんだ。と言っても後方支援だがね。だから武道派ではないが、機械には強いんだよ。英雄が決起した時は、既に老いぼれて居たからね。何かの巡り合わせか、それが今こうして少しでも協力出来る事が嬉しいんだ」

 ウェンは抜けた歯を見せた。

 その笑みは穏やかでもあり、悲しくもあった。

 ユーロンは気味の悪いものを感じて、不機嫌な顔から怪訝な顔へと変化させた。

 そんな遣り取りを複雑な気持ちで見ていたユウキは、隣を歩くサイへ夢の話を続け始めた。

 電力が不安定なのか、住居区とされているターミナルエリアから離れると気温が下がる。白い息をこぼしながら、ユウキは口元のストールを覆い直した。

「先生。夢の話だけど」

 ユウキは言い淀む。

 冷えて来た為か、サイも寒そうに首元を締め直した。だが口調は明るい。

「話してごらんよ。医者にはね、患者のプライバシーを守る守秘義務があるから、誰にも言わないよ」

「患者」

 サイは笑うと、顔の周りに白い息が舞った。

「ごめんごめん、つい。職業病だね。私に話をしに来る人は、みんな何処かしら患っているから」

 目を伏せたユウキは、少し声を押さえた。

「さっき変な声を上げちゃったけど、夢の中で見ていた女の子の声が聞こえたんです。確かに、俺の名前を呼んだんです。はっきり聞こえたから、それで」

「ふむ」

「俺、頭が変になったのかな。聞き間違いとか、聞こえた気がしたとか、そんな感じじゃなかった。外からではなく、体の中から響いて聞こえたんです。体温が伝わるくらいに。本当なんだ嘘じゃないです」

 知らず、ユウキは熱を帯びていた。目を閉じれば、彼女の姿を鮮明に思い描くことが出来る。長く黒い髪の先まで、その息遣いを感じられる程に。

 夢での逢瀬。

 言葉を交わした事もない筈なのに、子供の頃から知っている様な既視感を抱いていた。それ処か、生まれる前より遠い輪廻の彼方から紡がれる絆。自分の半身とも呼べる存在と言えよう。

 しかしながらユウキは心で感じてはいても、輪郭を持たない紐帯の光を言語化する事が出来ない。

「知らない子なのに知っているんです。変なこと言っているかも知れないけど、俺には分かるんです。名前も知らないのに、その子と一緒にいた記憶があるんです。場所も時間も覚えていないけど、あの子が俺で、俺があの子みたいな、お互いが交じっている様な、ええと」

 正確に伝えられないもどかしさと語彙力の欠如に、ユウキは両手で頭を掻きむしる。

 そんな様子を見ていたサイの瞳は静寂で、かつ愁いを帯びていた。そして何かを悟った様に頷くと、口元を綻ばせた。

「大和的だね」

 手を止めてユウキは顔を上げた。

「どういう意味ですか」

「森羅万象。命が永遠に紡がれる輪廻の歴史。小国である大和が、何千年も繁栄を続けて来れた理由の一つだね。大和の人々は自然の恩恵と調和を無意識に受け入れて、それが生活の基礎と成っていたからね。まあ大和人、ええとユウキ君に、私がこんな事を言うのもおこがましいけれど」

「いいえ。続けて下さい」

「命は紡がれ、死んだ魂は自然に返り、巡り巡って再び人として生まれて来る。人と自然は一体であり、あらゆる万物には神、生命が宿る自然賛歌の思想」

「紅蘭は違うんですか」

「紅蘭は広くて大きな国だったけど、殆どの土地は砂漠や荒野ばかり。大和の様に、潤沢な自然の恩恵が受けられなかったんだ」

 彼が何を言わんとしているか測りかね、ユウキは黙ったまま医師の言葉を待った。

「だからね、残念な事に紅蘭は自然と共存する文化や精神が育たなかったんだ。ずっと貧しい時代が続いた為に、残された物を奪い合う歴史が続いてしまった。数百年に及ぶ神礼家の独裁は、確かに国を成長させた。リヴェリア、オウス、そして紅蘭と、世界三大超国家と呼ばれるまでに。でも国としては余りに未熟だった。紅蘭は世界中から様々な物を奪って成長した。金、物、技術、そして人も。でも、払った代償が大き過ぎた」

「その代償って」

 言い掛けてユウキは飲み込んだ。

「勿論、私達も黙って見ていた訳ではないよ。必死に紅蘭の滅亡を防ごうとしたんだ。神礼家は滅んだけれど、叶わなかった。間に合わなかったんだ」

 ユウキはサイの視線を追い、前を歩くメイファの後姿に苦海に溺れる影を見た気がした。もがき苦しむ彼女に、無数の手が泥濘の底へ引き摺り込もうとする光景が浮かび、ユウキは苦しくなった胸を押さえる。

「話が逸れてしまったね。ユウキ君が見ている夢や、言葉に成らない感覚。他者や時間との繋がり方が、きっと他の人より強い為だと僕は診断するよ」

 胸を押さえているユウキにサイは続けた。

「正確には強いのではなく、他人より人間本来の力が残っている、と表現した方がより正確かな」

「人間本来の力。すみません、さっぱり分からないです。俺が原始人みたいな古い人間と言う事ですか」

 サイはユウキの例えに噴出したが、笑いながらも腕を組むと顎に指を当てる。そのまま姿勢良く歩く姿は、医者より教師や学者を連想させた。

「ふむ。あながち間違っていないかも」

 予想外の返答に、ユウキの細い眉がすうっとひそめられた。その顔には不可解である、と書かれている。

「俺、髭も生えないし腕も細いです。誰かの方がずっと近いですよ。がさつで馬鹿力で、原始人と言うより野蛮人で」

 ライゾウが前を向いたままライフルの安全装置に指をかけたのを見て、ユウキは慌てて口を噤んだ。

「ほら、聴覚も人間離れしているんです」

 小声でユウキが言い、互いに目だけで笑う。

「確かに人が文明を築き上げた代償として、肉体的な強さ、視力や聴力である五感の感度を失った部分はあるね。でも私が言いたいのは、より人間の持つ血の記憶。あえて言えば、祈る力と表現しても良いかな」

 瞬間、ユウキは身を固くして視線を泳がせたが、サイはそれに気が付かない振りをした。

「私は、本当は民族学、歴史学者に成りたかったんだ。人が誕生した謎や、どうやって国を作り、そして何を紡いで守って来たのか。人が生きている理由を解明したいと思っていたんだ」

「なのに何故、先生は医者に」

 サイは少し沈黙し、隣を歩くルーの頭を撫でながら独り言の様に答えた。

「目の前で、傷付いている人を放って置けなかったんだ。私達の国は、何時もテロや内乱が絶えなかったからね。罪もない弱者が追いやられ、血を流し苦しんでいた。絶望していた。私は希望を与える事は出来ないけれど、せめて痛みや苦しみだけでも取り除いてあげたい、そう思ったんだ。人には与えられた役割があり、本人が望んでいなくても、その役を演じなくてはならない時があるんだ」

「役割」

 ストールの下で、再びその意味を問う

「そう。戦う者、人を治療する者、希望を与える者。役割は人其々だけれど、だからと言って上手く演じられる事と報われる事とは別問題なんだ。中でも虐げられた人々の光、希望と成る役を与えられた者の苦悩は測り知れない。その肩に民衆の命が乗っていたのだからね」

「メイファさんの事ですか」

「私達は禁忌に手を出さざるを得なかった。そうするしか方法がなかったのだけれど、結果として世界が燃えてしまった」

 サイは答えなかった。

「今、私達がしなくては成らない人類への贖罪は、生き残る事。生き延びる事。命を、人の未来を繋ぐ事。その為には私も、そしてユウキ君も、自分の役割を果たさなくては成らないんだ」

「俺の役割」

「そう。ユウキ君が見ている夢も、その体に流れている血も、大和に取って大切な物だ。幻龍に乗ってから現れた様々な現象は、大和を繋ぐ為にユウキ君の血が目覚めたからだと思うよ」

 足元の先を見ていたユウキは、不安気にサイを見上げた。

「先生は、俺の」

「御免御免。ユウキ君が誰であるか、と言う話ではないんだ。その役割を全うする為にも幻龍の中で生き残った我々は、もはや一滴の血すら失う事は許されない」

「だから、先生も」

「そう。戦力には成れないけれど、何かあった時に少しでも被害を押さえられる様にね。それが私の役割だ」

 サイの話に、ユウキはストールを口元へ撒き直しながら何度も「役割」という言葉を反芻した。



 其々の葛藤を抱え、脆く危うい不安定な一行の足取りは鈍い。空気は淀み、一面の壁は劣化して変色している。光量の落ちた通路は陰惨で、埃が積もる床へ重たい人影が落ちる。

 地球を捨てて逃げた者達への恨みか、冷たい宇宙の箱舟で息絶えた者の後悔か、それらの思念が幻龍の内側より怨讐として腐食させているかに思えた。

 そんな幻龍の最後尾、巨大な格納庫へと続く通路は、二百メートル毎に降ろされている重厚な防護壁を開錠しなくては成らない。その度に、ゼロが手動で防護壁パネルへとアクセスを繰り返す。

「ここを抜ければ、広いエリアに出る」

「一度に全部開かないのかよ」

 パネルに光る指先を当てるゼロの後ろから、ライゾウが不機嫌な顔で文句を言った。

 指を離すと、滑らかとは言い難い動きで防護壁が上昇し始める。停滞していた空気が流れ出すと、冷たい音を響かせた。

「幻龍のマザーシステムへアクセス出来れば可能だろう。だが、現在は必要最低限の稼働だけ残してスリープ中だ」

「起こす事は出来ないの」

 髪を乱す冷たい風に、ユウキはストールの首元を押さえて身を震わせた。

「私の力では難しいな。そもそも安全装置が働いて幻龍のマザーシステムがスリープ状態を続けているんだ。無理矢理起動させても、良い結果には成らないだろう。眠らせているには其れなりの理由があると言う事だ」

「理由って」

 不快な音を立てながら防護壁が開くにつれ、その先には壮絶な光景が姿を表した。

「これだ」

 ゼロは複眼を瞬かせなが親指で指して見せると、ユウキは強い風に弄られながら、目の前に広がった巨大な空間に息を呑んだ。

「なんだ、これ」

 言葉が続かない。

 黒く広がった世界には、体を震わせる低い風音が唸りを上げる。幻龍の船内であると理解していても、光を拒絶する冷たい闇は永遠と地の底まで続いている気持ちにさせるのである。

「デカイ穴だな」

 ユウキが恐々とライゾウの大きな背中から顔を覗かせた。目の前に広がる冷たい闇は、幻龍内に設計された巨大な吹き抜けのフロアではなく穴であると言う。

「これって、もしかして」

 光源が許す限りの境界線を注視すると、確かに暗闇へと続くグラデーションの中に破壊された壁面が確認出来る。

 それらは原型を失うまでに融解し、悲鳴を上げたままの姿で凍り付いていた。折り重なった鋼鉄の屍らは手を繋ぎ、闇を覗く者を引き摺り込もうと冷たい風を吹かしている。轟轟と鳴る風に、焼き尽くされた者達の思念や様を見た気がしてユウキは小さく悲鳴を漏らした。

 ストールで口元を押さえ、後退ろうとした体を大きな手が鷲掴むと強引に前へと突き出した。突然の事に、今度は暗闇に響く大きな悲鳴を上げた。

「ビビってんなよ。行くぞ」

「やめろよライゾウ。危ないだろ」

 動揺して体を踊らせるユウキを、ライゾウが邪険に押し出して強引に歩を進める。足元は十数メートルも先まで続いており、間違っても踏み外して落ちる事はない。だが暗い空間が巨大過ぎる為、視覚的に吸い込まれそうな錯覚を覚える。

 元々は広い格納庫やターミナルエリアがあった場所と思われ、それら区画の床や天井が何層にも抜け落ちてしまったかに見える。重厚だが圧迫感のある通路から解放されたものの、今度は闇の端に溶解した床や柵が広がり、あらゆる存在が活動を停止した墓場へと放り出された気分であった。

「やめろってば」

 血行の良くない顔をさらに白くして怒るユウキを、ライゾウはまるで見えていない素振りで強靭な体躯をぶつけ歩く。

「そのまま左だユウキ。迂回して、この穴の向こう側まで行かなくては成らない」

 周囲を見回しながら、位置情報と距離の計算の為に複眼を点滅させながらゼロが言う。先頭のゼロとライゾウが進むと、調査隊の一行は強風に弄られながらシャッターを潜り始めた。

 冷や汗を浮かべ、壁に手を付きながら進むユウキの横を「押すなよ、やめろってば」とユーロンが揶揄いながら通り過ぎた。

 ユウキと言えば、そんなユーロンに腹を立てる余裕もない。意識は完全に闇へと飲み込まれ、歩を進める脚にも力が入らない。流石にライゾウが気に留めて目を細めた時、ユウキの肩に柔らかな手が当てられた。

「どうしたユウキ。何をそんなに怯えている」

 我に返ったユウキは慌てて振り返り、メイファの眼差しに緊張が解けると大きな溜息を吐いた。

 胸に手を当てながら呼吸を整える。

「済みません、もう大丈夫です」

 メイファの瞳により解放されたものの、今度は何かを見透かすその瞳から逃れ様と身を固くした。そしてメイファが口を開く前に軽く一礼すると、先頭の二人の所まで駈けて行った。

「サイ」

 ユウキの後姿を見ながらメイファが言う。

 メイファの横へ追いついたサイも、彼女の視線を追ってユウキの薄い背中に目を向けていた。サイはユウキから右舷に広がる闇を見上げ、最後にメイファへと顔を向けた。

「ユウキと何を話していた」

 メイファの言葉に、サイは隣を静かに歩くルーの頭を撫でた。ルーは反応すると、無言で柔らかな光の目を向けた。

「患者への守秘義務の為、回答出来ません」

 サイの口元には僅かな笑みが浮かんでいる。

 メイファは一度瞬きをすると、歩きながら正面に向き直った。表情に変化はなかったが気を悪くした様子でもない。

 二人は暫し無言で歩いていたが、根負けしたのかサイが独り言の様に話し始めた。

「大和人は五感は元より、目に見えない何かを感じる能力が発達していると感じています。それは大和人が特別な訳ではなく、大和の国が持つ文化や環境により幼少の頃から培われた能力であると推測します」

 サイは医師としての守秘義務に従い、直接ユウキに触れる事はなかった。

「人間本来の力を失わずにいる、と表現した方が正しいかもしれません。勿論、大和に根付いている自然崇拝から派生した祈りの文化により、研磨され感度が高められた部分もあるでしょう」

「紅蘭とてかつては大和と血を分けた姉妹で有ろうに。業により高貴さの義務を否定した者の罪か」

「神礼家の罪です」

 横目でメイファを見ると、サイはお道化て肩を竦めた。

「以前なら、こんな事は冗談でも言えませんでした。すべては神礼家の呪縛を解いた英雄のお陰です」

「辛辣ね。人の尊厳を失って死ぬくらいなら、民衆は自由を失っても業に守られる道を選ぶだろう、と誰かにも皮肉を言われたのだ」

「皮肉では有りません」

 冷たい足音が響く中、両者は自然と声を落とした。

「紅蘭を解放へ向かわせたのは民衆の大いなる意思です。自由を求める心が英雄を生んだのです。その様な意味で言えば、紅蘭の英雄にも人の願いを具現化する力を持っていたのでしょう」

 メイファは頬にかかる黒髪の隙間から、視界の半分を覆う闇に目を向けた。

「これが大い成る力が求めた結果であるのなら、私は民衆の自由を履き違えていた。私達は、開かれている筈の世界に取り残されてしまった。高貴さの義務を笑った私が、今では笑われる立場だ」

「人類の歴史の中で、事を成し終えた英雄は時として無力感に悩まされると聞きます。何も変わらなかったと。しかし、それは役割の違いなのです」

「役割」

「そうです。門を開いた後は、流れ出た水が未来を決めます。川と成るのか池と成るのか。それは門を開いた者ではなく、流れ行く水が求めた未来なのです」

「歴史学者の様だな」

 既視感にサイは無言で頬を緩めた。

「しかし、サイ。流れ出た水も、もはや干上がろうとしている。この絶望に満たされた船の中で、私達は余りに無力だ。憤りに散った大地に手を置く事も許されぬのであれば、死ぬ尊厳すら許されぬ」

「炎に焼かれ、腐敗して倒れた大樹から新たな芽が生まれる。それが世の理。私は、輪廻の鱗片を感じました。その小さな芽が生き残ったのは、命を紡ぐ為に人類の大いなる意思によって守られたのだと」

 メイファの脳裏には何が浮かんでいるのであろうか。静かに首を振ると、胸元の黒髪が揺れた。

「サイは医師で歴史学者であり、宗学者でもあるのだな。そんなお前には、彼の中に何が見えている」

「一滴の涙かもしれません。しかし、灰の中で輝きを増し、やがて母なる海へと帰るでしょう。そこから、また新たな未来が生まれるのです」

 伏し目がちに黒く濡れたメイファの瞳は、暗い箱舟から遠く離れ、時間すらも越えた郷里を見ているかに思えた。視線を戻す事なく、多才な医師に向かって静かに言う。

「詩人でもあるのだな」

「すべての学問は、人の内なる衝動に回帰するものです」

 遠くを見ていたメイファは、ゆっくりとサイの横顔を捉えると艶やかな瞳の温度が冷えた様に見えた。

「サイ。紅蘭と大和の血が流れているお前には、両国を俯瞰する目がある。知は人を救う。だが、その過去より受け継いだ恩恵の下に何を隠している」

 サイは曇った眼鏡を外すと、曲がったフレームを調整する。英知を極めた文明が自らの尾を喰らい、人類の生存環境が原始へと巻き戻された証明である。

 視力が悪く、眼鏡を外したサイの目が細められた。物静かではあるが、その横顔には他者の血から染み付いた影が落ちている。

「買い被りです。そんな上等な人間では有りません。私も抗えない世界の業に飲み込まれ、右往左往していただけのひとりです。ただ」

 掛け直した眼鏡の下に、僅かな光が戻る。

「ただ、信じているだけです。祈りと言い換えても良いかもしれません。原始的な生存本能とも、信仰心を持ち得た人間だからこその神事とも言えるでしょう」

 メイファは暫し無言を保ち、彼の言葉を反芻しているかに見えた。誰にも分からない程、微かに首を振った。

「祈りか」

 メイファの呟きは髪を揺らす風に飲み込まれた。



 体を震わせる風の唸りは、死者の呻きに聞こえる。

 血の気が引いたままの頬で、ユウキは視線を忙しなく飛ばしていた。横手に広がる闇が、何時自分を引き込みに来るのかと不安に駆られているだ。

「それにしても、凄いな」

 そんなユウキの心情とは裏腹に、ゼロは暗闇を見上げながら落ち着いた声で複眼を光らせる。

「な、なにが」

 ゼロが新たな不安材料でも発見したのかと、ユウキは目を泳がせながら聞いた。ゼロは聞こえているのかいないのか、首を廻らせると側頭部に手を当てた。

「幻龍が一万メートルを越える超大型船であったとは言え、地球の裏側にいたホライゾン・イーグルは見事に撃ち抜いた。その性能には驚嘆するばかりだ」

「感心する所かよ」

 ライゾウが不味そうに煙を吐き出した。

「索敵能力、大気や重力の影響を計算した狙撃能力。そして、数千キロ離れていても幻龍のシールドを突き破るエクサロン・ビームのエネルギーに、その照射に耐えうる機体性能。どれを取っても人類が手にした禁忌、まさに神の力だ」

 広がる闇に、発する事も出来無かった者達の悲鳴が木霊した様で、ユウキは体を震わせると両肩を抱いた。

「ラ、ライゾウの言う通りだよ、何を言っているのさゼロ。あいつに世界は焼かれたんだ。あいつのせいで」

「技術の話だ、ユウキ」

 ゼロが振り返るとユウキを見下ろした。薄暗い空間に光る超技術の申し子が持つ眼光は、医療ドロイドであるルーの人工的な光とは似て非なる温かさを含んでいる。

 ユウキの目に浮かぶ隈が濃くなったかに見える。若き肉体と言えど心身の疲労が蓄積していた。しかし、自覚はなくともユウキの瞳は希望の光だけは保ち続けている。

 何が彼の輝きを保ち続けているのか、本人すら分らぬ事が他人に汲み取れる理由もない。

「そんなホライゾン・イーグルもさる事ながら、幻龍もしかりだ。一万メートルの船を浮かし、エクサロン・ビームの直撃に耐えながら光速潜航を三年半継続した。経済力は三大超大国だったとは言え、紅蘭は何時からこんな船を建造出来る様に成ったのか」

 重たい足取りで進む一行は押し黙り、誰とは無しに先頭を歩くゼロ達の話を聞いていた。メイファもしかり、ゼロの言葉に瞳の温度が下がる。

「何が言いたい、ゼロ」

 その声色にゼロの複眼が瞬くと、同じセリフを繰り返した。

「技術の話だ、メイファ。政治的な話は避けられないが、私は純粋に疑問なのだ。先の条件をクリアし、これ程の巨大船を動かすには天文単位に届く莫大なエネルギーが必要だ。唯一これらを可能にするには新羅システム以外に考えられない」

「何処かの国がフジワラ研究所を襲撃して、森羅システムのデータを盗もうとしたからな。それが大戦の切っ掛けと成るとは迷惑な話だ」

 ライゾウの白々しい独り言に、メイファの瞳が細められた。そこへ、ゼロは顔を前に向けたまま背中のふたりに向け〝私の話はまだ終わっていない〟と人差し指を立てた。

「だが、ホライゾン・イーグルを中心に広がった大戦により世界は瞬く間に崩壊した。当時、紅蘭が森羅システムのデータを入手して居たとしても、完成させる時間も余裕もなかった筈だ。そして森羅システムのみならず、この幻龍もだ。世界が疲弊し泥沼の滅亡へ雪崩れ込んでいた矢先に、人類生存の希望として突如現れた外宇宙探査移住船・幻龍。出来過ぎだと思わないか」

 周囲の誰かに説いた訳でもないが、役割柄かメイファがゼロの背中へと答える形と成った。

「幻龍は神礼家が秘密裏に開発していた船だ。公には出来ない経緯もあるだろう。私とて神礼家の中で何が画策されていたかまでは分からない。大戦中にも噂は流れていたが、明確な情報を得た時既に幻龍は建造を終えていたのだ。誰が設計し、どの様な技術で造られたかなどは不明だ。すべて燃えてしまったからな」

 メイファは少し声を押さえると先を続けた。

「例え、それら幻龍の情報を知っていたとしても話す事は出来ないのであろう。私達に開示の必要が無いと判断されたのなら求めても無駄だ」

「あいつは秘密主義者だからな」

 鼻で笑ったライゾウにメイファは答えなかった。

 沈黙の後、一行が衝撃で捻じ曲がった形で開かれていた防護壁を抜けると、暗い視界に変化が現れた。

 溶解した巨大な闇はビームが届かなかった区画まで進むと収束を見せ、通路としての秩序が回復し始めた。壁や床などが本来の姿を取り戻し、断線を免れた安全灯により足元には僅かな灯りが見える。

 それでも後方の闇からは未だ魂を鷲頭噛む冷たい風が鳴り響き、肩越しに暗闇へと視線を向けたユウキは死者の残滓を払う様に頭を振った。

 つい意識を持って行かれる闇から目を離すと、ユウキはゼロの背中越しに出現した新たな防護壁を見上げた。

「さて、ここを抜ければ幻龍の最後尾、謎の物体が衝突した貨物エリアに入る」

 ホライゾン・イーグルが放ったエクサロン・ビームが直撃した際に、危険を感知して降ろされた防護壁は幻龍の最後尾へと続く接続通路を暗い重圧で遮断していた。

 最後尾かつ船の外部へと繋がるエリアである為に、今まで抜けて来た防護壁より厳重な設計と成っている。防護壁を施錠する数本の鉄柱が、厚さを増した防護壁と絡み合いすべての侵入者を拒む意思を見せていた。

 寒さと死への恐怖、そして抱えた銃器の重さに疲弊していた一行はゼロの言葉に身を固くした。

 幻龍に起きた異常を調査する、と言う散漫なイメージが突然に現実として襲い掛かって来たのである。もはや彼等は自分だけの命ではなく、一人一人の生存が人類の行く末を左右する使命を背負わされている。

 恐怖と疲弊、責任と贖罪が抱え切れない重圧として心身を縛り付けた。誰もが防護壁の先に蠢く、見えない筈の絶望なる象徴に喉を握られた時、ユウキが沈黙を引き裂いた。

「ああ」

 突然の悲鳴に、ゼロが開錠パネルから指を離す。

 抱えていたマシンガンの重さに耐えられなくなった様に、腰が抜けた姿勢で冷たい床へ尻を付いた。血の気の引いた顔は白く、視線は立ち塞がる防護壁の向こうを凝視していた。

 その場にいた全員が、後ろに倒れ込んだユウキに不安と奇異なる目を向けた。そんな中でもサイが駆け寄り、膝を付くと後ろから両肩へ手を当てた。

「どうしたんだいユウキ君」

「あ、あ」

 忙しなく脚を動かすユウキは、反射的に何かから逃げようしている様子である。だが力が入らずブーツが床を擦る音だけが繰り返される。

「今度は何だ、急に馬鹿にでも成ったか」

 介抱するサイの手を払い、ユウキの襟首を掴むとライゾウは凄まじい腕力で持ち上げた。自分の脚で立たせ様とするが、未だに放心したまま言葉が出ない。

 何かに意識を奪われているユウキの様子に、ライゾウは声を落とすと顔を近付けた。

「落ち着けユウキ」

 そんなふたりの後ろで、メイファは防護壁の先を見ながら落ち着いた動作でライフルの安全装置を外す。続けて片手を上げると、後方に並んでいた者達が慌てて肩から銃を降ろした。ユウキから派生した緊張が伝染し、寄せ集めの調査隊は浮足立っている。

 メイファは小声でサイとルーを下がらせる。

「落ち着け。何か見えたのか」

 再びライゾウが静かに問う。

 冷や汗を浮かべたユウキは、遠くを見つめたまま抱えているマシンガンを震わせている。だが彼なりの使命感であろうか、懸命にライゾウの言葉に答える為に何度も首を縦に振った。

「何が見えた。感じたまま言ってみろ」

 何度も唾を飲み込みながら頷くユウキに、ライゾウの声色も真剣である。彼自身も先程から肌が焼ける程の危険を嗅ぎ取っていた。

 反射的に防護壁に背中を付けたゼロは、マシンガンを構えながら側頭部に手を当てると複眼を瞬かせた。

「い、いる」

 目の前に突き付けられたライゾウの顔は見えておらず、ユウキは防護壁の向こうに蠢く存在に意識を奪われている。

「何がいるんだ。生物なのか。数と大きさは分かるか」

 ユウキを持ち上げながら粘り強くライゾウが問う。時折、発作の様にユウキが見せる反応に、ライゾウは少なからず信用を置いていた。

 ライゾウ自ら戦場で生き残る為に磨かれた生存本能、第六感とも呼べる力に何度も窮地を切り抜けたのである。これらの経験則から、ユウキと同様に背中から突き上げられる禍々しい圧力を感じていた。またユウキに限っては殆ど戦闘経験もない子供であるにも関わらず、誰よりも異変に対する反応が高い。

 それが幻龍の中で開花した物なのか、生まれ持った能力なのかは分からない。しかし極端に情報が少ない現状では、そんな目に見えない曖昧な「何か」で有っても自分の身を守る事に繋がると、ライゾウは身を持って体験しているのである。

 生存への道に繋がるのなら、頼りない糸でも構わない。何かを感じているユウキから少しでも情報を引き出したい。ライゾウは酒瓶から最後の一滴を絞り出す様にユウキを振った。

 一方のユウキはライゾウに持ち上げられるままに手足を弛緩させ、ブーツの爪先が床を擦る。大量の冷や汗を流しながら、懸命に自らの感じている恐怖を言語化しようとしていた。

「ヤ、ヤバイのが居る。デカクて、ヤバイのがひとつ」

 お粗末で要領を得ない答えであったが、ライゾウはユウキの視線を追って防護壁の向こうを睨み付けた。

「他に何か感じるか」

「あ、あ。分からない分からないけど。ウロウロして何かを探している、みたい」

 ライゾウは視線をゼロへと移した。

「ゼロどうだ」

 情報を得ようと複眼を瞬かせていたゼロが、側頭部から手を離すと首を振った。

「私の能力では、この距離からは何も感知出来ない。最後尾にある格納庫は、この防護壁を抜けた先だ。格納庫は上下数フロアに跨った広大な範囲になる。そこからピンポイントで目標を探し当てる事は難しい」

「そうか」

 逆に言えば、そんな状況で異変に気が付いたユウキの能力は称賛される筈なのだが、それ以上情報が引き出せないと分かるとライゾウは無造作に手を離した。床に転がったユウキを背に、ライゾウがタバコを咥えながらメイファへと顔を向けた。

「だそうだ。どうする」

「決まっている。時間が経過するほど状況は悪く成る一方だ。このまま死に絶えるか、自分達の手で生き残る道を切り開くか。我々に選択の余地はないのだから進むしかない」

 そう答えたメイファは、奇異ではあるが好奇も含めた視線をライゾウの背中に向けていた。その視線をライゾウが追うと、ユウキの様子に変化が表れていた。

「そうだ」

 冷や汗を流し、弛緩して床に転がっていたはずのユウキが突然に頭を上げた。

「その通りだね」

 手を付いて半身を起こした顔には、闇に抗う明確な意思が見て取れた。若者に与えられた希望を信じる目である。

 宙に力強い眼差しを放ち、耳を澄ましている。

「そう、進むしかない。すぐに行くから待っていて」

 不安に怯えていた表情は消え、絶対的な加護による勇気が溢れている。細くとも鉄壁の意思により支えられた脚は、冷たい床を踏み絞めていた。

「俺が、必ず助けに行くから」

 見えずとも、繋いだ手の暖かさの記憶を持つ者に向けてユウキは顔を上げた。

「何だあいつ。さっきから泣いたり倒れたり、かと思えば急に立ち上がって独り言とか。本当に」

 頭を指しながら指をクルクルと回したユーロンであるが、毒舌は不発に終わった。ユウキを揶揄う気持ちより気味の悪さが勝ってしまったのである。

 激しく情緒が揺れ動き、見えない存在と言葉を交わしているユウキの姿は確かに奇妙である。ユーロンの様に直接言葉にせずとも、彼に対して同じ気持ちを持った者は多い。

 だが、ユウキの目を覗き込んだライゾウは少しばかり感心した表情で眉を上げた。

「何を感じて誰と話しているかは知らんが、どうやら弱虫殿の腹は決まった様だ」

 言葉ほど馬鹿にしている声色でもない。

「決まりだ」

 未だ震えてはいるが力強くマシンガンを抱えたユウキに、その様子を注視していたメイファもゼロへ頷いて見せた。

 死線を潜り抜けた者同士の間に、何かしらの意思疎通が見て取れる。一瞬の躊躇いが生死を左右する戦場にて、細々と理由を説明していては生き残れない。

 ユウキが示した言語を越えた〝勘〟とも呼べる情報から、彼等は同一の回答と行動指針を得たのである。

 取り残されたのは他の者達であった。命を落とすかもしれぬ緊張状態の中で、目前で摩訶不思議な舞台を見せられ勝手に話が進んでいるのである。

 何が起きているのか理解も出来ず、説明もないまま最後の扉が開かれ様としている。

「おい、ちょっと」

 視線慌しく、確認を得ようとしたユーロンの声は黙殺された。

 地獄への入口か、希望へと階段か。

 無情にもゼロの指先に拠って最後の防護壁が解放される。凍結されていた時間、思念、そして夢を引き千切りながら深層部へと繋がる闇が口を開けた。


「おい」

 ユーロンが繰り返す。

「何がどうなってるんだよメイファ。説明くらいしろよ」

 ゼロが得た情報通り、防護壁の先は数百メートルの直線の通路であった。足元の頼りない誘導灯に、各々が身に着けたライトが混ざり合う。

 それでも格納庫へと繋がる巨大な通路を照らすには光量が足りない。電力が生きているセンターターミナルエリアから離れ、幻龍の最後尾とも成ると空調の機能もより低下する。黴臭い空気が酸素不足を感じさせ不安を煽る。

「黙って付いて来い。作戦は単純だ。これから接触するであろう敵を排除する。其れだけだ」

 何度目かのユーロンの問いにメイファが短く答えた。

 細かい状況説明を得られない事にユーロンは口元を曲げたが、結局何も言わなかった。その顔は青褪めている。

 彼女も余裕がないのが正直な所である。

 自分達が巻き込まれている現在の状況が、人類の明暗を分ける危機的状況である事を正確に把握している者が居るであろうか。

 ユウキ程ではないにしろ、先頭を進むゼロやライゾウ、メイファなど極限状態にて生存本能を磨き上げた者達も明らかな異変を感じ取っていた。

 今まで感じた殺気や敵意、そのどれにも属さない異質な圧力である。

「成程」

 通路の先が暗闇に飲み込まれていた。

 正確には格納庫内の光が足りず、暗い壁に突き当たった様に見えたのである。それだけに目前に広がる格納庫の規模を物語っていた。

「ユウキの言う通り、何かヤバイのが居るな」

 ゼロが側頭部を押さえた。

「もう少し具体的な情報はないのかよ」

 ライゾウは対になる形で、格納庫へ繋がる通路の壁に背を付けたゼロへ言う。

「実に妙だな。何かしらの物体反応はあるが明確なデータが返って来ない。情報が乱反射している」

 断続的に複眼を点滅させるゼロの隣にメイファが位置し、ライゾウの後ろにユウキが追い付いた。

「何か感じるか」

 恐怖に立ち向かう意思は力強い眼差しと成り精悍な顔付きへと変えているが、肉体的な圧力は生理現象としてユウキを苦しめていた。

 ストール越しに手で口を押さえると、繰り返す吐き気を堪えている。敏感な故の欠点である。

「何か、凄くイライラしてる」

 喉を押さえるとユウキは顔をしかめた。

「喉が乾いている感じ」

 首を振ると取り消した。

「違う。喉の渇きじゃなくて空腹感。いや、それも違う。もっと激しい餓え、餓鬼感」

 堪らず、ユウキは屈み込むとライゾウの足元へ嘔吐した。

 列の後方から「体調が悪いのですか、ユウキ」とルーの優しい声が響いた。声帯がある訳ではないが、サイがそっとルーの口に手を当てた。

「どうやら、腹を空かせた原始的な生き物がいるらしいな。生物なのにジャミングしているのか」

〝なまもの〟と表現したライゾウは、ユウキの吐瀉物を避ける為に片足を上げると、首を出して格納庫内を覗き見た。

「武装しているのか、それとも生物と機械のハイブリットなのか。もしくはサイキック能力か。目的も正体も分からないのであれば作戦も立てられんな」

 索敵を諦めたのか、ゼロが頭部から手を離すとマシンガンを構え直した。その後ろからメイファが言う。

「正体が何であれ、私達の命を脅かす存在なら排除するまでだ。幻龍を突き破って侵入して来たからには物理法則までは逆らえない証拠だ。常識を超越する存在であろうと、直接攻撃が有効なら問題あるまい」

「いささか性急だが、メイファの意見に概ね同意する。仮に異星文明が存在するとして、政治的懸念に配慮している間に地球人が滅亡する恐れがある。そもそも意思疎通が可能かも不明だ」

 目前に広がる暗い格納庫に向けて、索敵を暗視カメラに切り替えたゼロが答えた。

「友好関係を結びたい奴が、船の装甲を突き破って挨拶に来る訳ないだろう。外敵が侵入したのなら早目に潰す。時間が経つと碌な事に成らないからな。正体や目的を調べるのは土左衛門にしてからだ」

 格納庫から首を戻すと、ライゾウは一度咥えたタバコを苛立たし気に胸ポケットへと仕舞った。

「死体は、喋らないじゃないか」

 すべて吐き切ったユウキが、壁に手を付きながら立ち上がった。顔は青白いが闘志は失われていない。

「お子様には難しいユーモアだったか」

「子供扱いするな」

 強がりに軽口を叩くも、ユウキは苦しそうにストールに冷や汗の染みを広げていた。他の大人達は恐怖を感じてはいるが動きに固さはない。兵士として呼吸の整え方を熟知している違いであった。

 ゼロに限っては汗を流す肉体を持っていない為に、常に沈着冷静な様子に映る。内心はどうあれ、彼の落ち着き振りがライゾウらの覇気に一役買っている事は確かである。

「それで、どうする隊長殿」

 ライゾウの言葉に、メイファはゼロの肩越しに格納庫を覗き込む。携帯するライトに首元から横顔までが白く浮かび上がる。

 メイファは細い二本指で大柄なふたりを指差した。血生臭い空気が漂っている中でも、豊かな黒髪から覗く瞳が艶めかしい。

「ゼロとライゾウは先頭で左右を頼む。私の後ろにユーロン、他はそのまま続け。サイの後ろにユウキ、最後尾を守れ」

 それぞれの意味は正反対であるが、ユウキとユーロンが納得出来ない顔を上げた。

「ユウキ、命令は絶対だ。隊が機能しないと全滅する」

「俺は彼女を」

 何時もであれば舌打ちする所であるが、ライゾウは背中越しに根気良く言い聞かせる。

「その彼女は何処にいる」

「それは」

「お前の感じている何かを、妄想や勘違いだと言う気はない。だが彼女とやらを助けるにしても、まずはこの中に居るヤバイ奴を何とかしないと捜索も出来ない。仮に、そのふたつに関連性が有ったとしてもだ」

 振り返るとライゾウは真剣な表情を見せた。過去に散った戦友らの魂が、顔の傷を通して語り掛けている。

「隊の背中を守る重要性を理解しろ」

 ユウキは気付きを得てメイファへ顔を向けた。

「頼む」

 静かに頷いたメイファに、ユウキは自分の頬を叩くと隊の最後尾へと駆けて行く。傍に来た自分を心配したルーの頭を撫でると、ユウキは先頭に向かって頷き返した。

 全員の位置を確認したメイファは、大和の武人達へ合図を送った。

「行くぞ」

 ゼロとライゾウは、音も無く格納庫へ進み出た。



 黒い異物が聳えていた。

「何、あれ」

 そう言った切り、ユウキを含めた誰もが黒い脅威に言葉を封じられた。

 格納庫は各エリアに設置された運搬口を表示する灯りの為に、断続的に暗く緑色に浮かび上がっている。

 首が痛くなる程の上層階。そして足が竦む程の地下までが、一つのフロアとして広大な吹き抜け構造と成っている。何千何万、何十万本もの支柱が重なり合い、運搬エレベーターやダクトが人体の神経細胞の様に無限に張り巡らされている。

 運び込まれたコンテナや資材は、乱雑な黒い影を落としながら視界を埋め尽くしている。視界の許す限りに連なるそれらは規格も大きさも統一されずに押し込まれ、過剰分は収納エリアを越えて落下していた。

 無様に変形し、体内の資材を吐き出しながら冷たい亡骸として横たわる様は、地球を離れる際の混乱を雄弁に物語っていた。無秩序と言う暴風雨に掻き回された格納庫は、今は混乱の残滓を沈黙に変えている。

 そんな埃を被った色褪せた世界に、それは余りに異質な存在として黒々と鈍い光を反射させていた。

 太い支柱を圧し折り、何本ものダクトがあらぬ方向へと捻じ曲がっている。周囲のコンテナを吹き飛ばし、厚い壁面を突き破り階下まで貫通した形で制止している。

 その長く巨大な三角錐は、数多の魂を沈黙に拠って眠らせていた聖域を蹂躙している。文字も細かい部品も存在せず、ただ無機質な黒い影が圧倒的な質量を持って襲い掛かって来る。

 絶望。

 慟哭。

 憤怒。

 眠りを邪魔された罪なき魂が寄り集まり、重たい瘴気として黒き侵入者を取り囲む。それらの思念が場を支配して、見る者の胸内を締め上げた。その光景に脚が動かなくなった者も居た。

 ゼロは目前の暴君から対象を変更し、侵入経路に向かって顔を上げた。格納庫の最上部を抜けてなお、幻龍の外装甲まで続いている穴は黒く染まり先が見えない。

 人智の理解を越えた現実に何かしらの答えを求めたのであろう、顔を戻したゼロへ周囲の視線が集まった。

「何か解ったか」

 ライゾウが沈黙の圧力を破る。

「そうだな。何も解らない事が解った」

「こんな時に禅問答かよ」

 火が点けられていないタバコが、ライゾウの口元で揺れる。

 言葉とは裏腹にライゾウの目は獲物を追う獣の様な光を放ち、全身の神経を研ぎ澄ましていた。

「私の観測では何もデータは取れなかったが、謎の侵入者が〝あれ〟に乗って来た事だけは確かだ。形状などから予測するに偶然衝突した隕石などではない。ライゾウの言う通り、明らかに強襲突入用に開発された軍事兵器で間違いないだろう」

「問題は」

 メイファが黒い目標から視線を外すと、周囲に広がる闇へと視線を走らせた。

「今は、あれが只の乗り物でしかない、と言う事だ」

 その言葉に、ユウキは弾かれた様に顔を上げた。

 目の前で強烈に威圧して来る黒い物体は、すでに主を解き放った後の残骸である。

 存在その物に目を奪われていたが、細部に注視すると突入時に切り離されたのか三角錐の底である〝蓋〟が見当たらない。そして本体部分の外装は、百合の花が開いた様に三方向に広がって開放されていた。

 黒い鋼鉄の殻から抜け出した主は、姿は見えずとも圧倒的な不快感を持って場を支配していた。冷たく溶けた鉛を飲まされたかに思える主の残滓に、全員が沈黙の底で息を殺していた時である。

「居る」

 小さく絞り出したユウキの言葉に、前衛の戦士達が振り返った。ユウキは遠目でも視認出来る冷や汗を浮かべ、その表情は再び嘔吐しそうに蒼白である。

「何処だ。方向だけでも教えろ」

 唾を飲み込むとユウキの視線はライゾウの背中を通り越し、格納庫の奥へと流れて上昇した。

「上の方。こっちに降りて来てる」

 ユウキは見えない圧力に押されて腰を落としたが、それでも震える両脚を叱り付けながら睨み付けている。

 その視線を追った先は、無数の支柱が絡み合った闇が続く。大量に放置された資材の隙間を縫い、上層部まで続く吹き抜けが不気味な唸りを上げている。

 冷たく広がる闇に意識を吸い込まれそうに成った時、重たい衝撃音が響いた。

 それは何度も反射して見上げる者達の心を切り刻む。何かを破壊するかの衝撃音は次第に大きく成り、明らかに両脚を通して揺れが伝わって来る。

「おい冗談だろ、逃げようぜ。何だか解らないのと戦って死ぬなんて、御免だぜ俺は」

 ユーロンは銃口を向けてはいるものの、腰に力が入っていない。それは本来、兵士ではない者達の代弁でもあるのだが、メイファの答えは取り付く島もない。

「この幻龍の中で何処へ逃げる。早めに対処しなければ、時間が経つ程に状況は悪くなるぞ」

「何でだよ」

「弾薬も人も限りが有る。誰かが死ねば火器を扱える者が減る。弾が無くなれば素手で戦う羽目に成るわ」

 言われ、ユーロンは目だけで全員を見回した。

 大和の歴戦兵であるライゾウとゼロ。紅蘭ではメイファと、昔は軍務に就いていたと言う老人のフェン。

 彼等を抜かした他の二十名弱の隊員は、殆ど戦闘経験のない素人である。サイとルーに限っては武装すらしていない。

 中には体格の良い紅蘭の壮年者もいたが、今にも泣き出しそうなで表情でマシンガンを構えており、戦力としては期待出来ない。

「冗談だろ」

 絶望に吐き捨てると、頭上に更なる振動が響いた。

 ユーロンを始めとする戦闘経験のない者達は、顔面を蒼白に染めながら頭上の脅威に打ち震えていた。人間側の都合などお構い無しに、残酷な現実が降り掛かろうとしている。

 ゼロが側頭部を押さえた。

「大きいな。ユウキの言う通り明らかに我々の存在を認識し、こちらへ向かって来ている。降りていると言うより落下に近い速度だ」

 彼等の頭上に遠く、格納庫へ低い音が漂い始めていた。断続的に大質量を予測させる振動が重なり、恐怖の足音として打ち鳴らされている。

 吐く息が白い。

 震える程の寒さであるにもかかわらず、彼等は吹き出る冷や汗に首元のジャケットが変色していた。

「蛸脚か脳味噌型か、それとも昆虫型か。どんな生物かは知らんが、簀巻きにして宇宙へ投げ込んでやるぜ」

 ライゾウがタバコを咥えながら闇を見上げる。タバコには未だ火が着いていない。

「残響音からして軟体系ではない様だ。単体で突入させるからには、少なからず物理攻撃による耐久性が考えられるだろう。そして攻撃手段は近距離格闘か、それとも遠距離からの火炎か雷撃か。あるいは強力な酸かも知れない」

「超技術ドロイドの予想が幼稚園児並みとはな」

「私は人間だ」

 鼻で笑ったライゾウの目が細められると、反響している音が鈍くなる。格納庫の上方、吹き抜ける空気を何かが遮ったのだ。

「来るぞ」

 ライフルを構えたライゾウが、トリガーに指を掛けた時である。

 今迄とは比べ物にならない衝撃が全身を貫いた。

 彼等の目前に連なったコンテナが、頭上より落下した存在に押し潰された。収納資材が爆散し、金属壁が紙の様に折れ曲がり天井付近まで吹き飛ばされた。

 格納庫全体が軋み、圧壊したコンテナが押し込まれると圧力に負けた床面が捲れ上がる。体が浮き上がる揺れが人間達を襲い、粉砕された資材が爆風を伴って四散する。

 体勢を崩す事も無く、視界を庇いながら銃口を向けていたライゾウは、何かに気が付き発砲寸前で指を止めた。

「ゼロ」

 叫ぶライゾウに、既にその意図を理解したゼロが粉塵に隠れる生体反応を観測していた。

 後方に並ぶ一行が、心理的、物理的にも受けた激しい衝撃から動揺を隠せずにいる所へ、新たな衝撃が襲う。

 高質量を持つ存在が破片を空中へと撒き上がらせ、それを追う様に粉塵が吸い込まれる。

 跳躍したのだ。

「消えた」

 誰の叫びであろうか。

 目の前に落下した筈の存在が、無数の破片を伴いながら自分達の頭上を通過する。

 圧倒的な気配に、格納庫の天井が押し下げられた錯覚すら覚える。自らの体重が何倍にも感じられる程の殺気が、具象化した瘴気として影を落とす。

 それはまさに死の象徴として人間達の心を蝕み、肉体を震え上がらせた。

「違う」

 瞬きの間ですらない。

 視界から消え去った存在の気配を追って、顔を上げたメイファは素早く体を反転させながらライフルを向ける。

 人間達を飛び越えた脅威は、再びコンテナ類を押し潰しながら着地した。

 跳ね上がる床へ向けて、メイファがライフルを撃った。

 発砲音と同時に発火したライフルの閃光により、煙の中に存在の影が浮かび上がる筈であった。

「なんだよ、何処にも居ねえぞ」

 メイファの初弾によって限界を超えたユーロンが、存在が居た筈の空間にマシンガンを乱射する。

「また消えたのか、出て来いよ畜生」

 発砲の光の中で舞い上がっていた粉塵が流れると、地響きと同時に積み上げられていたコンテナが倒壊する。

 偶然か、それとも未知なる力が作用したのであろうか。重たい衝撃音と共に、次々と格納庫に積み上げられているコンテナが倒壊して行く。

「何だよ、何なんだよ」

 取り乱したユーロンの姿に隊の中に動揺が伝染する。ひとり、ふたりと、恐怖を振り払う為に目標も無く銃を乱射し始めた。

「止めろユーロン。皆、落ち着け。消えたのでは無く最初から見えないだけだ」

「ああ、何だって」

 物理的に存在しているのであれば、足場や物音で相手の位置を予想出来る為に必要以上に怖がる必要はない。と言う意味が込められていたが、果たしてどれだけの者がメイファの意図を正確に理解出来たであろうか。

 その言葉の為に、疑惑が確信に変わり一層に恐怖を煽る形と成ったに過ぎない。

 隊に混乱が広がる中、陥没する床と煙の流れに沿ってゼロとライゾウのマシンガンが追撃する。

「ゼロ、こんな話は聞いてないぞ。光学迷彩か何かは知らんが、インビジブル機能を持つ生物なんて居るのかよ」

「カメレオンとて体の色を変える。この広い宇宙であれば、

可視光線を素通りする肉体を持つ生物が存在しても不思議ではない。現実に、目の前の存在は我々の目には映らない。原理は解らないが、凄いな」

「感心している場合かよ」

 両者はマシンガンを撃つ手を止めると、咄嗟に左右へと飛び退いた。数舜後、今まで二人が居た後方のコンテナが倒壊する。

 明らかに、質量を有する巨体が激突した形である。

 飛び散る資材と粉塵の中から転がり出たライゾウは、片膝に身を起こすと同時にポケットから取り出していたグレネードを放り投げた。

 携帯性に優れた平たい四角型の手榴弾は床を滑り、点灯していた緑のランプが赤に変わった瞬間である。グレネードは起爆する直前に、上からの圧力に床を陥没させながら粉砕された。

「踏み潰した」

 ライフルから顔を上げたメイファが驚嘆する。

 彼女の言葉からは、見えない敵はライゾウが放ったグレネードが爆発物であると認識し、さらには起爆する前に本体ごと踏み潰すと言う知性と機敏性の高さに対する驚きが含まれていた。

 その為か一瞬、体の反応が遅れてしまった。

 其処へ、身を屈めていたライゾウがメイファへ向かって跳躍する。

 自分に向かって飛び込んで来たライゾウの意図を理解した時には、すでにふたりの体は吹き飛ばされていた。

 混乱する隊員が闇雲に放つ銃弾と硝煙の中に転がり、メイファは受け身を取って衝撃を逃したが、ライゾウは片手を付いて顔を上げた際に大きく咳き込んだ。

「ライゾウ」

 立ち上がって駆け寄ろうとするメイファに、ライゾウは倒れながら後方を指差した。吹き飛ばされた際に、見失ってしまった敵の場所を確認しろ、と言うハンドサインであった。

「ゼロ」

 素早く周囲を見回しながら、反対側へと避難したゼロへメイファが叫ぶ。その間にも起き上がろうとするライゾウへ近付き、肩を引き上げる。

「目の前だメイファ」

 ゼロが言い終わる前に、半身を起こしたライゾウがハンドガンで何もない空間へ銃撃を叩き込む。

 そのタイミングで再び格納庫が大きく揺れ、床面が捲れると砕け散った破片が宙へと浮かんだ。

「跳んだぞ」

 空気の流れを読みながら、メイファに支えられながら立ち上がったライゾウが振り返る。その方向には前衛のメイファらから少し離れ、未だ恐怖による動揺に右往左往するユーロン達が居た。

「何処だよ、どっちに跳んだんだよ」

 暗い天井へ向けて、ユーロンが悪態を付きながら慌しくマシンガンを放つ。

 彼の爪先が浮かび上がった。

 その衝撃にユーロンは尻を付いて倒れ込んだ。腰が抜けたのである。

「あ」

 自分の直ぐ傍に空気を薙ぎながら地響きを立て、巨体な何かが降り立った気配は彼にも理解出来た。

 悲鳴を上げながらトリガーを引くが、マガジンが空に成っている事すら気が付かない程に錯乱している。

 尻から伝わる冷気がユーロンの全身を包み込んだ。

 否、冷気では無く殺気である。

「あああ」

 頭上から吹き付けた殺気に、ユーロンはマシンガンを放り出して頭を抱えた。鋭く空気が切り裂かれると、水気を含んだ何かが断裂する音が響いた。

 即ち、人である。

 ユーロンが顔を上げた時、すぐ隣にいた筈のウェンが消えていた。数舜前まで、爆弾代わりの高出力バッテリーを抱えながら手に起爆装置を握っていた筈である。

 そこには二本の脚が転がっていた。

 見上げると、空中に起爆装置を握ったままのフェンの腕だけが浮いていた。

 それは鈍い音を立てて切断されると、ユーロンの目の前へと落ちた。

「喰いやがった、喰いやがった喰いやがった」

 ユーロンの悲鳴は、フェンの腕が浮いていた位置へ殺到した弾丸と銃声に掻き消された。体勢を整えたライゾウ達は、見えない敵が居るはずの場所へ銃撃を集中させる。

 続けて眩い閃光と爆発が起きた。

 先程の教訓を活かし、ゼロが空中で起爆する時間を調整してグレネードを投げたのである。

 四散した炎と火の粉が何もない空間を取り囲んだ。そこに物理的な存在がいる事を証明した瞬間であった。

 格納庫の空気が轟いた。

 咆哮。

 衝撃。

 見えない敵が、叫び声を上げながら再び跳躍したのである。コンテナを倒壊させ、叩き潰し、地響きを立てて暴れ回る。

 人々の無念なる残滓に沈黙を貫いていた格納庫は、今や人類が遭遇した事のない悪意と殺気と怒りの暴風雨に見舞われていた。

「殺るなら即死させろ。暴れ回って余計に手が付けられん。責任取って何とかしろ」

 凶器となって襲い掛かるコンテナや飛び交う資材から身を守りながら、ライゾウが声を張り上げた。

「火力が足りない。だが物理攻撃は一応有効の様だ。少しずつでも確実にダメージを与えれば可能性はある」

「そんな悠長な事を言っている場合ではない。既に犠牲者も出ている。あの見えないグェングァを、ここで処理しなければ益々状況が悪くなる」

 メイファは姿の見えない厄災の化身を〝喰らう者〟と紅蘭語で呼称した。その間にもグェングァはあらゆる物を薙ぎ倒し、倒壊させフロア全体を破壊して回る。

 一度、射程距離から離れた破壊の暴風は、再び跳躍すると長い雄叫びを上げながら彼等の頭上を飛び越した。

 それは格納庫の入り口付近の壁へと激突すると、四つの穴を開けた。グェングァの手足が壁を貫通しながらも、その巨体を壁面上に張り付かせたのである。

「何と言う身体能力だ」

「ユウキ逃げろ」

 ゼロの驚愕と、メイファの声が重なった。

 ライゾウは新たなグレネードを取り出したが、グェングァの距離までは彼の強肩を持ってしても届かない。

 鋭く舌打ちすると、ライゾウはユウキの場所まで駈け出した。その口には、何時の間にか火の付いたタバコが咥えられていた。フィルター付近に赤い染みが付いていたが、気にしている様子もない。

「ユウキ、メガネと一緒に逃げろ」

 最後尾で、成す術も無く立ち尽くしていたユウキは放心していた。完全にグェングァの殺気に飲まれていたのである。

 過敏であるが故の欠点でもあった。

 鼓膜をつんざく音と振動と共に、壁を破壊しながら陥没する穴が自分達へと近付いて来る。

「ユウキくん、逃げないと」

 サイが後ろから肩を掴み、耳元で叫んでいる。

 自分の名を呼ぶ声をユウキが自覚した時には、すでに頭上に見えない圧力と、怒りと、底無しの飢餓が迫っていた。

〝ユウキ〟

 様々な者がユウキの名を呼んだ。

 我に返った時にはユウキの重力は消失し、全身を震わせた衝撃に体が跳ね上がる。

 設計上の不具合か、それとも劣化の為か。理由は分からないが、この時グェングァ自身も予想しなかった事が起きた。

 目前に飛び降りたグェングァの質量に耐えられず、ユウキの立っていたフロアの床が崩壊したのである。

 グェングァの咆哮、人間の悲鳴、断裂して弾け飛び、沈没する船の様に尾を上げる床材や鉄柱。それらは融合して壮絶な轟音となり、ユウキや近くにいた数名、さらにサイ、ルーなども一緒に下層フロアへと飲み込んだ。

 支柱が折れた為か陥没する領域が広がり、周囲のコンテナ等も巻き添えに落下する。地盤の崩壊はユウキの命を救ったものの事態は更なる混乱を極める事と成った。

 周囲のあらゆる物が無秩序に激突し、駆け寄ったライゾウの目の前でユウキ達は地響きを立てて階下へと雪崩落ちたのである。

 天地が目紛しく入れ替わり、ユウキの体が落下する床材から離れて宙へと投げ出された。



 豪雨よりも密度の濃い破片、砕けたコンテナから飛び散った資材など混沌とした嵐の中で、ユウキは〝それ〟と会遇したのである。

 それは何重もの外壁による保護とカモフラージュによって守られていた。灰褐色の外装は打ち砕かれ、吹き飛び、明らかな暴力により限界を超えて封印が解かれたのである。

 鋼鉄のつぼみが花開く様に、黒く重圧な外装を持つコンテナが四散する。吹き荒ぶ破片の中から、薄暗い格納庫でも一際目を引く白い半円柱状のカプセルが姿を表した。

 今にも階下層へ落下し激突せんと命の危険に晒されている状況にも関わらず、ユウキの意識は目の前に落ちて来た白いカプセルに惹き寄せられていた。

 今迄、厳重に安置され隠されていたのであろう。

 グェングァにより破壊されたコンテナの一つから開放された〝それ〟は、ユウキの前へと舞い降りる。いや、何万分の一秒と言う時間の中でユウキが引き寄せられているのかも知れない。

 眠る主人をあらゆる脅威から守る為に、ユウキの瞳を写し返す外装は白く輝き鉄壁の意思を見せていた。

 ワイヤーやフレームなどの装飾物もなく、カプセルの表面中央付近に灯る青色の灯りだけが生存の証明を示していた。光はカプセルの外装ハッチラインに沿って広がり、覚醒の兆しを示す。

 網膜に投影されたそれは記憶の深層にまで指先を伸ばし、かつてユウキが見ていた清爽なる空を呼び起こした。

 数多の時を繋ぐ輪廻の中で、何時も隣にいた者の存在と一緒に。繋いだ手の温もりと眼差し。強固なる保護カプセルの外装を通してでも、体温を感じられる鮮明な息遣い。

 繋がり合った意識は眠っている主を目覚めさせ、呼応したシステムが外装のロックを解除する。解放されたハッチの隙間から溢れた羊水は、光を反射して天翔ける星々の様に煌いた。

 暗く濁っていた世界は輝く世界へと変貌し、ユウキは広大な銀河の渦に飲み込まれた錯覚に包まれた。頬のすぐ横を飛び交う水滴は、お互いに融合と拡散を繰り返しながら燐光を放ち、連なり光線と変貌した水流は宇宙を駆け巡る流星の軌跡であろうか。

 天地が混ざり合い、重力すら消失した小宇宙に飲み込まれながら、ユウキは再び自らの半身と巡り合ったのである。

 カプセルのハッチが開放されるに連れ、周囲を染める光量は増して恒星の出現を思わせた。

 それは神の出現にも似た光景であった。

 光の凝縮に具象化されたかに思える人型は次第に色を帯びて行く。白い陶器の様に無機質に見えた白い肌には赤みが差し、生命の息吹が芽生え始める。

 脚の爪先から下腹部、心臓を守る乳房から両腕、その指先。拡散する羊水に濡れた黒髪は青々と輝き、眩い生命の目覚めに歓喜する体を包み込んでいた。

 胸が膨らみ、呼吸が始まる。

 薄い桜色の唇から、微かに白い歯が覗いた。

〝ユウキ〟

 再び、彼女の声が聴こえる。

「イノリ」

 その名前を叫び、ユウキは眠りの呪縛から解き放たれて宙へと浮き始めた彼女へ手を伸ばした。瞼が震え、今まさに彼女の黒々とした睫毛に縁取られた瞳が開き始める。

 意思か無意識か。

 自由落下に舞いながら、その華奢な白い指先はユウキを求める様に差し伸べられた。

 何千何万と紡がれた輪廻の記憶が蘇り、光を越えて圧縮された〝今〟この瞬きに両者の指先が引き寄せられる。互いに指先を伸ばす光景は、死と腐敗に包まれた幻龍と言う世界に輝いた生命の夜明けを思わせる。

 髪の毛一本分ほどの距離。

 ふたりの指先が触れる刹那、止まっていたユウキの時間が現実世界へと引き戻された。永遠に続くかと思われた静寂なる世界は、内臓を凍らせる冷たい恐怖の轟音に蹂躙される。

 怒りに満ちた人成らざる者の咆哮。

 数千数万から構成された金属片の嵐が、金切り声を上げて吹き荒ぶ。四散するコンテナの壁材、引き千切れて導線や繊維を晒しながら空気を切り裂く無数のワイヤー。

 そして混沌と混乱に翻弄されるユウキに、更なる脅威が襲い掛かる。

 カプセルから放たれていた光を遮り、黒い波が周囲を包み込む。格納庫に収納されていたタールが、コンテナの崩壊により大量に流れ出たのである。

 すべてを飲み込んだ黒い濁流は、巨大な質量を持つグェングァを中心に階下層へと流れ落ちた。

 時間の観念が消失したユウキとは異なり、周囲にて地盤が崩壊する現状を目の当たりにしていた者に取っては、ほんの数秒の出来事である。

「ユウキ」

 いまだ地響きと粉塵を残している巨大な穴へ、ライゾウが駆け寄った。

 陥没した穴へ脚を踏み入れたライゾウの横で、大質量に引っ張られているワイヤーが火花を散らしていた。粉塵が視界を遮り、光量の足りない階下では暗く体を震わせる振動が続いていた。

「ユウキ、サイ、ルー、他に紅蘭チームの三人が一緒に落ちた。圧死していなければ良いが」

「クソ」

 四散する破片を体に受けながらも、陥没した闇を見下ろしながら観測したゼロにライゾウが舌打ちをする。

「それともうひとつ、一瞬ではあるが強烈かつ不可解なエネルギーを感知した」

「何だそれは」

「ユウキが交信していた者の存在かも知れない」

「妄想の彼女の話か」

「不明だが、感知した波長は森羅システムに近い。何にせよ急ごう。こうしている間にもユウキ達が危険だ」

 ふたりが轟々と崩壊を続ける穴に身を潜らせると、頭上からメイファの声が掛けられた。

「ライゾウ」

 その顔を見る事も無く、ライゾウは手を上げると一緒に降りる気配を見せたメイファを止めた。

「其処から援護してくれ。下で全員やられると面倒な事になる。それから延長戦になった場合、お前は将軍様に火器の限定解除をさせる文句を考えてくれ」

 鉄柱を掴みながら体を支えていたライゾウは、肩に赤い染みが出来ているのを視認した。そして鼻を鳴らしながら足元を確認すると、そのまま階下層へと飛び降りた。

 何かを言い掛けたメイファであったが、そのままライゾウの背を追う様に巨大な穴に向けてライフルを構えた。

 崩壊の残滓を含み、冷たい低い唸りを上げる風がメイファの髪を揺らした。


 一方、天地が消失していたユウキは、足の爪先から頭部までを激しい激痛が襲う。様々な金属片を含んだ重たく冷たいタールの濁流が、四肢を引き千切らんばかりの勢いで掻き回す。

 飲み込まれた重たい油に聴覚を奪われ、自らの悲鳴も聴こえない沈黙の絶望に殴打される。遠く、浜辺で波に飲み込まれた記憶の鱗片は、暗い死の淵に掻き消された。

 光を失い、聴覚や声すらも奪われ、沈黙の恐怖にすべてを支配された時、ユウキは落下し続けていた肉体に衝撃と言う大きな重力を取り戻した。

 全身を殴打したタールと金属片の濁流に洗われ、もはや麻痺していたかに思われた痛覚が大きな波として打ち返す。

 悲鳴の変わりに口からタールを吐き出し、朦朧とした窒息寸前の極限状態でありながらもユウキの生存本能により身を起き上がらせた。刹那、頭上を圧迫する波を感じてその場から転がり逃げる。

 地盤が抜けた中心にいた為に、飲み込まれた様々な脅威より先に階下層へと落下したのである。数舜遅れてユウキが叩き付けられた場所へ黒い濁流が流れ落ち、崩壊したあらゆる鋼の脅威が舞い降りる。

 濁流の中には当然の事ながら〝飢えた死の象徴〟も含まれていた。

 見えない筈の超質量は、タールを浴びて黒い塊としてユウキの目の前へと地響きを立てて墜落する。それに続き、サイ、ルー、紅蘭の隊員達。皆、気を失い、医療ドロイドも機能を停止している。

 そして、白いカプセル。

「イノリ」

 全身の激痛をも捻じ伏せて、ユウキは彼女の名を叫びながらカプセルの中を確認する。

 イノリの姿は無く慌てて周囲を見回した。

 彼女は地面を揺らしながら身を起こしつつある巨大な黒い質量の足元に、羊水と長い髪に包まれて倒れていた。

 駆け寄ろうとするユウキの目の前で、再び地響きが突き上げた。グェングァが怒りに震えながら脚を踏み鳴らしたのである。被ったタールを零しながら首をもたげる姿は、地中より這い上がる漆黒の悪魔であろうか。

 巨体の為にタールを被った部分は半身だけであったが、見る者には空中に異形の者が浮いて見える異質な光景であった。黒く濡れた長い尾が光を照り返し、規格外の大蛇が蜷局を巻いて舌なめ擦りをするかに見えた。

「ああ」

 見えない恐怖が具象化し、その姿が露になった所で安全とは程遠い。それ処か、人が持つ嫌悪感を極限までに突き上げる異形の容姿は、挫けそうなユウキの心を絶望に凍り付かせた。

 自分を見上げる餌の視線を受けて、グェングァはユウキに振り返ると原始の笑みを浮かべた。最も人間の様に表情が変わった訳ではなく、ユウキがグェングァの放つ本能欲求を感じ取ったのである。

 その時、激しく体を揺すってタールを弾き飛ばしたグェングァは、自らの視界に一人の少女を視認した。一瞬、動きを止めた後に大気を震わせる咆哮が上がる。

 それは今迄の怒りに満ちた叫びとは違い、明らかな動揺が含まれていた。

 威嚇に喉を鳴らし、激しく尾を振り回すと周囲のコンテナが吹き飛ばされて爆散する。それらは意図的でないにせよ、救出に駆け下りて来たゼロとライゾウの接近を阻む形となった。

「おい、ユウキ」

 吹き飛ばされ、轟々と襲い掛かるコンテナの破片を避けながらライゾウらが声を張り上げた。

「あれが正体か」

 ゼロがタールを被ったグェングァを記録しつつ、その目前にサイとルー、そしてひとりの少女の存在を視認した。

「あの少女か。ユウキが言っていた存在は」

「ユウキ、早くそこから離れろ」

 ゼロの呟きに被せる様にライゾウが吹き飛ばされたコンテナの残骸や、落下して圧し折れた支柱を乗り越えながら叫ぶ。

 激昂したグェングァの圧力に飲まれ、流石の卓越した戦士達も近付く事が出来ない。手持ちのマシンガンでは距離も火力も足りない。

 攻めあぐねているライゾウ達の前方にて、グェングァが再び雄叫びを吐き出し、巨木の様な尾を振り回しながら拳を振り上げた。

 その意図は明確である。

 狙いはユウキではない。

 気を失っている者達のひとり、濡れた黒髪の少女。

 大気が引き裂かれる程の咆哮に、ゼロの全身を覆う装甲が共鳴して震える。さしものライゾウも躊躇いを見せた時、その視界の先でユウキが震える脚を叱りながら駈け出した。

「おいユウキ」

 駈け出した先は、倒れている少女。

「流石に無謀だ」

 グェングァが弾き飛ばした鋼鉄の波が引き、重なり合う廃材をゼロ達が慌てて乗り越える。

 だが、とても間に合う距離ではなく、そもそも巨大なグェングァの物理攻撃を防ぐ手段すら存在しない。

 人としては正しい選択であったかもしれないが、それは自殺行為でしかない。しかしながら、そんなユウキの意思が結果としてひとつの目覚めを呼び起こすトリガーに成るなど彼等に解るはずもない。

「イノリ」

「馬鹿野郎」

 身を挺して少女に覆いかぶさったユウキと、ライゾウの叫びが重なり合う。

 小柄ながらも、体より大きな勇気を持ちて身を投げ出した少年の頭上に脅威が迫る。ずっと身近に感じていた温もりが、直接に肌を通して伝わると少女の瞳がすうと開かれた。

 黒々とした睫毛から覗いた瞳は艶やかに濡れ、周囲に漂い始めた青い燐光を反射していた。頬から伝わる体温に息吹を得たのであろうか、ユウキの頭に手を添えながら少女の唇から声が零れる。

「ユウキ」

 耳元で名前を呼ばれて驚き、固く抱き締めていた体からユウキが身を離すと、ふたりの視線が結ばれた。

 閃光と衝撃。

 続いて響き渡るグェングァの咆哮と、大気を爆ぜさせる圧倒的なエネルギー波。それは表面を波立たせる局地的な現象ではなく、幻龍の船体を震わせる莫大な力の波であった。

 一万メートルを超える巨体を有した幻龍が、突如発生した謎の力に悲鳴を上げる。

「おい、何が起きている」

 閃光と全身を突き抜ける波動に、目を庇いながら叫んだライゾウの声も搔き消された。

「この反応は。いや、まさか」

 ゼロの脳裏にいかなる情報が送り込まれているのであろうか。常に沈着冷静な彼が、側頭部に手を当てながら動揺を隠せない様子である。そんな彼が言葉を飲み込んだ先に、信じがたい光景が広がっていた。

 倒れた少女とユウキを背に庇う形で、何時の間にか起き上がったルーが、振り下ろされたグェングァの拳を両手で受け止めていたのである。

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輪廻の杜 K @Mochi_Sakurai

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