第三話 腐敗の大樹一



〝ユウキ〟


 確かに、彼女は自分の名を呼んだ。

 彼女は眠っている。

 柔らかな光に包まれながら、天地が消失した世界に沈んでいる。いや、浮かび上がっているのかもしれない。

 無限に広がる海の中であろうか。

 ゆっくりと揺蕩いながら、何時か地上へと息吹く日を夢見る新芽の様に、静かに、長く、そして深い息をしていた。

 黒々と縁取られた睫毛は閉じられ、濡れ羽色の艶やかな髪がその肢体を包む。頬には薄く赤味が差し、生命に満ちた証を示している。

 四肢は細く、一点の曇りもない肌は白くまだ幼い。

 存在しない筈の陽光が差し込み、光が舞う水中にて彼女は何かを訴えている。何処までも透明で優しい光に包まれていながらも、物言わぬ姿は冷たい苦しみを抱えていた。

 微かに上下する胸に、濡れた唇から白い歯が覗く。

 だが、そこからは何も聞こえ無い。

 それでも、ユウキには彼女の叫びが聞こえていた。

 泣き、嘆き、慟哭を繰り返している。

 助けを求めているのか。

 救いを求めているのか。

 彼女の瞳が開きさえすれば、その瞳を見る事が出来れば、全て分かり合える筈なのに。

 そうユウキは感じていた。

 理由は無い。

 しかしながら彼女から感じる記憶の共有、時を越えて指を絡ませていた温もりが、儚くも細い輪廻の糸として見えていた。

 十年前からか、百年前からか。

 人間の持つ時間と呼ばれる概念を越え、過去と未来が無限の輪として紡がれている。それは生であり死でもあった。

 数多の魂が彼女を触媒とし、対極の氷炎と成り生命の光を繋いでいる。

 だが、そんな彼女を繋ぐ〝何か〟が訴えていた。

 影を持たぬ無形でありながら、明らかな意識を持った存在として血を流していた。

 そう、それは傷付いていた。

 その傷が、彼女を苦しめているのか。

 その苦しみが、自分を呼ぶ声として聞こえているのか。

 彼女が両腕を広げ、ユウキの温もりを感じると一瞬は永遠と成り、その瞳が開きかけた。


   †


 ユウキは、固いベッドから弾き飛ばされた。

 眠る部屋はいくらでも確保出来るのだが、狭い場所でないと落ち着かない性癖が災いした。

 飛び出した拍子に反対側の壁に激突し、冷たい床へと転がった。深い精神世界から突然に現実へと叩き出され、その乱暴さに意識が混濁して吐き気を催した。

 何度か喉を鳴らしながら息を付くと、ユウキは体の痛みと寒さによる肉体的な苦痛により目が覚めた。自分は眠っていたのだと認識し、また〝あの夢〟を見たのか、と思い悩まされた。

 冷たい床に手を付いて、まだ朦朧とする頭を起こした。打ち付けた体が痛み、額に手を当てるとユウキは首を振った。

 指先は、洗っても落ちないオイルで汚れていた。黒髪は無造作に伸ばされ、色白な面立ちで顔色は良くない。

 体質ではなく、陽に当たらない為である。

 慢性的な栄養不足の為か、成長期の少年にしては発育が乏しい。四肢は細く小柄な印象を与える。

 そんな細い腰に手を当てると、ユウキは痛みに顔をしかめながら目を開いた。

「何なんだよ、一体」

 ひ弱な印象を受けるが、その瞳には情熱的な若い光が宿っている。本人の自覚は定かでは無いが、内なる静かな炎は彼の心を絶えず燃やし続けていた。まだ気付かぬ自らの力として、それはユウキの胸の内で無限の可能性として瞬いている。

 だが、視界がぼやけた今の黒い瞳には、灰色の床が滲んでいた。

 いつもは眠りが浅い。だが〝あの夢〟を見る時だけは、魂が宇宙の深海まで沈む様な深い眠りに落ちるのである。

 それをアクシデントとは言え、物理的な暴力によって叩き起こされたのだから、彼の心身が混乱するのも無理からぬ事である。

 焦点が定まると同時に、彼の意識も鮮明さを取り戻した。我に返ったユウキは、顔を上げると周囲の様子を伺った。

 無音。

 しかし、違和感がある。

 何か良くない事が起きたのである。

 そもそも明るい展望が待っている訳ではないが、だからと言って更なる困難を歓迎している訳でもない。

 この数年間、奇跡的に安定していた船がここまで揺れた事は過去に無かった。船の大きさから考えると、そよ風程度の無きに等しい現象ではあるが、問題は揺れの規模ではない。

 何かが起きた、と言う変化が重要なのである。

 今、自分達はカミソリよりも薄い生存領域の狭間を、命綱も無く歩かされている。生きる術を強いられ、肉体的にも精神的にも激しい負担が続く。

 皆、疲弊していた。

 現状は快適には程遠いが一応の安定を見せている。そのバランスが崩れる様な事態は、極力避けたい。可能性として、その変化により物事が好転する事もあるだろうが、この期に及んでそんな幸運な事柄が起きるとは考えにくい。

 一度大きく震えると、ユウキは共に転がり出た古い毛布をベッドに戻し、穴が開いたジャケットを羽織った。

 サイドテーブルに乗っていた充電型のライトを腰に下げ、手動で重たいドアを開けて部屋を出る。

 人類の英知が凝縮された船にも拘わらず、殆どの機能が停止しており、人々は原始の生活まで巻き戻されていた。

 通路の天井には自動光量パネルが張り巡らされているが、全て消えている。足元の安全灯だけが等間隔で光っており、通路をぼんやりとオレンジ色に浮かび上がらせている。主電源から切り離されている為か、この安全灯だけは船全体で正常に機能していた。

 ユウキは小走りに長い通路を急ぐ。

 人も少ない為に許される。

 吐く息は白い。

 船は死に掛けている。

 不安ばかりが増し、気が付けばユウキは駆け出していた。

 広い接続通路に差し掛かると、電源が生きているパネルにより周囲が少し明るく成る。集約された通路の先には大きなゲートがあり、そこを潜ったユウキの頭上が開かれた。

 この船に存在するターミナルエリアの一つである。

 美しいアーチを描く支柱で組まれた天井は高く、緻密に計算された設計から技術力の高さが伺えた。

 しかし、辛うじて機能しているのは照明と空調のみであり、その照明も一部しか電源が通っていない。広大なターミナルエリア全体には光源が届かず、四方の壁際は陰気な影に染められていた。

 巨大ディスプレイ、情報パネル、誘導ライン、運搬シュートなど、人間をサポートする高機能システムは全て沈黙している。

 無数に並べられた椅子には埃と影が落ち、見えない亡霊達が冥途への到着を待っている様であった。

 そんな亡霊達の間を抜けて、ユウキはフロアの突き当りに位置する部屋へと向かった。本来であれば、インフォメーションセンターとして使われている場所である。

 ガラス張りの部屋から光が零れ、ふたつの人影が見える。

 ユウキは、その背中に慌てて声を投げた。

「ゼロ、何が起きた。部屋の反対まで吹き飛ばされたんだ。幻龍が故障したのか、それとも何かが衝突したのか」

「両方の可能性がある」

 部屋に入って来たユウキに振り返ったのは、光る複眼を持ち、全身が暗い灰色の金属で構成された人物であった。

 身長は二メートルを超えている。

 かなりの大柄ではあるが、旧世代のアンドロイドの様にギアやワイヤーなどが存在せず、洗練されたスマートな美しいフォルムをしていた。

 関節部分は何層もの装甲で覆われているが、挙動は滑らかで駆動音すらしない。それは、彼が超高度な技術により産み出された証明であった。

 その動きは、外見を除けば人間そのものである。

 名は〝ZERО〟

 後頭部の付け根に小さく刻印がされている。名前なのか認識ナンバーなのかは不明だが、周囲の人間は彼をそう呼んでいる。

 ゼロが何者なのか、それは彼自身も知らない。

「隕石でもぶつかったのか。いや、でもそれは有り得ない。だって幻龍は」

 ユウキは額に手を当てた。

「まだ寝ボケているのか。資源回収をサボッて、こんな時間まで寝ていやがるから罰が当たったんだ」

 ゼロの隣でデスクの上に腰掛けていた男が、ユウキに向けて水を放った。

 白い物が交じった髪を後ろに撫でつけ、顔に無数の傷がある。ゼロがイルカなどの海洋生物で在るなら、この男は獰猛な獣であろうか。

 ユウキが身震いする気温だと言うのに、肩にジャケットを羽織り、その下は黒いシャツ一枚と軽装である。

 鍛え上げられた腕は太く引き締まり、殺傷跡や弾痕が残っていた。ブーツと灰色のアーミーパンツに隠れた下半身にも同じ様な傷が有るのだろう。

 換気の悪い室内に、彼が吐き出すタバコの煙が充満していた。

 ふたりが何時から此処にいるかは知らないが、大柄な両者が揃うと部屋が狭く見える。空気が薄く感じるのも、あながち気の所為では無いのかも知れない。

 ユウキは目の前の男達に、自分の体格の貧弱さを感じずには居られない。

「こんな時間て」

 言い掛け、舌がもつれた。

 酷く喉が渇いていた事を思い出し、ユウキは受け取った水を慌てて飲み干した。お湯を沸かすエネルギーも無駄に出来ない状況である。水は冷たかったが、それでも乾き切っていたユウキの体に沁み込んだ。

 大きな溜息を付くと、顎を拭う。

「俺は昨日、深夜時間まで仕事していたんだ。それに、罰なんて言葉をライゾウが使うのか」

「悪いか」

 鼻から煙を出すと、ライゾウは火の付いた吸殻を指で弾いた。吸殻はゼロが確認しているパネルに跳ね返り、ユウキの胸に当たって床に落ちた。

「やめろよ、罰が当たるぞ」

 ユウキが慌てて踏み消すと、ライゾウが鼻で笑った。

「これ以上の罰があるか。今にも人類が滅びそうなのに更なるトラブルだ。神は俺達に死ねと言っているのさ」

「やめろよ。俺達の先祖なんだから、神様の事を悪く言うなよ。皆が信じなければ神様は力を使う事が出来ないんだ。こう成ったのは俺たち自身の責任なんだ」

 線が細く、まだ幼さが残るユウキだが、その瞳の奥に宿る力と、そこから垣間見える意志の強さが煌めいていた。

 未来を信じている光である。

 希望を感じている光である。

 そんな真っ直ぐなユウキの瞳に、ライゾウは天井に目をやると鼻の傷を掻いた。豪胆不敵なライゾウではあるが、彼にも苦手な物がある。どんな敵意や憎しみを向けられても痛くも痒くも無いが、ユウキの様に純粋に人間の善意や愛を信じている気持ちは如何にも居心地が悪い。勿論、ライゾウ自身それを否定する気は無い。

 バツの悪さをどう胡麻化したものか、と思っている所にタイミング良くゼロが割り込んだ。

「やはり、そうか。まさかとは思ったけれど、このデータで間違いなさそうだね」

 目の前で吸殻が火の粉を散らしたのに、春風の様な穏やかな声でゼロが言う。

「何があった」

 これ幸いとライゾウがパネルに近付くと、彼の背中で見えなくなったユウキがふたりの間に割り込んだ。

 ゼロが見詰めるパネルには幻龍の俯瞰図が立体で表示され、無数のデータが表示されている。数値から目を離さず、ゼロが羅列されたデータの一点を指した。

「この数値だ」

 ユウキとライゾウが画面を覗き込んだ。ゼロが指す部分には数桁の数字が表示されている。固定された数字に見えたが、時折、後半の二桁が若干の揺れを示す。

 ユウキとライゾウは、お互いの顔を見合わせた。

「これが何だ」

 ライゾウが苛立った声を上げる。

 彼に続いてユウキもゼロの顔を見上げた。全く理解出来無い事が理解出来たのである。

「サッパリ分からない。ゼロ、俺達にも分かる様に説明してくれ。何がどうなったんだ。良い事なのか」

「良い訳あるか。ベッドから転げ落ちて頭をぶつけたのに、何か良い事が起きたのか。なんて、お前の根っからの能天気、楽天さが羨ましいぜ」

 ライゾウが新たに咥えたタバコを、ユウキが素早く抜き取った。勿論、彼が吸う為では無い。

「楽天的じゃ無い。俺は楽観的なんだ」

「同じだろう」

「違うよ。楽天的は危機感が無い者を指して、楽観的は物事を前向きに考えられる事を言うんだ。俺だって毎日毎日、不安で心休まる時なんて無い。明日死ぬかもしれないと思うと、怖くて堪らないよ。幻龍の皆だって一緒さ。でも、人が生きて行く為には希望が必要だろう。理想が無ければ人は生きられないんだ。現実的じゃ無いかも知れないけど、今この瞬間も俺は」

 ライゾウは両手を上げると、降参のジェスチャーでユウキの言葉をシャットダウンした。

「分かった分かった。それでゼロ、ちゃんと説明しろ」

 人間さながらに腕を組み、顎に指を当てながら何かを思案していたゼロが答えた。

「問題の現象はふたつ。光速潜航が解除されている。つまり幻龍は今、亜空間を抜けて慣性潜航をしている状態だ」

「なんだって」

 ユウキとライゾウが同時に声を上げた。

「もうひとつの現象は、ここだ」

 ゼロは俯瞰図で表示されている幻龍の船尾方向、つまり船の後方部分を指した。そこは赤く点滅を繰り返し、アラートが表示されている。

「幻龍のお尻に、何かが激突した。つまり、これがユウキのおでこにコブを作った衝撃。現象はこのふたつだけだが、問題は」

 ゼロの話に、ふたりは同時に額に手を当てた。

「妙だな」

 ライゾウは手の下ですっと目を細め、ユウキは口を開けながら掌に額の熱を感じていた。

「そうだね。ひとつひとつ、整理して行こう」

 気配を感じたのか、ゼロがパネルから振り返った。

「私にも、聞かせて貰えるかしら」

 何時の間にか、腕を組んだ女が入口の壁に寄り掛かっていた。

 ライゾウも認識していたのか、その声に指の隙間から鋭い視線を返した。一方ユウキは突然の来客に驚いて、さすっていた額から手を離すと慌てて顔を上げた。

「メイファさん。おはようございます」

 ユウキは姿勢を正すと顎の下で両手を組み、片言の紅蘭語で挨拶をした。

「おはよう。ユウキ」

 寸分の隙も無く、美しい姿勢でメイファも挨拶を返す。

 黒髪が豊かな胸元で弧を描き、白い肌に赤い唇が妖艶な美しさを見せていた。黒いツナギに包まれた体はしなやかで、武骨なライゾウとは対照的な野性味を感じさせる。

 しかしながら、年下のユウキに対しても礼儀を尽くす様ではあるが、その表情は冷たい。いや、意図的に感情を抑え込んでいる、と言った方が正しいであろう。

 深く沈んだ黒い瞳だが、ユウキの姿に一瞬だけ揺らいだ光が浮かんだ。

「盗み聞きとは行儀が良く無いな。テロリストと言う名の英雄殿」

「やめろよライゾウ」

 怒気を込めたユウキが振り返る。

「数百年に渡る封健制度が、民衆の手に寄って開かれたのだ。テロリズムではなく革命と呼んで頂きたい」

 メイファの静かな答えに、ライゾウは鼻で笑った。

「開かれた国は宇宙を彷徨い、残された少数の民は飢えと寒さに苦しみ、絶望しながら死を待っている。紅蘭は神礼家に依る王朝設立以前の文明にまで衰退した。貧しい民は、王朝時代の方が良かったと思っているだろうよ」

 体を預けていた壁から離れ、メイファは腕を解くと一歩踏み出した。表情は変わらぬが、彼女の熱量が増した様に見えた。

「人権を剥奪され、長きに渡る奴隷生活を強いられた者達の気持ちは貴君には分かるまい。生まれた時より、閉ざされた未来を歩まされる者の気持ちを。不自由な豊かさなど誰も望んでいない」

「お前達の生立ちには同情しよう。だが、仲間を救う為に大和の民を皆殺しにしたお前は、神礼家と何も変わらない侵略者であり愚王だ。その結果がこれだ」

「私は」

 更に言い掛けたメイファの間に、ユウキが割り込んだ。

「もうやめろよ。ライゾウ、メイファさん」

 怒りの為か、顔色の悪いユウキの頬に赤味が差した。

 こうして見ると、まだ子供なのだと再認識させられる。だが、そんな彼が持つ瞳に、何人もの命を殺めた両者は口を噤んだ。

「その話は何回もしたじゃないか。幻龍の中でも憎しみ合って、殺し合って。もう俺達は、お互いに殺し合うのを止めよう。自分達の手で滅亡へ進むのは、もう止めようと決めたんじゃないか」

 ユウキは、自分より背の高いメイファを見上げた。若さに光る瞳を通し、ユウキが輝かせる白き魂の揺らめきが垣間見える。

「幻龍は、人類の希望なんだろう。人が自らの意思で生き残る道を掴み取り、繁栄なる大地の礎に成るんだろう。その為にも今、俺達は憎しみを越えて生き残らなくては成らない。そうなんでしょう。覚えてますよね、メイファさん」

 言い切ると、ユウキは肩を大きく揺らした。

 若き未来の獅子が呼吸を整え終わるまで、誰も言葉を発しなかった。それは大人としての贖罪と、若者が持つ純然たる美しさに対する賛美の為であった。

 その間、ユウキは一瞬たりとも視線を離さない。メイファは眩しそうに目を閉じると、艶やかな唇を綻ばせた。

 幻龍中では慢性的な食料と栄養不足の為に、健康状態が良くない者が大半である。だが、そんな環境でもメイファの肌は滑らかに透き通り、血色の良い唇は性別を問わず見る者を惑わした。

「そうだったな、ユウキ。済まなかった」

 変化の無かった声色が優しくなった。怒気が抜けた筈のユウキの頬は、上気したままである。

 力が抜けたところを狙い、握り潰されたタバコを取り返したライゾウは指で形を整えると火を付けた。

「威張る相手が居なければ、国もへったくれも無いからな。ユウキ、耳が赤いぞ」

「ライゾウも謝れ」

 更に赤くなったユウキは、ライゾウの肩を本気で殴り付けた。最も、非力なユウキは手首を捩じらせただけであり、屈強なライゾウには痛くも痒くも無い。

「さて、みんな良いかな」

 相変わらず何事も無かった様子で、ゼロはパネルへと顔を戻す。思考する度に、その複眼が瞬くが彼が何を思ったかは分からない。

 ゼロの声に、全員の視線が集まった。

 背後に立ったメイファから零れる妖香に、ユウキは息を止めると自分の頬を強く叩いた。

「そ、そうだった。ゼロ、始めから詳しく説明してくれ」

「では始めよう。まず」

 パネルに手を当てると、ゼロの複眼が再び思考の点滅を示す。彼は表情を浮かべる事は無いのだが、その横顔から思慮深さの底に隠された悲劇が見え隠れする。

 だが、それは誰に取っての悲劇であろうか。ゼロ自身が認識していない深く沈み込んだ哀しみ、もしくは別の誰かが抱えている苦しみであるのかも知れない。

「メイファの為にも最初から整理しよう。繰り返しに成るが、まず幻龍に起きた現象はふたつ。最初の一つは、光速潜航が解除された事実」

 ゼロはメイファに向かってパネルの数値を差す。確認した彼女は軽く頷き、目で先を促した。

「幻龍の光速潜航が解除され、亜空間から抜けて慣性運航に戻る条件は二つ」

 ゼロは三人に向けて人差し指を立てた。

「一つ目は、光速潜航ドライブの故障。もしくは関連するシステムトラブルにより止まってしまった可能性」

 続いてゼロは二本目の指を立てる。

「二つ目の条件は何だと思う。ユウキ」

「分かる訳無い」

 ユウキは肩を竦める。

「そうかな。皆が望んでいる事だ」

「まさか」

 思わず息を飲んだメイファに、ゼロは頷いた。

「そう。これは幻龍の存在理由でもあり、残された我々の願望であり希望でもあり、この苦境を乗り越えながらも生き様とする理由でもある」

「しかし、それは」

 複眼が瞬き、ゼロが笑った様に見えた。

「君がそんな顔をするのかい、メイファ。幻龍は、紅蘭が人類を救う為に開発したノアの箱舟だ。その目的を無事果たしたとしても不自然では無いだろう。それとも中核にいた君自身、この計画に懐疑的だったのかい」

「そうは言わない。だが、最優先されるべきは人々の命を救う為に地球を離れる事だった。その先は、私とて全てを聞かされていた訳ではない。世界が滅亡に向かう混乱の中で、唯一の可能性に望みを託して強行された計画だったからだ」

「無責任な話だな」

 メイファに向かって飛ばそうとする吸殻を、ユウキが叩き落とした。ブーツで踏み消し、渾身の怒り顔でライゾウを睨み付けてからゼロへ向き直る。

「ちょっと待ってくれゼロ。つまり、光速潜航から抜けた理由は、幻龍が新たな移住先を見つけたと言う事なのか」

「その可能性は無きにしも非ず。この件に付いては詳しくデータを解析しないと分からない。しかし、幻龍が亜空間を抜けたと考えられる要因は、この二つだ」

「嘘だろ。それなら、俺達は」

 駈け出さんばかりのユウキの背中に、ライゾウは溜息を付きながら艶消しな言葉を投げ付けた。

「先走るなユウキ。ゼロは潜航ドライブが止まった原因の話をしているんだ。幻龍が移住可能な惑星に到着しました。俺達は助かった、目出度し目出度し。なんて、そんな能天気な話があるか」

「能天気って言うな。どうしてそんな事を言うのさ。可能性の話をしているんだから、前向きに考えたって良いじゃないか。ライゾウは何時もそうやって斜に構えて」

 ライゾウは手を振ってユウキの話を遮った。

「お前の純粋で、前向きな気持ちは良く分かった。だがなユウキ、ひとつ忘れている事があるぞ」

「忘れている事」

 口をとがらせていたユウキは、腕を組むと視線を天井へと向けた。苦境の中でも、少年らしく若々しい姿を失わない様が微笑ましい。

「これだ」

 ライゾウはタバコ臭い指で、ユウキの額を弾いた。

「痛っ。何するんだよ」

「もう一つの現象だ。ユウキ、お前は幻龍が亜空間を抜けた事と、幻龍に何かが衝突した事が偶然だと思っているのか」

「違うのか」

 まだ痛む額を押さえながら、ユウキが驚いて見返した。

「講義を続けてやれ」

 ライゾウが横柄な態度でゼロに顎を振る。

「このふたつは切り離せない案件だと考えているが、同時に究明する事は難しい。だが、一方を紐解いて行けば自然と相互関係が明らかに成るだろう。光速潜航ドライブが止まった事実は大変重要だが、今我々が最優先で対処しなくては成らないのは、ふたつ目の現象だ。まず、こちらを考えて行こう。先程、幻龍のお尻に何かが衝突した。幻龍の全長から考えると小石の様な物だが、少なくともユウキがベッドから飛び出す程の衝撃だった。此処までは良いかな」

 ゼロは赤くアラートが表示されている幻龍の船尾部分を差してから、指先をユウキの額へと向けた。

 不本意ながら、ユウキは額を押さえながら頷いた。

 そしてゼロは天井を指差し、パネルに表示されている幻龍までの空間に見えない軌跡を引いた。

「事実だけを見れば、幻龍に何かが衝突したと言う単純な現象だが、これは明らかに不自然だ」

「何故だ」

 そう疑問を口にしたのはユウキではなく、メイファであった。訝し気な表情とは裏腹に、艶やかな黒い瞳がパネルの光を反射している。

 ゼロは頷くと今度は幻龍の俯瞰図に対し、斜めに走っている赤いラインを指なぞる。それは局部的なダメージが連なり合っている為に、線状に見えているのである。

「皆も知っての通り、幻龍の船体には大きな穴が開いている。そのダメージの影響で、幻龍に搭載されている高機能なソフトウェア、ライフライン、その殆どが機能不全に陥っている。これらが生きていれば今我々が宇宙のどの辺りに居て、何処へ向かっていて、周囲の星々の詳細なデータも確認出来たであろう。だが残念な事に、今は最低限のライフラインしか動いていない」

 ゼロの説明に答える様に、部屋の照明が増減を繰り返した。ユウキが不安気に天井を見る。

「さて、これだけの穴が開いていながら幻龍内の酸素、気圧が保たれているのは何故か。勿論、何重もの防護壁が作動した事もある。だが、それだけではない」

 繊細な挙動を見せる指がパネルの一部に触れると、幻龍全体を包むカプセル状のレイヤーが表示された。

「この様に、幻龍の周囲にはシールドが張られている。これは光速潜航による亜空間入出時であろうと、慣性航行時であろうと常に内外からの異物の侵入、流出を防いでいる。このシールドは幻龍の制御システムからは切り離されている為、機能不全に陥っている現在の状況でも稼働して我々を守ってくれている。逆に言えば、こんなダメージを負っていながらも、我々を守りながら光速潜航を続けていた事は奇跡と考えて良い。人類移住と言う夢を具象化した超高性能である証明だ」

「神礼家が秘密裏に製造した船だ。自分達が生き残る為に、どんな卑劣な手段を払ったかは想像に容易い。其処には大和の犠牲も含まれている。幻龍は、人類のあらゆる希望と死を飲み込みながら産み出されたのだ」

 ライゾウは彼女の横顔に目を向けたが、何も言わなかった。メイファは独白の後にパネルを触り、幻龍の俯瞰図を回転させて上下左右から確認した。初期段階からその計画を掴んでいた為に、他の者より幻龍の構造に詳しいのであろう。ゼロの伝えたい事が深く理解出来た様子である。

「確かに、これは気持ち悪いな。残念ながら嫌な予感しかしない。私達の想像より、ずっと」

 言葉を飲み込んだメイファに、ユウキは忙しく視線を動かした。理解出来ていないのは自分だけなのか、と言う気持ちからである。

 ライゾウはと言えば、興味を失った顔でデスクへ座り直すと新たなタバコを取り出していた。

 そんなユウキの心配を他所に、ゼロが再び話し始める。

「そう。今メイファが〝気持ち悪い〟と言った様に、この衝突は不自然なんだ」

「早く結論を言ってやれ。遠回しな説明だと何時まで経っても、このおバカさんには理解出来ない」

 タバコを咥えたライゾウが、火を付けずに口元で持て余していた。片足を抱えると、苛々しながら足先を揺らし始めた。

 横目でライゾウを睨んだユウキが、ゼロとメイファに顔を戻しながら頭を掻いた。

「何故、不自然なんだゼロ。俺には良く分からない。隕石か何かが、只ぶつかった訳じゃないのか」

「そうだね。まず、今説明したシールドの問題だ。このシールドは、光速潜航時に発生する重力波からも船体を守ってくれる強力な代物だ。つまり、簡単には破られないと言う事だ」

 ゼロは幻龍の俯瞰図に指を突き刺し、それが反射する仕草をした。彼の指や手首は何層もの外装により構成されているが、互いに干渉する事なく滑らかに動く。捻りを加えた動きも、人間さながらである。

「とは言えシールドにも限界があり、防御力以上のエネルギーを受ければ当然破られる。では具体的に幻龍のシールドを破るには、どの程度のエネルギーが必要なのか」

 もしかしたら自分達は助かるのではないか、と言う期待を胸に話を聞いていたユウキであったが、次第にその顔色が冴えなく成る。

 ゼロやメイファが覚えた違和感が忍び寄って来たのである。彼にも、薄っすらと不自然の正体が見え始めた。

「ユウキ。幻龍の穴は誰が開けたかは、当然知っているね」

「ホライゾン・イーグル」

「正解だ」

 ユウキは苦虫を噛み潰した様な顔をした。

 正解も何もない。

 彼に限らず、この幻龍に乗っていた者に取っては、一生掛かっても消えない残酷な記憶として刻まれている。そしてユウキ自身も、もう少しで原子レベルにまで焼き尽くされる所だったのである。

「此処に居る全員が記憶している様に、幻龍のシールドを突き破るには、ホライゾン・イーグルが放つ〝神の雷〟エクサロン・ビームの様な超弩級のエネルギーが必要だ」

 何かを思い立ち、ユウキは声に成らない声を上げた。開いた口からは何も発せられない。しばしの時間を得て、整理された思考と共に宙に舞っていた焦点が戻って来る。

「すると、さっき衝突した何かはエクサロン・ビームでないと破れない程のシールドを突破した、と言う事なんだな」

 頷いたゼロの横から腕を伸ばし、メイファが再び幻龍の船尾部分を表示させた。赤く点滅しているアラート部分を注視する。

「だからこそ余計に不自然ね。この衝突した物体は、ホライゾン・イーグルが貫通させた第七階層にまで喰い込んでいる。シールドを突き破ったエクサロン・ビームと同等のエネルギーを有しているのなら、衝突時の衝撃は先程とは比べ物に成らない筈」

「大きさの問題じゃないですか」

 メイファの洞察に感歎した様子で、ユウキは更なる解説を求めてゼロを仰いだ。

「そう。ユウキの言う通り、その大きさが問題なんだ」

 メイファの後をゼロが受け継いだ。

「仮に、先程衝突した物体が小型の隕石とするのなら、シールドを突き破った時点でエネルギーの大半を失い、最大でも第二階層辺りを破壊する程度だろう。それでも、幻龍が受ける衝撃は、ユウキが痣を作る程度では済まない」

 話を聞いていたライゾウは鼻を鳴らし、脚を組んだまま再びタバコに火を付けた。吐き出した煙は換気の悪い部屋に漂い、陰気な空気と重たく交じり合う。

 目を細めると、パネルを見ながらライゾウが言う。

「これは、完全に兵器だな」

 彼の断言に、ユウキは素っ頓狂な声を上げた。

「ラ、ライゾウ。何を言っているんだ。この宇宙を彷徨っている状況で、俺達が誰かから攻撃を受けたって言うのか」

「その意図や理由は分からん。だが、幻龍に突っ込んだこれは、どう見てもバンカーバスターだろう。シールドと外装甲に穴を開け、さらに何フロアもぶち抜くなんて、あからさまな地中貫通弾の特性だ」

 あまりに突拍子のない発言に、ユウキは口を開けたままゼロとメイファに視線を向けた。同じ様にライゾウの発言に呆れていると思っていたのだが、ふたりとも静かにパネルを見返していた。

「冗談でしょう」

 ユウキの背筋に冷たい気配が忍び寄り、陰惨な未来が垣間見えた。微かな希望は凍結され、再び血が流れる光景に彼は吐き気が込み上げた。

「残念ながら、ユウキ。これは人工物である可能性が非常に高い。我々人間と同じく、知能を持った存在が明確な目的を持って製造した物と考えられる」

「ちょっと待ってゼロ。ライゾウ、メイファさんも。俺達は、宇宙人に攻撃されたって訳なのか。そんな事有り得ないでしょう。皆本気で言っているの」

 ユウキの視線から顔をパネルに戻すと、知らず心理的な不安からか、無意識にメイファは豊かな胸を抱える様に腕を組んだ。

「余り信じたくないけれど、有り得るわね」

「ど、どうしてそう言い切れるの」

 ユウキは血の気が抜けた顔を向けた。

「ゼロが言った様に、幻龍が本来の目的を遂行したと仮定して、人間が生存出来るハビタブルゾーン・生存可能領域を持つ惑星を見付けた。と成れば、その惑星に我々人類と同じく高度な文明を築いていた存在が居て、宇宙空間に防衛施設を設置していたとしても可笑しくはない」

「いや、可笑しいよ。そんな天文学的な確率にぶち当たるなんて信じられない。そんな映画みたいな馬鹿な話、本気で言っているの。なんで皆そんな冷静なのさ。仮に、もし仮に、宇宙人が攻撃して来たのなら戦う気なの」

「落ち着けユウキ」

 思わずメイファに詰め寄ったユウキの後ろ襟を、ライゾウが掴んで引き戻した。

「俺も、そんな馬鹿な話があるか、とは思っている。だが、幻龍に人工物と思われる物が突っ込んだのは事実だ。此処でグダグダ言ってても何も始まらん」

「その通りだ。これは我々の行く末を左右する重大な事件だ。その為には、状況把握と事実確認を行わなくては成らない。そうだろうメイファ」

 複眼を瞬かせて振り向いたゼロに、メイファは髪を整えると小さな溜息を付いた。

「そうね。将軍に」

 メイファは刹那、口を閉じて言い直した。

「レオに、武器庫を開けて貰わないと成らないわね」

 ライゾウが口元を歪めた。

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