第9章〜最後の思い出に〜

第1話

 

 いつも通りの、ねずみたちの世界の朝が来た。

 雲の多い青空を見上げながら、ゆっくりと庭の水道に向かって歩いていると、ポンっと誰かがぼくの背中を叩いてきた。



「おっはよー!」



 ……チップくん。いつものように元気に挨拶をしてくれた。



「あ、おはよう……」


「今日も、おじさんのとこへ野イチゴをもらいに行こうー! ナッちゃーん、はやくー!」


「待ってえー!」



 あと3日でもうチップくんたちと会えなくなるなんて、とても信じられない。これから先もこの立派なコナラの家で、幸せなねずみの家族と一緒に生活していける気しかしない。みんなとの朝ごはんもあと3回だけなのだが、頭の中の整理がつかなくて、折角の美味しいごはんも味わって食べることが出来ない。

 ナッちゃんが、ぼくの顔を覗き込んで言った。



「どうしたの? マサシ兄ちゃん、まだ眠いの?」


「……いや、その……」


「そんなんじゃ鬼ごっこですぐに追いつかれちゃうよ! ジュース飲んで目を覚ましてー!」


「わわっ! ナッちゃん、ちょっと……! ぶはっ!」



 ナッちゃんがしぼりたてのジュースを無理矢理飲ませてきたので、ジュースがこぼれてぼくの服はベトベトになってしまった。



「あーあ、びしょぬれだあ!」


「うふふ、すぐ着替え用意するわね」


「……ふ、ふふ。もうナッちゃんたら」



 ……だけどみんなと一緒に笑っていると、考え込むのがバカバカしくなってしまう。残された3日間、ぼくはねずみたちとの時間を、目一杯楽しむことにした。


 朝ごはんを片付けた後、チップくんとナッちゃんはすぐに遊びに行ってしまった。ぼくは後から行くとだけ言って、庭のテーブルにぼーっと座りながら、鳥の声が響く静かな森を眺めていた。



「マサシくん、どうしたの? 何かあった?」



 モモちゃんが声をかけてきた。あと3日しかここに居られないのが辛いことを、やはりごまかすことは出来ないようだ。それでもぼくは、平気なフリをする。



「……うんん、大丈夫だよ」


「そう……? 何かあったら話してね?」


「うん、ありがと。じゃあ、チップくんたちと遊んでくるね」


「大丈夫? あとでまたクッキー持って行くね」


「うん! 楽しみにしてるね。行ってきまあす」



 ぼくはチップくんたちと合流し、ねずみの子供のみんなと、鬼ごっこ、はないちもんめ、ドッヂボール、魚捕りなどをして、目一杯遊んだ。なるべく考え込まないように、少し無理して元気を出しながら。



 ♢



「……そうなんだ。イセカイ? ってとこから来たんだね。」


「……うん。チップくんたちが住む世界とは、全く別世界」



 少し遊び疲れたので、ぼくはチップくんと一緒に野原の丘に座り、青い空を見上げながら話した。



「マサシ兄ちゃんたちの世界、行ってみたいなあ」


「あはは……。ねずみの子供たちみんな呼んだら、楽しいだろうな」


「ニンゲンの子供たちと、お友達になってみたい! そして、たくさん遊びたい! ……きっとステキな世界なんだろうなあ」


「……うん、そうだね」


「マサシ兄ちゃんのおとうさんおかあさんとか、お友達にも、会ってみたいな」


「うん……」



 ——幼少期、ぼくは酔った父に殴られた。その傷が、体の一生傷になっている。ある日母から、「そんな子はいらん、もう死んだら?」って言われた。その言葉が、心の一生傷になっている。のちに両親は離婚した。

 SNSでアンチコメントを続けていた奴が、まさかの、付き合いの長い親友だった。そいつのせいでぼくは、誰も信じられなくなった。

 生きていくためにお金を稼がなくてはならない。そのお金が原因で、たくさんのトラブルや悩みが付き纏った。

 事件や事故、災害がどこかで毎日のように起き、大切なものがいとも簡単に奪われてしまうのが、ぼくらの世界。

 幸せな瞬間などほんの一瞬で、痛み、苦しみ、悩みは尽きない——それが、ぼくらの住む世界。


 ——を忘れ、ぼくの頭の中に再び、ネガティブな考えが渦巻いた。



「どうしたの?」


「ぼくらの世界には、来ない方がいいよ」


「え、なんで⁉︎」


「ぼくらの世界、惨たらしい事があまりにも多いから」



 ねずみたちの世界は、そんな惨たらしい話は一切聞かない。誰もが幸せに生きており、ねずみ同士大切に思い、そして完璧な社会システムが機能している。そんな世界に住む、痛みに無防備なねずみたちがぼくらの世界に来ても、ショックを受けるだけだろう。



「ええ……、例えばどんな?」


「それはとても言えない。言ったら傷つくと思う」


「傷つくって? なんで?」


「いや、知らない方がいいよ、ほんと」



 ぼく自身も、たくさん酷い事をしてきた。

 中学生の時に、大事にしてたゲーム機をクラスメイトに壊され、怒りのあまり、拳でぶん殴ってケンカになり、大怪我を負わせてしまったことがある。

 どうしても欲しい物があったがために、「学校の授業で必要だから」と、親に嘘をついて多額のお金をもらってしまったこともある。

 クラスメイトの体型のことをバカにして笑った友達とぼくも一緒になって、みんなの前でしつこくいじって、その人を登校拒否にさせてしまった事もある。

 ムカつく相手のブログの炎上を、煽ったこともある。


 素直で優しすぎるねずみたちと触れ合っていると、自分の中の汚い部分も、よりくっきりと見えてしまう。そんな部分を含めての、自分自身なのだ。そんな部分を含めての、人間なのだ。だけどチップくんたちには、ぼくのそういう汚い一面は見せたくはない。


 ——少し間を置いて、チップくんは言った。



「そっかあ、マサシくん色々大変なんだね。もし何かあったらいつでもぼくらの世界においでよ」


「……ありがとう」


「僕らずっと、友達だからね」



 友達、か。もう、裏切らないでくれよ。友達とか言いながら、ぼくをいいように利用して最後は離れていってしまったりしないでくれ。

 ……一瞬でもそう思ってしまった自分が、とても情けなかった。



『思うだけだと、何も悪いことは起きないと思ってしまっている。でもそれは、自分から毒キノコを食べているようなものなんじゃよ。今のマサシくんの境遇は、全てマサシくんの心が作ったものなんじゃよ』



 おじいさんが昨夜言っていたことを、ふと思い出す。疑ったりネガティブな考えに支配されると、いずれ現実もそうなってしまう。ぼくは嫌な考えを振り払い、チップくんに言った。



「ありがとう。ぼくもずっと友達だよ」



 チップくんはぼくの言葉を聞くと、一点の曇りもない表情で笑いかけてくれた。その笑顔を見て、ぼくの心に棲まう黒い物が自分の中から出て行ったような——そんな気がした。



「ありがとう、マサシ兄ちゃん! さ、またヒミツキチへ行こう!」


「もうちょっとだけ、休んでから行くよ」


「わかった! 待ってるねー!」



 これからは、ステキな未来を、ステキな世界を、ステキな人生を創るんだ。ぼくは空を見上げながら、楽しかったこと、嬉しかったことを思い浮かべてみた。


 父に、遊園地にたくさん連れて行ってもらった。おもちゃもたくさん買ってもらった。ステキな思い出だ。

 母は、美味しいご飯を毎日作ってくれている。そのおかげで、身体は元気だ。

 小学校からの付き合いの親友は、何か悩むたびに相談に乗ってくれて、休みの日にカラオケでバカ騒ぎする時間がとても楽しい。

 大変なことが多い世界でも、支え合いながら愉快に生きている人だってたくさんいる。

 近所には美味しいレストランがあるし、スマホで好きなゲームだってやり放題。SNSで色々な人と簡単に繋がることもできる。季節ごとに綺麗な景色が見られる自然いっぱいの公園もある。そして、大好きな音楽を存分に出来る環境もある。


 ——結構幸せじゃんか、ぼく。



「……晴れてきたな。今日もいい天気になるよ。さ、チップくんのとこへ行こう」



 前向きな気持ちになったぼくはそう独り言を言って、チップくんたちのところへ戻ろうした。

 ——その時。



「だめだって、おい! 見つかる!」



 ヒミツキチの方から聞き慣れない声が聞こえた。明らかに、ねずみの子供の声ではない。一体何者だろう。

 ――ぼくは、耳を澄ませてみた。

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