6.新たな人生(5)新たな人生

 杏子はいつの間にか眠ってしまったようだった。階下から賑やかな笑い声が聞こえてくる。一瞬、ここはどこなのだろうかと戸惑う杏子であった。ドタドタトした聞き覚えのある足音が近づいてくると思ったら、すぐに襖が大きく開けられる。

「杏子、いつまで寝ているの。起きて手伝いなさい」

 母の声だった。

「何でいるのよ」

「何で、ってお客さんをお連れしたから。というか、今日はお隣のご家族がここを利用したいって言うので準備をしているのよ。これからお客様が来るのだからあなたも手伝いなさい」

「えっ、どういうことよ」

「あら、言っていなかったかしら?時々、ここにお客様を招いているのよ。今はシーズンオフだけれど、子どもたちは海岸で遊ぶのを楽しみにしていてね」

 そう言うと、さっさと下に降りていく母だった。

「なによ、もう・・・」

 階段を降り台所に行くと、父が魚をさばいているところだった。

「おお、杏子か、もうお昼過ぎだぞ。腹減ってないかい?」

「うん、少し・・・」

「じゃあ、父さん特性の鯖サンドだ」

「えっ、美味しそう」

「コーヒーもあるぞ」

 杏子はコーヒーを飲み、鯖サンドを食べた。

「三時にはお客様が来るのだから、ちゃんとしなさいね」

 掃除の終わった母が台所に入ってきた。

「でも、昨日あなたが掃除をしてくれたおかげで、今日は楽だったわ。ありがとう」


 三時を過ぎて二台の大きな車が駐車場に入ってきた。

「ほら来たわ、さあ、頑張りましょう」

 母の号令で父と杏子も立ち上がった。


 お隣のご夫婦と娘家族、息子夫婦の合計八人が民宿にやってきた。最後に真が顔を出す。

「俺も智和の車に乗せてもらった」

 真は愛莉と彩夏を送っていき、レンタカーを返すと智和の車に同乗したのであった。何だか最初からそういう筋書きだったようである。知らなかったのは杏子だけであった。

「ねえ、何で私だけ知らなかったのよ」

「俺がここに来ることになって、智和に話をしたら来たいって言うからお袋に話をして、こういうことになったわけ。姉ちゃんにも言っていなかった?」

「私・・・」

「まあ、それはもういいから、父さんと母さんの手伝いを一緒にしようよ」

 それからは目まぐるしい時間が過ぎて行った。


 翌朝九時前には、お隣一家は近くの水族館に行くと言って民宿を出た。

「ああ、疲れた、疲れた」

 杏子は清々した顔で言った。

「姉ちゃんそんなに働いたか?」

「働いたわよ」

「二人ともありがとう。一休みしましょう」

 家族四人で座敷に集まった。開け放った縁側の窓から心地よい風が吹いてくる。この縁側でスイカを頬張った思い出が蘇ってきていた。杏子の心にも穏やかな風が吹き寄せる。

「ちょっと二人に話があるの」

 母が珍しく真剣な顔で言った。

「何?」

「実は家を売ろうと思って」

「ここを?」

「違うわよ、今住んでいる方の家を売ってここに引っ越してこようかと思っているの」

「えっ、どうして?」

「ここの民宿を再開させようと思っているの」

「良いと思うよ」

 真はすぐに賛成をした。杏子は黙っているだけだった。

「俺もここで手伝うよ。図書館の仕事はこっちで探してみるし」

「杏子はどうする?」

「ちょっと考えさせて」

 杏子はそう言って二階の部屋に上がった。


 家に帰ってきても喫茶店のアルバイトへも行かず、一週間以上、杏子は一日中部屋にこもっていた。今は誰とも顔を合わせたくはなかった。合わせる顔がなかったとも言えた。

「杏子、お客様よ」

 母の言葉に胸の鼓動が早まる。

「えっ、誰よ?」

 締め切ったドアを無理やりこじ開けたのは、友だちの早紀だった。

「あら、ノーメイクの顔を見たのは高校生以来かな」

 早紀の強引さに杏子は目を丸くした。

「ねえ、いつまで休んでいるのよ。会長さんも心配しているわよ」

「だって・・・どんな顔して行けばいいのか・・・」

「そうよね。まあ、でも皆さん、もう忘れているわよ」

「そんなことはないでしょう」

「そうね。忘れてはいないか。ちゃんとあやまったの?会長さんと娘さん、それに間違えた方の愛莉さんにも」

「それは・・・」

「ちゃんとあやまって、心を入れ替えたことを報告しないと」

「心を入れ替えたって・・・」

「えっ、心を入れ替えていないの?」

「それは・・・」

「じゃあ、どうしたいの?」

「何も考えられないのよ」

「そうか。そうかもね。でもね、ちゃんと考えないと、自分自身のこれからの人生を」

「ちゃんと、ちゃんと、って、うるさいな」

「ちゃんとあやまって、ちゃんと考える、どうしてそれができないのよ」

「どうして・・・だって・・・」


 杏子は無理やり喫茶店に連れ出された。喫茶店に行くとすでに虎之助と愛莉ともう一人の愛莉が来ていた。店は貸し切り状態になっていた。

「ほら、杏子、何か言うことがあるでしょう」

「あの・・・この度は、本当に申し訳ございませんでした」

 杏子は頭を下げたままだった。

「杏子ちゃん、もういいから。頭を上げて」

 虎之助の優しい言葉に杏子はますます顔を上げられなくなる。

「ほら、杏子、もういいよ」

 早紀が杏子の身体を抱えて椅子に座らせた。

「ねえ、杏子、これからどうするの?」

「うん、両親と一緒に民宿を手伝います」

「あの民宿は立地もよく環境も抜群だから、上手くいくと思うよ。何か資金援助は必要ないのかい?」

「ありがとうございます。今住んでいる家がお隣に売れたので、お金の心配はないって、両親が言っていますから」

「それなら安心だね」

「私、今度はゆっくりあの民宿に行きたいわ」

 虎之助の孫の愛莉が言った。

「一緒に行きましょうね」

 もう一人の愛莉が言うと、マスターも早紀も手を上げ出した。

 杏子にはまだ、本当に大切なことが何なのか、自分はどうしていきたいのか、答えは出ていない。だが、これからは家族とそして縁のあった人たちと支え合って、自分の人生を切り開いていく勇気は持てていた。

「それじゃあ、杏子の新たな人生に乾杯しましょう」

 早紀の号令でシャンパンが注がれ、杏子は高らかにグラスを持ち上げた。

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もう一人の私 たかしま りえ @reafmoon

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