6.新たな人生(4)それぞれの思い
「姉ちゃん、ちょっといいかい?」
真が廊下で呼んでいた。
「なあに?」
「下にお客さんが来ている」
「えっ、お客さん?」
「虎之助さんという人とその娘さんと喫茶店のマスターが」
杏子の顔は引き攣っていた。
「どういうこと?」
「いいから、下で待っているよ」
真の言葉に優しさは消えていた。
鍋を囲んでいた和室のテーブルは、片付けが済んでいた。真と彩夏と愛莉が正座をしている。向かいの席にはマスターと虎之助そして見知らぬ女性が座っている。杏子が呆然と立っていると虎之助が笑顔を向けた。
「まあ、杏子ちゃんこっちに座って」
杏子は指定された席につく。全員を敵に回したような恰好だった。
「姉ちゃん、聞いたよ。でも、間違えたようだね。姉ちゃんが探していた吉村愛莉さんはこの人だよ」
真は虎之助の隣に座っている女性を示した。杏子は下を向いたままだった。
「まあ、でも、無理やり連れてきたわけではないようだし、何事もなかったのだから」
虎之助の寛容な態度に真以外はホッと安堵する。
「どうしてこんなことを」
真は杏子に迫った。杏子は肩を震わせていた。
「警察に連絡しましょう。これは明らかに誘拐事件だ」
杏子は真を睨みつける。
「だってそうだろう。何やっているのだよ、姉ちゃん。俺、二人の愛莉さんにどう謝っていいのか」
「真さん、私は怖い思いをしたわけではないし、楽しくここで過ごしていただけだから」
「でも、人様からお金を取ろうなんて、情けない」
「そうだね。どうしてお金が必要だったのかな?」
虎之助が優しく杏子に問い質した。
「それは・・・」
杏子は答えられなかった。どうしてかと聞かれても人に説明することはできなかった。
「姉ちゃんはお金さえあれば、人生やり直せるとでも思ったのだろうけれど、お金があったって、今のままの姉ちゃんだったら、いくらお金があったって幸せにはなれないよ」
「どういう意味よ」
杏子は真を再び睨みつける。今の杏子にはそれが精一杯のことだった。
「家族のことだって馬鹿にしているだろう。母さんは姉ちゃんが思っているような卑屈な性格でもないし、父さんだって役立たずの怠け者じゃないよ。俺のことだってオタクの引きこもりだって思っているだろうけれど、まあ、それは外れてはいないけれど、俺だって何とかやっている」
「真さんはとっても優しくて思いやりがあって、素敵・・・とまでは言えないけれど・・・」
愛莉の言葉に彩夏が吹き出す。
「あっ、すみません。場違いでした。確かに真さんは立派です」
「いいよ、二人とも。でも、ありがとう」
真は照れていた。
「お金で解決できることが多いのは事実だからね。杏子ちゃんの気持ちは私が一番よく分かっているよ。私も昔は人を騙すようにしてお金を稼いでいたからね。だが、そうやってお金を稼いでも虚しいだけだったよ。今更言っても何にもならないけれど」
「だったら、私はどうすれば・・・」
杏子は下を向いたまま言った。
「この旅館を再開したらどうでしょう?」
彩夏が無邪気に言い出した。
「だって、勿体ないじゃないですか」
「でも、私は料理も何もできないから・・・」
「そんなのやってみないとわからないじゃない。料理なんてやって覚えるしかないのだから」
「姉ちゃんは地道に働くってことを知らないから」
「何よ」
またしても真を睨む杏子だった。
「何だか出しゃばってしまって、すみません。少し前の私もお姉さんのようにお金さえあれば、とか、親が金持ちだったらなんてことばかり考えていました。でも、愛莉ちゃんは違った。一人ぼっちなのにお総菜屋さんと古着屋さんで働いていて、夢まで持っていて。いつも笑顔が絶えなくて・・・そんな愛莉ちゃんと知り合って、私も変わることができたから。人に頼ってもいいんだって思えたし、貧乏だって辛くない、楽しいって思えたし・・・何だか負け惜しみみたいですが・・・」
「負け惜しみなんかじゃないよ」
真はきっぱりと言い切った。
「家族で支え合って、近くにいる人たちとも支え合って、そうやって楽しく暮らせている人が勝ちなんだよ。絶対に」
真の言葉に杏子は泣き出していた。
杏子は布団に横になり、眠れないまま時間ばかりが過ぎていた。このまま死んでしまいたい。そんな思いが頭を駆け巡るのであるが、死ぬ方法を見つける気力すら残ってはいなかった。自分の試みが失敗したことに情けなさと恥かしさが押し寄せてくる。どうすれば成功したのだろうか、そんなことを漠然と考えていた。愛莉がもう一人いるなんて想定外だった。もっと、調べればよかったのか、誰かを協力者にすればよかったのか。自分がしでかした大事件を否定する気持ちは微塵も持てないでいた。今の杏子に反省という文字はなかった。
翌朝、起きてこない杏子を愛莉が心配していた。
「杏子さん、大丈夫かしら」
「俺が見てくるから」
真は杏子が寝ている部屋の廊下に立った。
「姉さん、起きている?」
返事はなかった。
「朝ごはんができたよ。皆で食べよう」
杏子は真の声が聞こえないよう、布団を頭までかぶった。襖が開く音がする。
「ゆっくり寝たほうがいいかもね。気が済むまで寝て、お腹が空いたら何か食べればいいさ。俺たちは食事が済んだら帰るから。じゃあね」
何事もなかったかのような真の言葉に、杏子は涙を止められないのであった。
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