6.新たな人生(3)間違えられた二人
虎之助は孫の愛莉と行きつけのフレンチレストランで食事を終え、最近お気に入りの喫茶店にやってきた。
「もう、閉店時間かな?」
「いいえ、まだ大丈夫ですよ。お嬢様もどうぞ、どうぞ」
マスターに快く迎えられ、虎之助は愛莉と今度はカウンター近くの席に落ち着いた。
「今日はマスターお一人ですか?」
「はい、バイトの杏子ちゃんは休みで、娘も妻もどこかへ出かけているみたいで」
「それは大変ですね」
「いいえ、いつもこの通り暇ですから」
誰もいない店内を見渡して屈託なく笑うマスターに、愛莉もつられて笑っていた。
「ここの雰囲気、私も好きだわ」
「だろう。仕事、仕事で飛び回っている時には、こういうお店の良さがわからなかったのだがね」
「お父様に時間ができて私も嬉しいわ。今までだったら外でのお食事なんて考えられなかったもの」
「マンションに行っても、お前の顔を見たらすぐに帰っていたからな。これからはもっと愛莉との時間を増やすよ」
「良かった。もっと、お祖母様のことなど聞かせてくださいね」
そこに虎之助の携帯が鳴る。知らない電話番号だったため出ることはなかった。
「電話に出てくださってもよかったのに」
「いいや、知らない番号だから。おや、留守電が入ったみたいだ。聞いてみよう」
留守電を聞いた虎之助は怪訝な顔をした。
「どうなさったの?」
「いいや、お前を誘拐したって電話が・・・」
「誘拐?」
大声で反応したのはマスターだった。
「何かの間違いかな。お前はここにいるし」
「ちょっと待って、もう一人の私がいるの」
「もう一人の?どういうことだ?」
「同姓同名で生年月日が同じ子がいるのよ。ちょっと待って、その子とはアプリで位置情報をお互い確認しているから。あら、今は海の近くに・・・お父様、お願いします。私が誘拐されたことにして、要求を聞いてください」
「だが・・・」
「お願いします。私の初めてのお友だちなの」
愛莉の必死な態度に虎之助の心も動いた。
「わかった。その子のいる場所はわかっているのだね。騙されたふりをしてその子を助けに行こう」
「ありがとう、お父様」
愛莉はもう一人の愛莉に電話をかける。
「愛莉さん?大丈夫?」
「えっ、何?今ね、お友だちとあるところに来ているの。アプリでわかるわね」
「そこにはどうして行ったの?」
「お友だちのお父さんの実家が元民宿で、誘われたの。とても素敵なところよ」
「監禁されているわけではないのね」
「えっ、どうして?」
「いいえ、何でもないわ。この電話は皆に聞かれているの?」
「いいえ、洗面所に一人でいるわ」
「そう、どなたと一緒にいるのか教えてくれるかしら?」
「ええと、真さんと彩夏さん、どちらも図書館で働いている人。で、もう一人、真さんのお姉さんで杏子さんという人」
虎之助は携帯から聞こえてくるもう一人の愛莉が言う名前を聞いてハッとした。
「愛莉さん、この電話を受けたことは誰にも知られていない?」
「ええ、そうよ。どうして?」
「電話を受けたことは誰にも言わないで。私が行くまでそれまで通りに過ごしていて」
「ここに来るの?どうして?」
「行ったときに説明をするわ。わかったわね。お願い、私の言う通りにして」
「わかったわ。何かあったのね。愛莉さんの言う通りにするわ」
愛莉は電話を切って虎之助の青ざめた顔を見た。
「お父様、どうなさったの?」
電話が聞こえていたマスターも驚きを隠さなかった。
「杏子ちゃん・・・」
二人は同時に声を出していた。
虎之助と愛莉とマスターは待たせてあったハイヤーに乗り込んだ。運転手は愛莉をもう一人の愛莉の家まで連れて行ってくれた人だった。
「愛莉さんが大変なの、ここまで行って下さらないかしら?」
愛莉は住所を運転手に教えた。
「金は余分に払うから、お願いするよ」
「はい、畏まりました。二時間くらいで着くかと思います」
運転手は何も聞かずに車を走らせてくれた。そこに再び電話が鳴った。虎之助は落ち着いて電話に出る。
「はい、私だ。わかった言う通りにする」
指定された時間は明け方の四時で、場所は愛莉のいる民宿近くの海岸だった。
「杏子ちゃんはどういうつもりで・・・」
マスターは居ても立っても居られない様子だった。マスターが動揺すればするほど、虎之助も愛莉も落ち着いてくるのだった。
「私の態度が悪かったのかもしれないな」
「それはないですよ。杏子ちゃんが勝手にお嬢様を妬んで・・・」
「私を妬む?」
「ええ、杏子ちゃんはどうも人生に絶望をしていて、お金持ちのお嬢様を勝手に妬んでしまったのでしょう。明るくていい子なのですが、見栄っ張りで浪費家なところがあるから・・・」
「私なんて妬まれるほど・・・」
愛莉は続く言葉を飲み込んだ。それからしばらくは誰も何も発しなかった。愛莉は会ったことのない杏子の気持ちを推し量ろうとするのだが、それは無理な話であった。愛莉はしばらくの間、呆然としていた。
「このあたりですね」
運転手の声にハッと我に返る愛莉だった。虎之助もマスターも同じような表情をしていた。
元民宿の窓には明かりがともり、賑やかで楽しい雰囲気が漂っていた。虎之助が玄関を開けると鍵は閉まっていなかった。
「ごめんください」
虎之助の声に賑やかな笑い声が止む。
「誰だろう?」
真が玄関に出てくる。杏子は二階にいたため虎之助の声は届かなかった。
「愛莉さんはいらっしゃいますか?」
「あっ、はい」
「愛莉さん、いらっしゃい」
愛莉が笑顔で三人を出迎えた。そこには悲痛な光景とは無縁な世界が広がっていた。
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